蝉の鳴き声が聞こえなくなるまで
シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……
ジージー……ジージー……ジージー……
ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……。
蝉の鳴き声が聞こえる。
私は家の中で、椅子に腰かけたまま、ぼんやりとしていた。
何もすることがない。
三十歳。無職。
人生の節目ともいえるこの年齢で、私は「新世界」へ行こうと考えている。
「新世界」とは何か。
簡単に言えば、植物になることだ。
人間は頭が良すぎる。
だから、生きていくうえで必要のないことまで考えてしまう。
まだ起きてもいない未来を心配し、他人と自分を比べ、勝手に不安を膨らませる。
そんな生き方には、もううんざりしていた。
だから私は、「新世界」へ行く。
蝉がうるさい。
さっきよりも、さらに鳴き声が大きくなっている。
求愛のためだったか。それとも、縄張りを主張しているのだったか。
どちらでもいいことなのに、そんなことまで考えてしまう。
すると、不意に蝉の声が止んだ。
……私の考えが伝わったのだろうか。
もちろん、そんなはずはない。
それでも、そういうくだらないことを考えてしまう。
この先、仕事はどうするのか。
最近の男性アイドルは、みんなマネキンのような顔をしている気がする。グループも多すぎて、誰が誰だかわからない。
考える必要のないことばかりが、頭の中に次々と浮かんでは消えていく。
だから私は、一刻も早く植物にならなければならない。
誤解しないでほしい。
これは死ぬこととは違う。
死は無だ。
私が求めているのは、何も考えず、それでも確かに生きている存在だ。
植物なら、何も考えない。
ただそこにいて、光を浴び、水を吸い、静かに生きている。
それでいい。
蝉の鳴き声を感じなくなれば、私は「新世界」へ行くことができる。
私は目を閉じた。
呼吸だけに集中する。
吸って、吐く。
それだけを繰り返す。
シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……。
蝉の鳴き声は、まだ聞こえる。
五分は経ったはずだ。
まだ鳴いている。
いや。
近い。
耳元で鳴いている。
シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……
ジージー……ジージー……ジージー……
ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……。
部屋の窓は開けていない。
蝉が入ってくるはずはない。
しかし、本当に耳元にいるのなら、触覚で感じられるはずだ。
それがない。
それとも、私はすでに「新世界」に片足を踏み入れていて、触覚を失い始めているのだろうか。
そうだとすれば、あとは蝉の鳴き声だけだ。
目は開けてはならない。
そう思ったときだった。
パンツの中で、何かがごそごそと動いているような気がした。
違和感。
シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……
ジージー……ジージー……ジージー……
ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……。
蝉の鳴き声は、耳元だけではない。
下半身からも聞こえる。
シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……
ジージー……ジージー……ジージー……
ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……。
まさか。
蝉がパンツの中にいるのか。
ひどく奇妙な感覚だった。
どうやって入ったのだ。
いや。
そもそも、私の思い違いではないのか。
どちらだ。
目は開けてはならない。
しかし、気になって仕方がない。
私は目を閉じたまま、衣服をすべて脱いだ。
少し恥ずかしい。
それでも、「新世界」はもう近いはずだった。
蝉の鳴き声が、さらに強くなる。
シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……
ジージー……ジージー……ジージー……
ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……。
やがて、無数の蝉が私の身体を這い回っているような感覚がした。
気持ちが悪い。
エアコンもつけていない。
汗が止まらない。
熱中症になりそうだ。
水も飲みたい。
それでも、「新世界」はもう近い。
あと少し。
あと少しなのだ。
蝉の鳴き声は、さらに激しさを増していく。
「あっ……」
私は放尿し、そのまま脱糞した。
身体中を、無数の蝉が這い回っている。
気持ちが悪い。
気持ちが悪すぎる。
それなのに、次第に、それすらも心地よく感じられてきた。
自分の身体が、自分のものではなくなっていく。
蝉の声は鳴りやまない。
シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……シャアシャアシャア……
ジージー……ジージー……ジージー……
ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……ミーンミンミンミンミー……
カナカナカナ……カナカナカナ……カナカナカナ……。
四種類の蝉の鳴き声が重なり合い、私の意識を埋め尽くしていく。
もう、自分の身体がどこまで自分なのかわからない。
私は目を閉じたまま、ただ蝉の声を聞いていた。
シャアシャアシャア……。
ジージー……。
ミーンミンミンミンミー……。
カナカナカナ……。
やがて、そのすべてが一つの音になった。
私は、その音の中へ沈んでいった。
◇
八月某日付の新聞記事によると、三十歳の女性が、自宅で遺体となって発見された。
発見当時、彼女は裸の状態で、身体中の穴という穴から吐瀉物があふれ出しており、見るに堪えない状態だったという。
室内に争った形跡はなく、窓も閉められていた。
彼女がなぜこのような状態で死亡したのか、詳しい原因は現在も調査中である。
◇
彼女は死ぬ前に、「新世界」へ行くことができたのだろうか。




