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九龍帰譚〜魔窟に暮らす少女と過ごす不思議な日々〜  作者: きたみ詩亜


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第4話 迷宮の中の朝

 エンウーの部屋で一夜を過ごした翌朝。

 目を覚ますと、天井すれすれに配管が走っていた。むき出しの金属管から、水滴がぽたり、ぽたりと落ちてくる音がする。


 壁は薄いコンクリートで、ところどころ黒ずんでいる。窓は手のひらほどの大きさしかなく、鉄格子の向こうには、別の建物の壁がすぐ目の前に迫っていた。


 空が見えない。


 代わりに見えるのは、無数の洗濯物と、絡み合う電線と、赤い文字の看板だった。


「起きたのね、晴人」


 カーテン代わりの布をめくって、エンウーが顔を出す。もう作業着ではなく、白いシャツに濃紺のスカートという、少し地味な服装だ。


https://kakuyomu.jp/users/mm-kuroichigo/news/822139845321000226


「おはよう……」


「朝ごはん、外で食べましょう。ここじゃ落ち着かないでしょ」


 部屋を出ると、すぐに通路だった。幅は大人二人がすれ違うのがやっと。天井からは裸電球がぶら下がり、壁には漢字の落書きや、色あせた広告紙が貼られている。


 どこからか、湯気と油の匂いが流れてきた。


「……迷路だな、ここ」


「九龍城だもの。迷わないほうがおかしいわ」


 エンウーは迷いなく曲がり角を進む。階段を下り、また曲がり、細い橋のような通路を渡る。


 途中、木箱を積んだおじさんとすれ違い、天秤棒を担いだおばさんとぶつかりそうになる。


「エンウー、昨日の続きの配線、午後やるからな!」


「分かってるわ、チンさん」


 知り合いらしい。


 屋台が並ぶ一角に出ると、空気が一気に熱くなった。鉄鍋で何かを炒める音、蒸籠から立ち上る白い湯気、赤い看板。


『福来菜館』

『龍門酒家』

『金華点心』


「すご……」


「このあたりは食べ物屋が多いの。安いし、早いし、味も悪くないわ」


 エンウーが指さしたのは、壁と壁の間に挟まれたような小さな店だった。四角い鉄板の上で、野菜と肉が激しく混ぜられている。


「二つちょうだい」


 店主が無言で頷き、紙皿に山盛りの炒飯を乗せる。


 受け取った瞬間、湯気と一緒に香辛料の匂いが鼻を突いた。


「熱いから気をつけなさい」


「うん……うまっ」


「でしょ。これで三元よ」


(三元……?)


 そう思った瞬間、頭の奥に数字がすっと浮かんだ。


(……だいたい、五十円くらいか)


 理由は分からない。ただ、中国語が日本語に聞こえるのと同じで、値段も意味だけが自然に入ってきた。


(この量で五十円……安すぎだろ)


「どうしたの?」


「いや……安いなって」


「九龍城は、だいたいこんなものよ。料理屋はたくさんあるし」


「へー……」


 周囲を見渡すと、通路の壁には無数の看板が突き出している。


『林記医館』

『順安旅社』

『東方電器』


 上にも下にも、横にも縦にも、文字だらけだ。


「料理はたくさんあるんだけどね。九龍城では、物が足りないのよ。たとえば、特に小さい道具とか」


「そうなんだ……」


「えぇ……」


 周りを見回すと、忙しなさそうにしている人たち。


「ここ、本当に人が住んでるんだな……」


「住んでるし、生きてるわ。学校もあるし、病院もある」


「学校?」


「ええ。私も通ってるわ」


 エンウーは少しだけ、視線をそらした。


「今日は案内してあげる。九龍城、初めてなんでしょう?」


「……うん」


 通路を抜けると、突然、天井が高くなった。壊れかけの吹き抜けで、上から薄い光が差し込んでいる。


 その光の中を、紙飛行機がふわりと横切った。


 上を見ると、屋上に子どもたちが集まっていた。


「飛行機、飛ばしてる……」


「屋上は少しだけ空が見えるのよ。飛行機も通るし」


 遠くで、低く唸るような音がした。見上げると、ビルの隙間を縫うように、旅客機がゆっくり通過していく。


 機体が、信じられないほど近い。


「近っ……」


「慣れるわ。毎日通るもの」


 エンウーはそう言って、少し笑った。


「ねえ、晴人」


「なに?」


「あなた、本当に日本人なのよね?」


「そうだけど……」


「……あなたの中国語、完璧よ?」


「そう? 俺、中国語なんて習ったことないんだけどね……」


「……晴人、謙遜がすぎると嫌味に聞こえるわよ?」


 しばらく沈黙が落ちた。


 遠くで、鍋を叩く音と、ラジオの音楽が混ざって聞こえる。


「……帰り道、分かる?」


「たぶん、あの部室の扉なら」


「扉?」


「いや……なんでもない」


 エンウーは首を傾げたが、深くは聞かなかった。


「今日は城内を一周しましょう。学校も、仕事場も、屋上も」


「観光ツアーだな」


「案内料、炒麺一皿でいいわ」


「安すぎるだろ」


 エンウーは少し胸を張る。


「九龍城の案内人は、私よ」


 迷宮の中で、少女はそう言った。

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