大人って、なんなんでしょうか
泣いたあとはなんだか、頭が枯れたようです。
ただの頭痛なのですが。
幸せそうな人を見て、乾いた笑いが出ました。
笑えるようです。
あんまり嘘を吐くなら、本当を忘れそうです。
記憶を持ったまま、過去に戻ってやり直す作品がたくさんあります。
私は思います。
まだ発達しきっていない体で、それを覚えていられるはずがないと。
あの不安定な心を、経験だけで安定させることなど、到底不可能でありましょう。
子どもの頃、いつも、鬱陶しいと思っていたことがあります。
考え事をしていると、ある地点へたどり着いた瞬間、全て忘れてしまうのです。
どうにか覚えておこうと頑張るのですが、どうしても無理なのです。
今は、そんなことありません。
舌が鈍感になったり、映画館の音がうるさく感じなくなったり、思考がショートしなくなったり。
体というものに引っ張られることは、必然なのです。
つまりあれは、もしもでさえないほどに、フィクションなのでした。
さらに、一度目を馬鹿にしているのかと思うこともあります。
ですから、嫌いです。もう、大嫌いです。
今生きている子どもを、馬鹿にしているのでしょうか。
大人の快楽のために利用されることが、かわいそうでありません。
今、子どもに戻っても。
おそらく、もっと下手になることでしょう。
私も、あなたも。
思うように動かない体に困惑して。
精神は、独立では決してないのです。
自分の体に怒りを抱いて仕方がなかった私ですから、よくわかります。
成熟した子どもはどこか、不安定に見えます。
おとなしい子どもが、褒められる時代です。
おかしなことです。極端なことです。
体は未熟であるはずなのに、振る舞いはまるで、完成されたもののようです。
本当にそれは、大人になったと言えるのですか。
大人しいとは、本当にそれを言うのですか。
私は常々、思っています。
感覚、幸せの感じ方、悲しみの感じ方、どれも、少しずつ鈍感に、鈍っていく。
私がすべきなのは、幸福も、悲しみも、一番感じられる時期の子どもに、鈍った私の時間を費やすことだと。
その時間を、幸福で一杯にしてあげること。
それが、大人になることだと。
大人になるとはなんなのか、そんな話を、たまに耳にします。
どれもこれも、違うのです。
体の成長以外に、子ども、大人という分け方があるのなら。
これが、私にとっての答えなのです。




