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九龍帰譚〜魔窟に暮らす少女と過ごす不思議な日々〜  作者: きたみ詩亜


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第5話 百円の宝物

 今日もエンウーと九龍城の通路を歩いていく。


 頭上には無数の配管が絡み合い、そこから水滴が落ちてくる。

 濡れたコンクリートの床は黒ずみ、油と香辛料の匂いが混じった空気が重い。

 赤い紙に金文字で書かれた看板が、低い天井すれすれにぶら下がっている。


『福安菜館』

『興隆飯店』


 湯気が通路を流れ、鍋を打つ音と広東語の怒鳴り声が響く。


 ふと、壁の一部に埋め込まれた扉が目に入った。


 周囲の壁より少し新しく、鉄製なのに木目のような模様が浮いている。

 取っ手には古い南京錠がぶら下がり、誰かが無理にこじ開けたような傷が残っていた。


「この扉……」


「……あぁ、ここ? 開かずの扉よ。中で荷物が詰まってるらしくて、ずっと開かないの」


「へえ……」


「中、倉庫だったらしいわ」


「なんか、変だな」


「この城、変じゃない場所の方が少ないわよ」


 エンウーは肩をすくめる。


 その場では、それ以上近づかず通り過ぎた。


 しばらくして、俺は一人でその扉の前に戻る。


 そっと、取っ手に手をかけ、回してみる。


「あ、開いた……?」


 錆びた取っ手を引くと、抵抗なく開いた。


 中に踏み込む。


 ……部室だった。


 九龍城より空気が澄んでいる。

 蛍光灯の白い光が、机とロッカーを照らしている。


 なのに、胸の奥が少し寒い。


 九龍城の湿った匂いが、まだ服に残っている気がした。


「……戻れた」


 机の横に置いた鞄を開ける。

 ノート、ペン、財布。


 全部、元の世界のままだ。


 昨日のエンウーの言葉が浮かぶ。


『九龍城では、物が足りないのよ。たとえば、特に小さい道具とか』


「……また、戻れるよな?」


 ちょっと心配になる。


 とりあえず、試しに俺は、近所の百円ショップに向かった。


 最近は300円や500円台の商品も増えている。


「ワイヤレスマウスに、モバイルバッテリーは……さすがに無理だな」


 パソコンもスマホもない世界には無用の長物だろう。


 棚を見て歩き、目が止まった。


 殺虫スプレー。

 ステンレス水筒。

 ハンディ扇風機。

 ヘッドライト。

 強力洗剤、等々。


「……これだ」


 会計を終え、レジで袋を受け取る。


「……結構買ったな」


 九龍城では、見かけなかった物ばかり。

 ──でも、現代の日本にはありふれた物。


 帰りに牛丼チェーンに寄り、390円のミニ盛を食べる。


 うまい。


 けど――


 九龍城の山盛りの炒麺。

 湯気と一緒に香る香辛料の匂い。


 たった少しの滞在なのに、もう戻りたくて仕方なかった。


「ただいまー」


 一旦、自宅へと戻る。


「お帰り、晴人」


 母親がキッチンのほうから顔をだす。


「あら、晴人、どうしたの、そんなにたくさん? ……商売でも始めるわけ?」


「え……」


 ビニールいっぱいに詰まった物を見た母さんに問われ、言葉に詰まる。


「やぁねぇ〜、冗談よ。部活の買い出しとかでしょ?」


「そ、そうなんだ」


「フフっ? なんだか楽しそうね、晴人」


「た、楽しそう?」


「ええ。部活がよっぽど楽しいのね。なんだか表情が生き生きしてるわ」


「そ、そっか」


「ん……。ちょっと、晴人!」


 クンクンと鼻を鳴らしながら、俺に近づいてきた母さん。


「な、なに?」


「……お風呂、入りなさい。あなた、どこかの魔窟にでも行ってたみたいなニオイがするわ」


「えっ!」


 ……どうやら、九龍城に慣れて、鼻が麻痺していたらしい。


「今お風呂沸かすから、また出掛けるならお風呂入ってからね?」


「わ、分かった!」


 ──こうして、俺は、久々の我が家で英気を養うのだった……。



 ふたたび部室に戻ってきた俺は、鉄の扉を開ける。


 湿った空気が、顔にぶつかった。


「エンウー!」


 通路の奥から顔を出す。


「あら。今日は早いのね」


「持ってきたものがある」


 袋を見せると、眉をひそめた。


「……それ、何?」


「外の世界の道具」


「九龍城の外から?」


「まぁ、そんな感じ」


 近くの台に並べる。


 通りかかったおばさんが足を止める。


「これは何だい?」


「まず、これ」


 殺虫スプレーを床に吹いた。


 隙間から出てきたゴキブリが、瞬時にひっくり返る。


「……!」


「虫が、死んだ……」


「煙も出ないのか?」


 周囲がざわつく。


 次に水筒を取り出し、蓋を開けた。

 中には、自宅に戻った際に入れておいた冷たいお茶が入っている。


「飲んでみる?」


 通りがかった中年の男に差し出す。


「冷えてる……」


 一口飲んで、目を見開いた。


「……冷たい茶だ!?」


「魔法瓶ってやつ」


「氷もないのにっ?」


 ハンディ扇風機のスイッチを入れる。


 小さな風が吹く。


「……涼しいわ!」


 エンウーが目を丸くする。


「こんなに小さい扇風機、はじめて見たわっ!」


(百円ショップに山積みされてたけどね……)


