第7話 井戸の街と、古い地図
次の日も、部室へ向かう。
鞄の中には、今日の“仕入れ”。
小さな方位磁石。
ロープ。
LEDの小型ランタン。
「……今日は、迷子対策だな」
九龍城は、道がぐにゃぐにゃしている。
昨日も、気づけば同じ看板を三回見た。
鉄の扉を開ける。
むわっと、湿った空気。
ランタンのスイッチを入れると、白い光が広がった。
通路の先で、エンウーが壁にもたれていた。
「また何か仕入れてきたの?」
「今日は迷わない道具を持ってきた」
「また変な物?」
「変じゃない。命に関わる」
方位磁石を見せる。
「……針が動いてる」
「北が分かる」
「この城で?」
「たぶん」
エンウーは少し考えてから言った。
「じゃあ、今日は“大井街”に行きましょう」
「井戸がある場所?」
「ええ。水汲み場よ。人が多い」
通路を進む。
『龍城路』
『西城路』
手書きの看板が、矢印付きで打ち付けられている。
床は坂になり、空気が少し冷たい。
遠くで、水の音。
ばしゃ、ばしゃ。
視界が開けると、円形の空間があった。
中央に、大きな井戸。
周囲に、バケツとロープ。
壁には、洗面所や台所が連なっている。
「ここが、大井街」
「……でかいな」
子どもが走り回り、老人が椅子に座り、女の人たちが洗い物をしている。
「水は命だから、ここは争いが少ないの」
「珍しいな」
「だから、情報も集まる」
近くで、男たちが何か話している。
「また、迷子か?」
「三日前に消えたって」
「龍津路の奥らしい」
エンウーが反応した。
「……迷子?」
「九龍城は、出られなくなることがあるのよ」
「出られなくなる?」
「同じ道を回り続ける」
背中が寒くなる。
「だから、地図が大事」
エンウーは、紙切れを出した。
手書きの地図。
歪んだ線と、漢字。
『龍津路』
『東頭村道』
『老人街』
「これ、父の古い地図」
「お父さん?」
「……昔、配達してたの」
「今は?」
「……いない」
少し、間が空く。
「生きてるわよ。ただ、城の外にいるだけ」
「そうか」
地図を広げる。
「龍津路の奥に、昔の通路があるらしいの」
「使われてない?」
「封鎖されてる。でも、最近、人が入った形跡がある」
「危なくない?」
「危ないわ」
「じゃあ……」
「行くの」
即答だった。
龍津路に入る。
古い砲台の跡が壁に埋まっている。
赤レンガとコンクリートの境目。
床に、ねずみの影が走る。
行き止まり。
鉄格子。
だが、横の壁に、低い扉。
木製で、札が打ち付けられている。
『立入禁止』
「……ここ?」
「そう」
扉は、歪んでいた。
隙間から、風が出ている。
ランタンをかざす。
中は、細い階段。
下へ、下へ。
「……本当に迷路だな」
「だから、好き」
「普通、嫌いになるだろ」
「嫌いよ。でも、放っておけない」
階段の途中で、声がした。
「……誰か、いますか……」
子どもの声。
「迷子?」
「たぶん」
奥に、小さな男の子が座り込んでいた。
「動けないの?」
「出口が、分からない……」
俺は、ロープを渡す。
「これ、つかまれ」
「……ありがとう」
方位磁石を見る。
「こっちが北」
「それが何?」
「地図と合わせれば、戻れる」
エンウーが地図を見る。
「右よ」
通路を進む。
天井が低く、背中が壁に当たる。
やがて、明るい場所。
井戸の広場だ。
「……出た」
「よかった……」
母親らしい女性が駆け寄る。
「ありがとう……ありがとう……」
エンウーは、少し照れたようにそっぽを向いた。
「……こういうのが、九龍城」
「人も、迷子も、物も」
「全部、詰まってる」
広場の端で、男がこちらを見ていた。
昨日と同じ、作業着の男。
壁にもたれ、煙草を吸っている。
「……まただ」
「見られてる」
「青龍会?」
「たぶん」
男は、井戸を見回してから、去っていった。
「……本格的に目をつけられたな」
「晴人」
「ん?」
「引き返すなら、今よ」
「……」
井戸の水が、光を反射する。
人の声。
鍋の音。
遠くの怒鳴り声。
「……やめない」
「変な人」
「エンウーもだ」
「……まあね」
二人で笑った。
その時は、まだ知らなかった。
この“地図”と“封鎖された通路”が、
後で――戻れなくなる理由になることを。




