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九龍帰譚〜魔窟に暮らす少女と過ごす不思議な日々〜  作者: きたみ詩亜


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第3話 屋上と、低く飛ぶ飛行機

 通路を抜け、細い階段を上がっていく。

 鉄の段はところどころ歪み、踏むたびにきしんだ音を立てた。


 上に行くほど、空気が少しだけ軽くなる気がする。


「この先、屋上よ」


「屋上……あるんだな、ちゃんと」


「ええ。一応、外よ」


 最後の階段を上りきると、低い鉄扉があった。

 エンウーが押すと、ぎい、と音を立てて開く。


 外の光が、目に飛び込んできた。


 そこは、想像していた屋上とは違っていた。

 コンクリートの床には、水たまり。

 錆びたドラム缶と、干された洗濯物。

 壊れかけの椅子が一脚、ぽつんと置かれている。


 周囲は、ぎっしりと建物に囲まれていた。

 窓、窓、窓。

 無数の部屋が積み重なり、空は細長い帯のように見える。


「……すごいな」


「慣れると、落ち着くわ」


 エンウーは、手すり代わりの鉄パイプにもたれた。


「ここ、好きなの」


「どうして?」


「風があるし、空が見えるからよ」


 そのときだった。


 ごう、という音が近づいてくる。


「……なに?」


「来るわ」


 エンウーが空を指さす。


 次の瞬間、建物の隙間を縫うように、飛行機が現れた。

 腹が見えるほど低い。

 エンジン音が、屋上全体を揺らす。


「うわっ……!」


「近いでしょ」


 飛行機は、すぐに視界の向こうへ消えていった。


「……信じられない」


「毎日見るわ。夜も飛ぶの」


 エンウーは、少し誇らしげだった。


「九龍城の上は、空港の道だから」


 俺は、手すりに近づいて下をのぞいた。

 迷路みたいな通路。

 湯気と煙。

 人の影が小さく動いている。


「ここで暮らしてるんだな……」


「そうよ。みんな、ここで生きてるわ」


 少し沈黙が流れる。


「……怖くないのか?」


「危ないこともあるわ」


 エンウーは、遠くを見つめた。


「でも、ここには学校もあるし、店もあるし、友達もいる」


「学校?」


「城の中にあるの。小さいけどね」


 風が吹いて、洗濯物が揺れた。


「……晴人は、元の場所に戻るの?」


「分からない」


 本当の気持ちだった。

 部室の扉。

 戻れるのかどうかも、確かめていない。


「戻れなくなったら、どうするの?」


「そのとき考える」


「変な人ね」


 エンウーは、小さく笑った。


「……お腹、すいた?」


「言われると……すいた」


「じゃあ、下に行きましょ」


 屋上を出て、また迷路の中へ戻る。

 通路には、鉄鍋を振る音と、油の匂い。


「この辺、食堂が多いの」


「屋台みたいな?」


「屋台じゃないわ。家よ」


 壁際の小さな店の前で、エンウーは止まった。


 鍋の中で、麺がぐつぐつ煮えている。


「ここ、安くておいしいわ」


「……大丈夫か?」


「大丈夫よ。あたし、よく来るもの」


 湯気の中で、店の親父がこっちを見た。


「おや、エンウー。今日は連れがいるのかい」


「ええ。迷子よ」


「ほう……珍しい顔だ」


 俺は、なんとなく頭を下げた。


 椅子は低く、ぐらついている。

 出てきた丼は、欠けていた。


 でも、スープの匂いは、ちゃんとうまそうだった。


「……いただきます」


「いただきます、よ」


 麺をすすると、思ったより熱くて、思ったよりうまい。


「……意外とうまい」


「意外は余計だわ」


 エンウーは、むっとしながらも、少し嬉しそうだった。


 九龍城の屋上。

 低く飛ぶ飛行機。

 狭い店の、熱い麺。


 部室の奥に続くこの街で、

 俺は、少しずつ“日常”を増やしていっていた。

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