第6話 光る道具と、暗い通路
放課後の部室。
窓から差し込む西日が、机の上の埃を照らしている。
九龍城で売るための仕入れに戻ってきた俺。
財布を見て驚く。
昨日、くしゃくしゃの10ドル札、油で黒ずんだ1ドル硬貨で埋まっていた財布の中身は、日本の紙幣や硬貨であふれていた。
百円ショップで買った際に、日本のお金はほぼ使い果たしてしまったので、母親から借りようと思っていたが──。
「どうやら、九龍城から日本に戻ると、お金も勝手に日本円に変化するみたいだな……」
便利な機能だ。
「……今日は“光る物”だな」
エンウーの言葉を思い出す。
『暗い場所で使えるもの』
ノブに手をかける。
あの鉄の扉は、今日も何事もなかったようにそこにあった。
きぃ、と音を立てて開く。
湿った空気と、油の匂いが一気に押し寄せた。
九龍城だ。
通路はいつもより暗い。
裸電球が一つ切れていて、奥は影に沈んでいる。
「エンウー?」
梁の下から、エンウーが姿を現す。
白いシャツに紺のスカート。
制服は同じなのに、ここでは少し違って見える。
「暗いな」
「電球、よく切れるのよ。替えもすぐ手に入らないし」
「だから、これ」
ヘッドライトを取り出す。
「……それ、頭につけるの?」
「そう」
スイッチを入れると、白い光が通路を照らした。
「……わ」
エンウーが目を細める。
「前が、昼みたい」
「両手も空くし」
「便利すぎるわ……」
通路を歩く。
壁には、赤い紙の看板。
『永昌五金』
『李記雑貨』
床には水たまり。
天井から、ぽたぽたと水が落ちる。
「今日は、どこ行く?」
「南のほう。洗濯場の近くよ」
「洗濯場?」
「水道が強い場所があって、みんなそこで洗うの」
通路を曲がると、音が変わる。
ばしゃばしゃと水を打つ音。
石鹸の匂い。
湿った布の匂い。
女の人たちが、たらいを並べて洗濯している。
「エンウー」
「何?」
「……あの、洗剤」
袋から強力洗剤を出す。
「これ、油汚れに強い」
「九龍城の洗剤より?」
「たぶん、段違い」
一人のおばさんがこちらを見た。
「それは何だい?」
「新しい洗剤です」
バケツに少し入れ、布を浸す。
黒ずんだ布が、みるみる色を取り戻す。
「……!」
「きれいだ……」
「石鹸より白いぞ」
周囲がざわつく。
「二十元でどうです?」
「安い!」
「二つくれ!」
「待って、順番に……!」
気づけば、洗剤はほとんどなくなっていた。
エンウーが小さくため息をつく。
「……やっぱり、人が集まるわね」
「まずかった?」
「まずくはないけど、目立つのよ」
洗濯場を離れ、細い通路に入る。
頭上の配管から、ぬるい水が垂れてくる。
「ここ、暗いだろ」
俺はヘッドライトをつける。
通路の奥が、一本の線みたいに照らされた。
「……この道、嫌いなの」
「なんで?」
「よく迷うし、喧嘩も起きるし」
「危ない?」
「危ない人が通る」
エンウーは声を落とす。
「青龍会の下っ端が、たまに来るのよ」
「……昨日の男みたいな?」
「そう」
遠くで、靴音がした。
コツ、コツ、と一定の間隔。
壁際に立つ男の影が見える。
「……見られてる」
「下向いて、何も見ないふり」
すれ違う瞬間、男はちらりと袋を見る。
「それ、どこで仕入れた?」
「……親戚から」
「ふうん」
男はそれ以上、何も言わずに行った。
しばらく、無言で歩く。
「……怖かった」
「でしょ」
「でも、売るの、やめない?」
「やめないわ」
エンウーははっきり言う。
「ここでは、便利な物は命綱になるの」
「命綱……」
「扇風機で倒れない人もいる。洗剤で病気が減る人もいる」
「……そうか」
「だから、ほどほどに続けるの」
通路の先に、小さな広場みたいな場所があった。
天井に穴が開いていて、夕方の光が差し込んでいる。
「ここ、好き」
「空が見えるな」
「九龍城で、数少ない場所よ」
俺とエンウーは、二人で空を見上げるのだった。




