014:招かれざる訪問者
タクシーが自宅に着くと、家の前に誰か知らない中年の女性が立っていた。
誰だろう、またマスコミのレポーターか何かだろうかと俺が思っていると突然声を掛けられた。
「和也! 美緒!」
「誰?」
自分の名前を呼ばれたので美緒は父親や俺に顔をやり不思議そうな顔をしているが、まさかこの人は……
「美智瑠!」
「美智瑠さん… 」
父親と玲衣那婆ちゃんの呼ぶ名前には覚えがあった、小さい頃に二人を捨てて出て行った母親の名前に間違いは無いはずだ。
何より、父親の強ばった顔がそれを如実に顕している。
「和也、心配したのよ……無事に解放されて良かったわ」
母親だった女が自分に近寄ってくるが、俺は反射的に避けてしまった。
そもそも、俺が事件に巻き込まれた事は未成年だし公にはなっていないはずである。
その上、なんで退院の日まで知っているんだ、この人は……
「俺や美緒を置いて出て行って、9年も経ってから何を今更母親面してんだよ」
思わず俺の口から飛び出すのは恨み言である。
美緒は、そもそもこの女性が母親であるという記憶も無いだろう、どう反応して良いのか判らずに戸惑っている様子が見られる。
「和也、止めなさい」
キツい言葉を投げる俺を親父が制する。
「だって、あれからどれだけ父さんや俺たちが大変な想いをしたか……」
「止めるんだ和也」
父親は黙って、静かにその言葉を繰り返した。
そんな重苦しい沈黙を破ったのは、レイ婆の静かな一言だった。
「美智瑠さん、まだあの宗教はやってらっしゃるの?」
母だった女は、その問いかけに黙って答えない。
「そう残念ね、あなたが言っていた本当の幸せは見つかったのかしら?」
レイ婆ちゃんの静かだけれどキツい言葉に、激高していたはずの俺も冷静さを取り戻す事になった。
俺が成人した時に詳細を話すと親父には言われていたが、両親の離婚の理由を俺は薄々知っている。
母親はカルトな宗教に填まっていたのだ。
最初の切っ掛けまでは判らないが、俺が幼い頃から母親は家を数日空けることが多かった。
それが原因で父親と言い争いをしているのも見ている。
二人の不仲が決定的になったのは美緒が生まれてからの事だ。
元々口数が少なく、仕事も残業が多くて帰りの遅かった父親と家に居ない母親がすれ違うのは、当然と言えば当然の帰結だろう。
母親が自分が入信している宗教団体への寄進の為に、俺たちの教育資金と家の購入のために貯めていた預金を引き出して使ってしまったらしい。
ある夜の事、トイレに起きた俺は二人が言い争う声に気付いて立ち聞きしてしまったのだ。
当時の俺に内容の殆どは理解できなかったのだが、父親が母を責める言葉から何か大事なお金を母が使ってしまって怒られている事は何となく判った。
幼かった俺の記憶に焼き付いた、その会話の言葉の意味が判るようになったのは中学校に上がる頃だった。
母親が家から居なくなったのは、俺が夜中にその争いを聞いた数日後の事だった。
それまでも月に数回、一度出掛けると数日間は家を空けることが良くあったので、またかと言うのが正直な感想だった。
だが母は帰ってこずに、代わりに田舎からレイ婆ちゃんが出て来て家の家事をするようになったのだ。
それと前後して白い服を着た、変な笑顔を浮かべた人達が家にやってきて父親と話をして帰って行ったのも記憶しているが、恐らく何か宗教団体と関わりのある人達なのだろうと思っている。
その後はイオ爺ちゃんが来たり、祖父母の修蔵爺ちゃんと千絵婆ちゃんも家にやってきて父親と夜遅くまで話し込んでいたのを覚えている。
父親の転勤で今の街にやってきたのは、それから暫くしてからの事だった。
そんな事を思い出していると、母親だった人が口を開いた。
「和也を引き取らせてください」
それを聞いて絶句する俺と、目を見開いて何かを言おうとする父親、大きく開けた口の前に両手を持ってくる美緒、顔を見合わせる曾祖父母……
「ちょっ、冗談言ってんじゃねーよ……誰があんたと」
あまりの衝撃に、それ以上の言葉が何故か口から出てこない。
「親父、何黙ってるんだよ、さっくりと断ってくれよ、俺は行かないぜ、行く訳ねーだろ、そもそも誰だよあんた、俺に母親なんて居ないんだよ」
