第1話 汚し屋
※本作には、清掃業務に伴う汚れや汚物など、一部不快に感じられる表現が含まれます。
お食事中の方はご注意ください。
清掃員・田島には、宿敵がいる。
顔も名前も知らない。声すら聞いたことがない。
ただ――。
「……また、お前か」
午前七時四十三分。
男子トイレ、三番個室。
田島は白い便器を前に呟いた。
清掃員として八年。
水面を覆う下痢便。便器いっぱいの嘔吐物。どういう姿勢ならそうなるのか、便座の外にまで飛び散った惨状。
田島は様々なものを見てきた。
だから分かる。
これは違う。
中央から左へ広がる茶褐色の飛沫。縁の手前で、不自然なほど綺麗に途切れている。そして右側には何もない。
まるで、意図して残された余白。
「……挑発してやがる」
最初は偶然だと思った。
だが、二度、三度と続いた。
同じ人間だ。
そいつは便器を、まるで一枚のキャンバスのように扱う。
田島はいつしか、そいつをこう呼んでいた。
――汚し屋。
「上等だ」
ゴム手袋を引き上げる。
「全部、消してやる」
*
数十分後。
便器は真っ白になっていた。
飛沫も、縁の汚れも、何一つ残っていない。
それが田島にとっての完成だった。
*
午後。
一人の男が三番個室へ入った。
「…………」
白い。
昨日、自分が残したものが跡形もなく消えている。
男は便器へ近づいた。
昨夜の出来には自信があった。
飛散。配置。そして余白。
それを、ここまで完全に消すとは。
「……やるじゃないか」
男は笑った。
真っ白な便器。
美しい。
だからこそ。
「汚したい」
*
翌朝。
三番個室。
田島は便器を見て、口元を歪めた。
昨日は左。
今日は右。
「……そう来たか」
言葉を交わしたことはない。それでも田島には分かる。
これは返事だ。
汚し屋は、汚すことで語る。
田島は、消すことで答える。
「今日も消してやる」
*
その夜。
駅前の定食屋で、田島は同僚とカウンターに並んで飯を食っていた。
「今日も三番、酷かったな」
「ああ」
「よく毎回やるよな」
田島は味噌汁を飲む。
「でも、今日は昨日と違った」
「何が?」
「汚し方だよ」
同僚が呆れた顔をする。
「お前、ウンコに何を見出してんだよ」
「見てりゃ分かる」
田島は箸を置いた。
「アイツなりの返事なんだよ」
「……疲れてんじゃねえの?」
その背後。
背中合わせの席に、一人の男がいた。
同僚と酒を飲んでいる。
「で、最近どうなんだよ。例の趣味」
「まあまあだな」
「まだやってんのか」
「ああ」
男はグラスを傾けた。
「面白い相手を見つけた」
田島には聞こえていない。
男にも、田島の声は届いていない。
二人は互いの顔さえ見ないまま、それぞれ店を出た。
*
翌朝。
三番個室には、また新しい汚れが残されていた。
田島はそれを見つめ、ゴム手袋を引き上げる。
「……始めるか」
顔も知らない二人の対話は、今日も便器から始まる。
お読みいただきありがとうございます。
便器を通して人間ドラマを描けないか、という発想から生まれた作品です。
基本一話完結、全10話程度を予定しています。
汚い話ですが、綺麗に締めたいと思います。




