第8話 龍津路の奥と新たな仲間
朝。洗面器に水を張り、エンウーと順番に顔を洗う。
「冷たい」
「目が覚めるわ」
タオルは一枚しかない。
「昨日のだ」
「乾いてるから平気よ」
同じ布で顔を拭き、鏡代わりの金属板に並んで映る自分たちを見る。
「さっ、晴人、行きましょ」
エンウーと俺は九龍城の通路を歩いていた。
龍津路の奥は、昼間でも薄暗く、壁に貼られた手書きの看板が不規則に揺れている。
油で黒ずんだ床は、踏むたびに小さな水たまりを踏む音を立て、天井からぶら下がる古い配管から水滴が落ちてくる。
壁には、赤い紙に金文字で書かれた看板が低い位置に掛かり、鍋を叩く音と広東語の怒鳴り声が混ざる独特の喧騒が漂っていた。
『龍津義學』
『小林雑貨』
『青龍会警戒区域』
俺は立ち止まり、通路の壁や床をじっと観察した。
埃にまみれた古い椅子、錆びた自転車、通路の隅に置かれた小さな段ボールの山。
こんな迷路のような場所に、まだ生活が息づいているのだと感じる。
「龍津路は、迷路みたいね……」
「ほんとだな。方向感覚が狂うわ」
エンウーは小さく笑う。
そんなとき、通路の角から小さな影が飛び出した。
「わっ!」
「……誰?」
現れたのは、12歳くらいの少女。
肩までの黒髪に薄紫の服。目は澄んでいて、少し恥ずかしそうにこちらを見ている。
「えっと、あたし……ウェイミン」
「ウェイミン?」
「はい、龍津路の奥で一人で暮らしてて……あなたたち、誰?」
少し不安そうに身をすくめるウェイミン。
エンウーはにこっと微笑む。
「私は林 煙雨。こっちは晴人。安心して、悪い人たちじゃないわ」
ウェイミンはほっとしたようで、頬を赤らめる。
「龍津路の奥って、危なくないの?」
「うーん……たまに青龍会がうろつくけど、今日は大丈夫よ」
エンウーは手早く説明する。
ウェイミンは恥ずかしそうに笑った後、小さな箱を差し出した。
「これ、よかったら……」
中には手作りの飴や小さなお菓子。
「ありがとう。いただくよ」
俺は微笑み、飴をポケットに入れる。
その後、俺たちは龍津路の奥を探索しながら、ウェイミンとも少しずつ打ち解けていく。
通路沿いには古い床屋、小さな飲食店、漢方屋、雑貨屋。
漢方屋の前では、薬の香りと煙が立ち上り、通り過ぎる人々が鼻をつまみながらも品物を覗き込んでいた。
「晴人、あそこの漢方屋、面白そうよ」
「……見てみようか」
俺たちは小さな看板や掲示板を観察し、城内の地図を頭に刻む。
壁に貼られた赤い紙の看板が、湿った空気の中で静かに揺れ、九龍城独特の匂いや音が俺たちを包み込む。
途中、通路の奥で小さな子猫がうずくまっていた。
ウェイミンがそっと手を伸ばすと、子猫は警戒しつつも、指先に顔をすり寄せた。
「名前は……まだないの?」
「ううん……最近、迷い込んできたの」
ウェイミンは小さく笑う。
俺たちは子猫を軽く抱き上げ、しばらく通路の奥で遊んだ。
その間、青龍会の見回りを意識しながらも、城内の人々との交流や小さな発見が、次第に心を温めていくのを感じた。