「あんたが出て行ってから、今日まで俺と美緒を育ててくれたのは親父と玲衣那婆ちゃん達なんだ、あんたじゃない!」
あまりの怒りで頭がクラクラしそうだった。
「和也、あんたには良くないものが憑いているんだって、だからあんな目にあうんだって、だから母さんと一緒においで助けてあげるから……」
「いい加減に……」
視界の隅に親父が手を振り上げようとするのが見えた。
「いい加減にしなさい美智瑠さん!」
父親が手を振り上げるより早く、レイ婆の叱責の声と「パン!」と言う乾いた音が辺りに響く。
婆ちゃんの右手が動くのは目で追えなかった、と言うかすげぇ~これで87歳かよ。
動作を始めたのは父親の方が早かったと思うんだが、ノーモーションから父親より先に母親の頬を叩いたのは曾祖母のレイ婆だった。
母親は頬を押さえて蹲っている。
「美智瑠さん、あなたはまだ懲りてないんですか?」
「玲衣那、止めなさい」
イオ爺ちゃんが制止するがレイ婆は止まらない。
「あなたは、あんなものに夢中になって騙されているのが判らないんですか、あれからあなたは家族や仕事やお金までも失ったんじゃ無いの?」
母親は俯いて応えない……
「美智瑠さん、あなた今が幸せと言えるの?」
(いやいや、今は頬を叩かれて幸せじゃないと思いますよ……って、そういう今じゃないよね、判ってます)
他人が修羅場の時は何故か自分が冷静になってしまうのは人間の心の不思議というものだろう。
俺は一連の騒動で一気に怒りが醒めてしまい、目の前の修羅場を内心でそう茶化してしまっていた。
いや、茶化すことで当事者から傍観者へとスタンスを変えようとしているだけの事で、思う程おもしろ半分な訳でも無いが、次第に俺は冷静になってゆく。
「レイ婆、もうやめよう……この人は、もう俺の母親じゃねーし、そもそも着いて行く気も100%無いし」
そう行って、レイ婆の肩に手を乗せると家の玄関へと向かった。
「まったく昔から切れると手が先に出るのは変わらんのぉ……」
イオ爺が呆れたように呟きながら後に続くと、婆ちゃんが玄関の中から爺ちゃんに優しく反論する。
「あなたが止める気になったら私なんか何もできないでしょ、本当は私を止める気も無かったくせに」
苦笑するイオ爺と微笑むレイ婆、本当に幾つになっても仲が良い事である。
そんな修羅場が一段落したタイミングで塀の上で寝そべってこちらを見ていたバルと目が合う。
バルの目が合図を送ってくる(ような気がした)、オッケー!バルいつでも来いと肩を少し前に出すとバルが肩に飛び乗ってくる。
少し爪が引っかかって痛いが、慣れているのでどうという事もない日常の懐かしい行動である。
「美智瑠、どうやって此処を探し当てたのかは知らないし詮索もしないが、もうこれきりにしてくれ」
父親もそう言うと美緒の手を引いて家に入った。
しばらくして俺が窓から家の入り口を見ると誰も居なかったので、諦めて帰ったのだろう。
バルは俺の肩の上で顔を頬に擦りつけて甘えている。
無造作にバルの脇に手を入れると抱き上げて、肩に顎を乗せるように抱え直して背中を撫でてやる。
ゴロゴロと言うバルのご機嫌を示す喉鳴りを聞きながら居間のソファーに腰掛けて、今度は膝の上にバルを仰向けに乗せると問答無用でお腹に顔を埋めてふるふるする。
「これだよ、これが出来なくて辛かったんだバルぅ~」
いつもより余分にふるふるしていると美緒が呆れたように言った。
「もう、バルってば和兄いだけ特別だよね、普通猫ってお腹を弄られるの嫌いな筈なんだけどねー」
「ふふふ、バルの全ては俺の物だぜー、バルちゃ~ん」
「なんか、バルが恥ずかしそうに明後日の方を向いているんですけど」
「長い付き合いだもんなぁ~バル、もうずいぶん前から抵抗を諦めてるのさきっと」
などと言っているとバルに軽く耳を甘噛みされた。
「痛てっ!」
「ほら、バルだってしつこい男は嫌いって言ってるよ」
耳を甘噛みされて顔をお腹から話した隙に、バルは俺の膝の上から美緒の膝の上に移動していた。
そんないつもと変わらない会話が一段落すると父親が口を開いた。
「お前達が成人するまでは黙っておこうと思っていたんだが……」
父親が話してくれた母との離婚にまつわる話は、概ね俺の考えていた通りだった。