061:粗暴なる男
鮫島の過去を語る暗い話になります。
鬱展開と暴力描写が嫌いな方は、061と062は飛ばして読んで下さい。
東京都の北側から東側に流れる荒川という大きな河川がある。
元々は隅田川の洪水対策のために作られた人造の川であるが、今やその広大な河川敷は多くの人で賑わうスポーツエリアである。
そんな荒川の両岸に設けられたサイクリングロードの右岸を上流に走って行くと、隅田川への水流を制御する巨大な岩淵水門に行き当たる。
そして、その先を更に上流へと進むと大きな物流倉庫や有名メーカーの大きな工場などが見えてくる。
そんな巨大物流倉庫では、大型のコンテナを積んだトレーラーや大型の貨物トラックが始終出入りをしていても目立つ事は無い、いつもの当たり前の風景である。
その一つが有する広大な倉庫の建物に併設して、地下駐車場への出入り口らしき大きな扉の付いた建物があっても不思議では無いだろう。
しかし外部からは見えない位置にあるとは言っても、敷地の入り口にある普通の警備詰め所とは別に設けられた。警戒の厳重な地下駐車場への出入り口にもある警備詰め所を外部の人間が見れば、それに違和感を覚える者がいるかもしれない。
その警備の厳重な地下駐車場出入り口の大きなシャッターが開き、その出入り口から一台の白い大きなフォード・エクスプローラーがゆっくりと敷地に隣接する一般道路へと出てくる。
やがてその車両は東京と北関東を結ぶ中山道へと合流する交差点に差し掛かり、左折のウィンカーを点滅させて左折車線に入り赤信号で停車する。
白のフォードエクスプローラーは、エクスプローラー LIMITEDと呼ばれる最上位機種である。
信号が青に変わるとV6 3.5LのDOHCエンジンは、静かにその巨体を都内方向へと動かして中山道に合流させた。
車内で運転をしているのは常人の2倍はあろうかという横幅の体躯を持つ男である。
彼は国際関係研究所というNGOの表の名を名乗っている国防軍の諜報機関に所属する鮫島 剛と言うコードネームを与えられた、荒事を得意とする工作員である。
勿論、鮫島という名は彼の本名では無い。
彼は、組織の中でも殺戮愛好家と陰で揶揄される生粋の武闘派でもある。
そんな彼は、今日も不機嫌だった。
口にした紙巻きタバコを乱暴にダッシュボードの灰皿に突っ込んで押しつぶすと、次のタバコを包帯を巻いた右手でポケットから器用に取り出して火を付け、乱暴に口に咥えた。
彼は今日だけでなく、この処ずっと不機嫌である。
そう、この男が不機嫌で無い事の方が珍しいくらい、いつも苦虫を噛み潰したような顔をしている。
彼が今現在不機嫌なのは、先程確認した西房からの指示にあった。
「どういう事なんだ、小僧を掠うのは一時中止って冗談じゃねぇぞ!」
人一倍頑丈そうなワニのような太い顎から犬歯を剥き出して鮫島が吼えている。
「あなたの気持ちは判らないでも無いけど、命令だから仕方が無いのよ」
西房は各種検査機器とマニュピレーターが接続された電子機器の塊である最先端の治療台に鮫島を寝かせて、彼の暴言を意にも介さず機械の調整作業を続けていた。
「なんで中止なんだよ! 他の組織に取られちまうぞ!!」
起き上がろうとする鮫島だが、治療台に取り付けられた拘束具によって上体を起こす事はできなかった。
しかし、その反動で床に固定してある筈の治療台が動いたのか、天井から接続されている長いケーブル類が大きく揺れる。
「他の組織の事なんて本当は気にしてない癖に、素直じゃないわね鮫ちゃんも」
西房は、揺れる診察台に少し眉を顰めながら、鮫島に続けて言った。
「あの坊やともう一人の大学生だっけ、その子たちに負けっ放しが嫌なんでしょ! 単純なんだから」
鮫島は、黙って答えない。
「その、鮫ちゃんらしくない沈黙がYESって言ってるわよ」
「クソが!、無駄口叩いてないで早く終わらせろよ」
西房の掛けた言葉に応えず、そう毒づく鮫島であった。
「鮫ちゃんには悪いけど、他の組織とも一時休戦らしいわよ。 ふふふ、今のところはだけどね」
赤い髪の毛で青々とした髭剃り痕が目立つ西房が、野太い声で意味深にそう言った。
「だから我慢しなさいよ! 今動くと鮫ちゃんでも消されるわよ」
「けっ、俺を殺れる奴が居るならやってみろよ」
そう拗ねるように嘯く鮫島の態度に、呆れたように言い返す西房であった。
「まったく!あなたのポリシーは単純なだけに、曲げるのに骨が折れるわ」
「俺は、ずっとそうやって生きてきたんだ! 負けたままじゃ終われねぇんだよ!」
フォード・エクスプローラーリミテッドのハンドルを握っている鮫島は、短くなった5本目のタバコを灰皿に押し込んで赤い火種を潰して消した。
鮫島はずっと、勝つ事に拘って生きてきた。
絶対に負けたままでは終わらせない、それが鮫島の信念にも似た強引な生き方であった。
ただ勝つのではない、圧倒的な力の差を見せつけて勝つのが鮫島のやり方なのだ。
単純な少年マンガの主人公のように、素手のファイトに拘わっている訳では無い。
