028:最悪の光景
俺は朝から気分が悪かった。
あの拉致未遂事件から2週間過ぎたが、その間に警戒する俺を嘲笑うかのように何事も起きなかった。
あれから毎日外出する時は熱光学迷彩結界を纏って、家の門まで空間転移して家から離れた場所まで移動してからスキルを解除するようにしていたのだが、今日は朝から嫌なものを見てしまったのだ。
どうしても紫織に会いたくて、あんな事件に巻き込まれる前と同じ時間に起きて、そして熱光学迷彩を纏ったまま学校に通っていた時と同じ時間に家を出た俺は、熱光学迷彩を解かぬまま駅前であの頃と同じように俺を待っている紫織を見つけた。
まるで事件なんて無かったかのような既視感に襲われてしまい、俯いている彼女に思わず声を掛けそうになってしまったのだが……。
「お待たせ!」
それは聞き慣れた、あの日の俺の台詞…
「ううん… 待ってないよ」
ちょっと元気が無いような気がするが、それも聞き慣れた彼女の返事……
ただ一つ、あの時と違うのは彼女と並んで歩き出したのが俺では無くて義則だと言う事だけだ。
その一つだけの違いは、あまりに俺にとって大きな違いだった。
その隣を歩くのは俺だけの特権だったはずなのに……
「義則さん、毎朝とか遠回りなのに本当に良いの?」
「全然問題無いよ、俺がこうしたいから勝手にやってるんだから気にしないで」
「でも、なんか申し訳なくて…… 」
そんな会話が、立ち竦む俺から離れて行く二人から小さく漏れ聞こえてくる。
今は期末試験後の短い休み中で、二人とも私服で朝からデートなんだろう。
訳も無く胸が苦しく重苦しい想いから逃げるように駅前広場から立ち去ろうとする俺は、熱光学迷彩スキルをゲーム内で与えられたことを、心底ありがたいと思った。
醜く嫉妬に狂った今の顔は、他人と言えども誰にも見せたくは無かったから……
更に加えて明日は1学期の終業式で、その日は学校に顔を出すように言われている。
長期休みになる前の短時間だけの初顔合わせ、留年した新しいクラスに俺の顔を見せる事だけでもさせて夏休み明けに顔を出し易くしてやろうという大人達の配慮なのだろうが、正直こんな気持ちのタイミングでは余計なお世話にしか思えない。
離れて行く二人から目を離した俺は二人を監視しているらしき人物に気が付いた。
駅に向かう道路に掛かる歩道橋の上に二人組のサラリーマン風の男が、明らかに紫織と義則を見ているのだ。
何故、俺では無くて紫織と義則なのか、或いは二人の内のどちらかが目的なのかは判らないが猛烈にムカついた!。
歩道橋を視認すると二人組の近くに空間転移した。
一人が一瞬気配に気付いたのか違和感を感じたのか、振り返るが何も見えるはずが無い。
当然、俺は熱光学迷彩結界を纏ったままなのだから。
「どうした?」
「いや、ちょっと何となくだが後ろに誰か居るような気がしただけだ、気にするな」
そう言うと振り返った男が歩道橋の上に誰も見えない事を確認すると、気まずいような顔をして視線を紫織達の方に戻した。
それを見て相方の男がからかうように茶化している。
「お前は、昔から臆病だからな」
「ば、馬鹿野郎 それは警戒心が強いとか必要以上に慎重だとか、他に言いようがあるだろ」
「まあ冗談はそこまでにしよう、それより監視対象が行っちまうぞ」
やはり、こいつらは紫織たちを監視していると確信できる言葉が耳に入る。
正直、酷い振ら方をしたとは言え、紫織を狙っているなら只では置かない、八つ当たりでもなんでもぶつけてやるという気に俺はなっていた。
「女の方は毎日男と一緒だな、俺が学生の頃はそんな羨ましい事なんてしてる奴はそんなに居なかったぞ」
「そりゃ、お前が単純にモテナイ君だったからだろ」
そんな俺の事も知らずに、男達は会話を続ける。
どうにも、こいつらは俺を襲ったワゴン車の男達や、あの鮫島という男に比べて素人臭い気がするのだが、気のせいだろうか…
なんか、玄人の余裕なんかではなく雰囲気がどうにも緩いのだ。
「あの男が帰り道も一緒だから女を掠うのは難しいな」
な、なんだと!こいつは何を言ったんだ!
