第4話 迷宮の中の朝
エンウーの部屋で一夜を過ごした翌朝。
目を覚ますと、天井すれすれに配管が走っていた。むき出しの金属管から、水滴がぽたり、ぽたりと落ちてくる音がする。
壁は薄いコンクリートで、ところどころ黒ずんでいる。窓は手のひらほどの大きさしかなく、鉄格子の向こうには、別の建物の壁がすぐ目の前に迫っていた。
空が見えない。
代わりに見えるのは、無数の洗濯物と、絡み合う電線と、赤い文字の看板だった。
「起きたのね、晴人」
カーテン代わりの布をめくって、エンウーが顔を出す。もう作業着ではなく、白いシャツに濃紺のスカートという、少し地味な服装だ。
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「おはよう……」
「朝ごはん、外で食べましょう。ここじゃ落ち着かないでしょ」
部屋を出ると、すぐに通路だった。幅は大人二人がすれ違うのがやっと。天井からは裸電球がぶら下がり、壁には漢字の落書きや、色あせた広告紙が貼られている。
どこからか、湯気と油の匂いが流れてきた。
「……迷路だな、ここ」
「九龍城だもの。迷わないほうがおかしいわ」
エンウーは迷いなく曲がり角を進む。階段を下り、また曲がり、細い橋のような通路を渡る。
途中、木箱を積んだおじさんとすれ違い、天秤棒を担いだおばさんとぶつかりそうになる。
「エンウー、昨日の続きの配線、午後やるからな!」
「分かってるわ、陳さん」
知り合いらしい。
屋台が並ぶ一角に出ると、空気が一気に熱くなった。鉄鍋で何かを炒める音、蒸籠から立ち上る白い湯気、赤い看板。
『福来菜館』
『龍門酒家』
『金華点心』
「すご……」
「このあたりは食べ物屋が多いの。安いし、早いし、味も悪くないわ」
エンウーが指さしたのは、壁と壁の間に挟まれたような小さな店だった。四角い鉄板の上で、野菜と肉が激しく混ぜられている。
「二つちょうだい」
店主が無言で頷き、紙皿に山盛りの炒飯を乗せる。
受け取った瞬間、湯気と一緒に香辛料の匂いが鼻を突いた。
「熱いから気をつけなさい」
「うん……うまっ」
「でしょ。これで三元よ」
(三元……?)
そう思った瞬間、頭の奥に数字がすっと浮かんだ。
(……だいたい、五十円くらいか)
理由は分からない。ただ、中国語が日本語に聞こえるのと同じで、値段も意味だけが自然に入ってきた。
(この量で五十円……安すぎだろ)
「どうしたの?」
「いや……安いなって」
「九龍城は、だいたいこんなものよ。料理屋はたくさんあるし」
「へー……」
周囲を見渡すと、通路の壁には無数の看板が突き出している。
『林記医館』
『順安旅社』
『東方電器』
上にも下にも、横にも縦にも、文字だらけだ。
「料理はたくさんあるんだけどね。九龍城では、物が足りないのよ。たとえば、特に小さい道具とか」
「そうなんだ……」
「えぇ……」
周りを見回すと、忙しなさそうにしている人たち。
「ここ、本当に人が住んでるんだな……」
「住んでるし、生きてるわ。学校もあるし、病院もある」
「学校?」
「ええ。私も通ってるわ」
エンウーは少しだけ、視線をそらした。
「今日は案内してあげる。九龍城、初めてなんでしょう?」
「……うん」
通路を抜けると、突然、天井が高くなった。壊れかけの吹き抜けで、上から薄い光が差し込んでいる。
その光の中を、紙飛行機がふわりと横切った。
上を見ると、屋上に子どもたちが集まっていた。
「飛行機、飛ばしてる……」
「屋上は少しだけ空が見えるのよ。飛行機も通るし」
遠くで、低く唸るような音がした。見上げると、ビルの隙間を縫うように、旅客機がゆっくり通過していく。
機体が、信じられないほど近い。
「近っ……」
「慣れるわ。毎日通るもの」
エンウーはそう言って、少し笑った。
「ねえ、晴人」
「なに?」
「あなた、本当に日本人なのよね?」
「そうだけど……」
「……あなたの中国語、完璧よ?」
「そう? 俺、中国語なんて習ったことないんだけどね……」
「……晴人、謙遜がすぎると嫌味に聞こえるわよ?」
しばらく沈黙が落ちた。
遠くで、鍋を叩く音と、ラジオの音楽が混ざって聞こえる。
「……帰り道、分かる?」
「たぶん、あの部室の扉なら」
「扉?」
「いや……なんでもない」
エンウーは首を傾げたが、深くは聞かなかった。
「今日は城内を一周しましょう。学校も、仕事場も、屋上も」
「観光ツアーだな」
「案内料、炒麺一皿でいいわ」
「安すぎるだろ」
エンウーは少し胸を張る。
「九龍城の案内人は、私よ」
迷宮の中で、少女はそう言った。