もちろん、圧倒的な力の差を見せつけられるのなら肉体同士のぶつかり合いも嫌いでは無いが、武器を使ってでも何をしてでも勝たなければならない。 そんな強迫観念にも似た強い想いが、子供の頃から粗暴な鮫島を突き動かして来た自己同一性概念であったのだ。
鮫島がこれから向かう先は、新宿にある国際関係研究所である。
これから鏑木に作戦中止を取り止めるように直談判に行こうと言うのだ。
鏑木がダメならば、鮫島はその上の犬塚鋭治にも直接交渉をするつもりで動いていた。
「組織の都合なんか知るもんか、負けたままなんかじゃ終われねぇんだよ、クソが!」
そのまま組織を裏切ってでも和也と大國を殺すつもりで承認印を偽造してまで持ち出した武器や装備類が月末の装備棚卸しで発覚する。
そんな自分らしくもない焦りもまた、鮫島の背中を押していた。
鮫島の父親は俗に言うDV(家庭内暴力)の常習者だった。
裕福な家庭に生まれ、我が儘に育ってきた鮫島の父親は自分の感情を押さえられないダメ人間だった。
幼児の頃から父親の虐待を受けて育った鮫島は、体罰を受けるのは自分が良い子では無いからだと、そう思い込んでいた。
逆らえば父親の暴力はエスカレートするので、母親もいつしか幼い我が子へのDVを止める事はしなくなった。
幸いにも生まれつき体は頑丈に出来ていたようで、骨折するような大怪我は無かったが、その暴力は鮫島の心に大きな黒い影を落とすことになる。
日常的なDVは幼かった鮫島に、圧倒的な暴力による問題の解決、相手を暴力で屈服させる短絡的な解決方法を生き方の基準として刻み込んだのだ。
やがて小さかった体は年齢と共に大きくなる。
既に小学校に上がる頃には、高学年の男子並の身長と、より大きな肩幅を持っていた。
しかし、常に理不尽なDVを振るわれる側だった鮫島は、暴力に怯える体が大きいだけの臆病な少年だった。
当然虐めのターゲットには打って付けだから、連日家では父親に、学校では石留と言う同級生を中心とする数名に毎日暴力を振るわれていた。
小学校三年の頃には鮫島の身長は小柄な父親と同じくらいになっていたが、相変わらず外に対しては気が弱く仕事がうまくいかないと八つ当たりする父親からも、家庭内にストレスを抱えている同級生からも鬱憤を晴らすために虐められる日々が続いていた。
しかし、ある日それを一変させる出来事が起きた。
母親が買ってくれた白いシャツに給食のビーフシチューを頭からぶちまけられたのだ。
その上で、いつものように殴ったり蹴ったりしてくる。
毎日やっている事に人は慣れて行く。
だから、同じ事をやっていると刺激が無くなってしまうので、少しずつやることはエスカレートして行くのだが、やっている本人達はそれに気付かない。
気が付けば一番最初にやった事と比べて遙かに酷いことをやっているのだが、昨日との差は僅かな違いだけしか無いために錯覚してしまい、特別酷いことをやっているとは思えなくなるのだ。
鮫島の母親は白いものが好きな人だった。
その白いシャツも母親のお気に入りのシャツだったが、シチューの赤黒い色でまだらに染まってしまった。
その時、初めて鮫島の何かが切れた!
「うわあぁぁぁ!」
言葉にもならない叫び声を上げて虐めの加害者である石留の胸を掴むと、鮫島は親子ほども体格の違う同級生を放り投げた。
元から大人と子供程の差がある体躯の鮫島である。
その力に、加害者の少年は掃除用具を入れてあるロッカーまで見事に宙を飛んで吹っ飛ぶ。
大きな音を立てて拉げる金属製のロッカー
呆然として、それを見ている周囲の同級生たち。
鮫島は無言でそこまで歩いて行くと、無言で加害者の少年を殴り始めた。
何度も何度も何度も殴った、父親が自分にしたようにひたすら殴った。
泣いて謝ってきても殴った。
自分を止めようとしてきた同級生も殴った。
何もしなかったこいつらも同じだ、そう思って殴った。
気が付けば、教師に羽交い締めにされていた。
初めて人間を殴った手の皮は剥けて、青黒く腫れた皮膚からは赤黒い肉が見えていたが、鮫島は大きな暴力の快感に戸惑っていた。
その後は加害生徒が転校して居なくなり、教室で鮫島に手を出す者は居なくなった。
自らの暴力行為がもたらした大きな環境の変化は、幼い精神の鮫島に暴力行為を積極的に肯定させる結果となる。
既に小柄な父親よりも大きくなっていた鮫島が酔って母親に暴力を振るっていた父親を撲殺したのは、彼が小学5年生の時だった。
一時的に養護施設に入れられた鮫島に、そこの校長が柔道を教えてくれた。
人格矯正のために習わされた柔道だったが、単純に力だけでは勝てないそれに鮫島は嵌まり、勝つために高校生や大学生を相手にして一心に練習を重ね、そして月日は過ぎていった。
中学校卒業まで真摯に柔道に打ち込んだお陰で、中体連や各種大会には相次ぐ生徒の不祥事で出場する事は叶わなかったが、彼の実力は評価され高校にはスポーツ推薦の特待生枠で入る事が出来た。
そして何よりも、それを喜んでくれたのは鮫島の母親であった。