狙っているのは紫織なのか?
二人を追いかけて階段を降りようとする男達に向けて、考えるより先に風魔法が飛び出していた。
「あの男の方は大丈ぶぅ、あぁぁっ!」
「うわぁぁ!」
階段を降りようと体重を移動させようとした彼らの足に、突然空気の壁が纏わり付いて動きを阻害した。
足を着くタイミングを狂わされてバランスを崩してしまった二人は、派手な音を立てて鉄製の歩道橋の階段を転げ落ちていった。
以前の自分から考えると、きっと酷い事をやっているはずなのに俺の良心はまったくと言って良い程痛んでいないのが不思議に思える。
なんだか紫織に別れを告げられたあの日以来、この世の出来事が少しばかり現実感を欠いているのは間違いが無い。
あの日の事を、あの時の言葉を、何処か認めたくない自分が自分の中に居るような、そんな気もするのだった。
ただ、今は紫織の事を狙っている奴らが居るなら守ってやりたいと言う気持ちと、俺を捨てた女なんてどうにでもなってしまえというダークな気持ちと、両方が俺の中にあって正直なところ自分でも収集がつかないのだ。
義則と歩きながらも、紫織は未だに自分の気持ちに明確な答えが出せずにいた。
あの日、別れを告げた時の和也の熱い自分への想いは、ようやく決心した筈の紫織の気持ちを再び大きく揺り動かすには充分過ぎるものだった。
ずっと自分を育てる為に女の幸せを捨てて苦労をしてきた母親が、ようやく掴みかけている幸せの欠片を逃すことが無いように自分が犠牲になろう、そう決めた筈だったのに心は自分でも想像できないほどの迷いで大きく揺れ動いていた。
和也に逢いたい、和也の声が聞きたい、和也と一緒に居たい、そんな押し殺していた筈の本当の気持ちが溢れそうになって、何度も何度も自分の心を揺り動かすのだ。
いつの間にか和也と一緒に居るのが自分の中でも自然に感じて、そして当たり前になっていたが故に気付くことが出来なかった自分の本当の気持ち。
それが、こんなにも自分にとって大きな存在であったとは、和也に別れを告げるあの日まで判らなかった事だ。
和也が与えてくれていた幸福感を生み出す脳内麻薬が、あの日に別れを告げたときから途切れてしまっただけ、それだけの事なのに心は凍てついたように冷たく、絶望感が全身を包み込んで離してくれない。
でも、そう……別れを決めたのは自分で、それを告げたのも自分なのだ。
例え義則が切っ掛けを作ったとは言っても、その責は誰よりも自分が負うべきであり、この苦しさはその罰なのだと紫織は思っていた。
どう言い繕っても自分は、母親の幸せの為に義則さえも利用している事は否めないし、その償いのためにも義則の誘いを断ることは出来ない。
そうしている内に、どんどんと深みにはまって抜け出せなくなって行く自分が居た。
それでも、自分が気持ちを押し殺して居れば、これ以上誰かを傷つけることは無いと自分に言い聞かせていたが、それが若さ故の浅薄で早急な結論である事に気付くには、まだ少しばかり紫織には経験が足りなかった。
母には、手にしている幸せを掴んで今の笑顔を失わないで欲しい。
その為には、自分の幸せは後回しで良いと思っていた筈なのに、心は理屈で決めたように動いてはくれなかった。
そして和也のためにも、早く自分を忘れてもらった方が良いと考えて呼び出したあの日の和也の苦しそうな顔……
相手のために良かれと思ってやった事が、実は一番相手の心を傷つける残酷なことだったと言う事実にも紫織は打ちのめされていた。
もう一度和也に心からあの日の事を謝りたいと、そう紫織は思っていた。
それで、もう一度和也と上手くやろうというような狡い計算は一切無かった。
何故自分がそうせざるを得なかったのか、今になって和也には全ての真実を知っていて欲しいと思っていた。
例え、それで本当に和也に恨まれて憎まれても仕方が無いが、それでも自分の事を知って欲しいと思うようになっていたのだ。
あの日の和也の放った心からの熱い紫織への想いは、無理矢心を理閉ざして押し殺してしまおうとしていた紫織の心の扉をこじ開けて、自分の本当の気持ちを見つめ直させるのには充分な力を持っていたのだった。
そして、不幸にも和也自身はその事を全く知らずに、独り悩み苦しんでいた……




