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蝉の鳴き声が聞こえなくなるまで

作者: ラベンダー
掲載日:2026/08/21

 シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……

 ジージー……ジージー……ジージー……

 ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……。


 蝉の鳴き声が聞こえる。


 私は家の中で、椅子に腰かけたまま、ぼんやりとしていた。


 何もすることがない。


 三十歳。無職。


 人生の節目ともいえるこの年齢で、私は「新世界」へ行こうと考えている。


 「新世界」とは何か。


 簡単に言えば、植物になることだ。


 人間は頭が良すぎる。


 だから、生きていくうえで必要のないことまで考えてしまう。


 まだ起きてもいない未来を心配し、他人と自分を比べ、勝手に不安を膨らませる。


 そんな生き方には、もううんざりしていた。


 だから私は、「新世界」へ行く。


 蝉がうるさい。


 さっきよりも、さらに鳴き声が大きくなっている。


 求愛のためだったか。それとも、縄張りを主張しているのだったか。


 どちらでもいいことなのに、そんなことまで考えてしまう。


 すると、不意に蝉の声が止んだ。


 ……私の考えが伝わったのだろうか。


 もちろん、そんなはずはない。


 それでも、そういうくだらないことを考えてしまう。


 この先、仕事はどうするのか。


 最近の男性アイドルは、みんなマネキンのような顔をしている気がする。グループも多すぎて、誰が誰だかわからない。


 考える必要のないことばかりが、頭の中に次々と浮かんでは消えていく。


 だから私は、一刻も早く植物にならなければならない。


 誤解しないでほしい。


 これは死ぬこととは違う。


 死は無だ。


 私が求めているのは、何も考えず、それでも確かに生きている存在だ。


 植物なら、何も考えない。


 ただそこにいて、光を浴び、水を吸い、静かに生きている。


 それでいい。


 蝉の鳴き声を感じなくなれば、私は「新世界」へ行くことができる。


 私は目を閉じた。


 呼吸だけに集中する。


 吸って、吐く。


 それだけを繰り返す。


 シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……。


 蝉の鳴き声は、まだ聞こえる。


 五分は経ったはずだ。


 まだ鳴いている。


 いや。


 近い。


 耳元で鳴いている。


 シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……

 ジージー……ジージー……ジージー……

 ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……。


 部屋の窓は開けていない。


 蝉が入ってくるはずはない。


 しかし、本当に耳元にいるのなら、触覚で感じられるはずだ。


 それがない。


 それとも、私はすでに「新世界」に片足を踏み入れていて、触覚を失い始めているのだろうか。


 そうだとすれば、あとは蝉の鳴き声だけだ。


 目は開けてはならない。


 そう思ったときだった。


 パンツの中で、何かがごそごそと動いているような気がした。


 違和感。


 シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……

 ジージー……ジージー……ジージー……

 ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……。


 蝉の鳴き声は、耳元だけではない。


 下半身からも聞こえる。


 シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……

 ジージー……ジージー……ジージー……

 ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……。


 まさか。


 蝉がパンツの中にいるのか。


 ひどく奇妙な感覚だった。


 どうやって入ったのだ。


 いや。


 そもそも、私の思い違いではないのか。


 どちらだ。


 目は開けてはならない。


 しかし、気になって仕方がない。


 私は目を閉じたまま、衣服をすべて脱いだ。


 少し恥ずかしい。


 それでも、「新世界」はもう近いはずだった。


 蝉の鳴き声が、さらに強くなる。


 シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……

 ジージー……ジージー……ジージー……

 ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……。


 やがて、無数の蝉が私の身体を這い回っているような感覚がした。


 気持ちが悪い。


 エアコンもつけていない。


 汗が止まらない。


 熱中症になりそうだ。


 水も飲みたい。


 それでも、「新世界」はもう近い。


 あと少し。


 あと少しなのだ。


 蝉の鳴き声は、さらに激しさを増していく。


 「あっ……」


 私は放尿し、そのまま脱糞した。


 身体中を、無数の蝉が這い回っている。


 気持ちが悪い。


 気持ちが悪すぎる。


 それなのに、次第に、それすらも心地よく感じられてきた。


 自分の身体が、自分のものではなくなっていく。


 蝉の声は鳴りやまない。


 シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……

 ジージー……ジージー……ジージー……

 ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……

 カナカナカナ……カナカナカナ……カナカナカナ……。


 四種類の蝉の鳴き声が重なり合い、私の意識を埋め尽くしていく。


 もう、自分の身体がどこまで自分なのかわからない。


 私は目を閉じたまま、ただ蝉の声を聞いていた。


 シャアシャアシャア……。


 ジージー……。


 ミーンミンミンミンミー……。


 カナカナカナ……。


 やがて、そのすべてが一つの音になった。


 私は、その音の中へ沈んでいった。


          ◇


 八月某日付の新聞記事によると、三十歳の女性が、自宅で遺体となって発見された。


 発見当時、彼女は裸の状態で、身体中の穴という穴から吐瀉物があふれ出しており、見るに堪えない状態だったという。


 室内に争った形跡はなく、窓も閉められていた。


 彼女がなぜこのような状態で死亡したのか、詳しい原因は現在も調査中である。


          ◇


 彼女は死ぬ前に、「新世界」へ行くことができたのだろうか。


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