「ただなぁ、兄ちゃん……。そんな高価そうな物は俺たちには買えねぇぜ……?」


(うーん……。元値で売るのも、かえってややこしくなりそうだしなぁ……)


「どれでも二十元です」


 日本円だと、五百円くらい。

 ちょっと、ふっかけてるかな……?


「に、二十元……?! か、買った!」


 杞憂もなんのその。

 投げるようにお金を渡され、商品を渡す。


「こ、これとこれ、五つちょうだい!」


「す、すみません、お一人様一点でお願いしますっ!」


 慌てて購入制限を設ける。


 気づけば袋は半分空になっていた。


「すごいわね」


「売れるとは思わなかった」


「当たり前よ。ここは、欲しいものが多すぎるの」


「……あたしにも仕入れ先、教えてよ」


「ごめん、店主に内緒って言われてる」


「えー、けち」


 裏路地で一息つく。


 エンウーは小さな鏡をのぞき込む。


「……顔が、はっきり見える」


「いる?」


「……もらっていいの?」


「お土産」


「……ありがとう」


 少しだけ声が小さかった。


「ほどほどにしなさい。目立つと、よくない人に見つかるわ」


「青龍会?」


「ええ。商売に口出す人たちよ」


 通路の奥で、男がこちらを見ている。


 作業着姿で、壁にもたれている。


「……見られてる?」


「気のせいじゃないわ」


 エンウーは鏡を布に包んだ。


「今日は、ここまでにしましょう」


 通路の灯りが一つ、ぱちりと消えた。


 湿った闇が、さっきより濃くなる。


「……そろそろ帰るわよ」


「うん」


 エンウーの後ろを歩きながら、俺は袋の中身を確認した。


 殺虫スプレーは残り二本。

 水筒は売り切れ。

 ハンディ扇風機は一つだけ。

 ヘッドライトと洗剤が、底でぶつかり合っている。


「売れすぎたな……」


「初日なら、こんなものよ」


 エンウーは足を止め、振り返る。


「でも、やりすぎはだめだわ。あんた、ここでは“変わった物を持ってくる子”って覚えられたもの」


「覚えられるの、まずい?」


「まずい人に覚えられるのが、まずいのよ」


 通路の向こうで、鍋を打つ音が響く。


 どこかで子どもの笑い声。

 水が流れる音。

 遠くのラジオから、かすれた広東語の歌。


「……ここ、やっぱり迷路だな」


「地図なんて意味ないわ。匂いと音で覚えるの」


「匂い?」


「この先は、豆腐屋の匂い。曲がると、油と八角。ほら」


 言われてみると、確かに空気が変わる。


 油の匂いが強くなり、喉が少し痛い。


「すごいな」


「ここで生まれたら、誰でもそうなるわ」


 古い階段の前で、エンウーが立ち止まる。


「今日は、ここまで」


「危なくない?」


「この時間なら平気よ。顔見知りばかりだもの」


 少しだけ、間が空く。


「……また来る?」


「来るよ」


「なら、次は……」


 エンウーは少し考え込んでから言った。


「光る物がいいわ。暗い場所で使えるもの」


「ヘッドライト?」


「そういうの」


「分かった」


「約束よ」


 エンウーは手を振り、通路の闇に溶けていった。


 俺は一人、鉄の扉の前に立つ。


 白い塗装が、ところどころ剥げている。

 九龍城の壁に、不自然にまっすぐはめ込まれた扉。


「……じゃあな」


 ノブに手をかける。


 ひんやりとした感触。


 開けると、蛍光灯の光があふれ出した。


 部室の匂い。

 乾いた空気。

 外から聞こえる、夕方の校庭の声。


「……戻れた」


 けれど。


 服には、油と香辛料と、湿ったコンクリートの匂いが残っている。


 俺は窓を開けた。


 冷たい風が入ってくる。


「……明日も、行けるよな」


 机の上に置いたハンディ扇風機が、小さく光った。


 まるで、九龍城の通路の続きを示すみたいに。


 部室へ戻る前、俺は振り返る。


 暗い通路の中で、

 百円の道具が、ほんの少しだけ光を増やしていた。

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