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九龍帰譚〜魔窟に暮らす少女と過ごす不思議な日々〜  作者: きたみ詩亜


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第2話 借り物の服と、狭い部屋

 エンウーに案内されて、さらに奥へ進んだ。


 通路はますます細くなり、天井も低くなる。

 頭上を走る配管から、水滴がぽたぽた落ちていた。

 油と洗剤と、生乾きの布の匂いが混ざっている。


 洗濯物が、天井からロープで吊るされていた。

 ズボン、シャツ、タオル。

 ところどころに洗濯ばさみが挟まっている。


「……生活感、すごいな」


「みんな、こうよ。干す場所なんて、ないもの」


 エンウーは小さな木の扉の前で立ち止まった。


 塗装は剥げ、真ん中にひびが入っている。

 ドアノブの代わりに、針金が巻かれていた。


「ここ。あたしの家」


「……家?」


 扉を開けると、すぐ部屋だった。


 四畳ほどの空間。

 壁には薄いカレンダーと、色あせたポスター。

 片隅に小さな机と、簡易ベッド。

 天井近くの棚には、鍋や食器が積まれている。


 窓はない。

 代わりに、通路に面した小さな格子がついていた。


「……狭いな」


「慣れれば平気よ」


 エンウーは、俺をじっと見た。


「その制服、目立つわ」


「え?」


「学生服で歩いたら、すぐ分かるもの」


 確かに、周囲は作業着や私服ばかりだ。

 俺だけ、異物みたいに浮いている。


「だから……」


 エンウーは棚を開け、服を取り出した。


 くたびれたシャツと、少し大きめのズボン。


「お父さんの。貸すわ」


「えっ、いいのか?」


「別に。仕事で家にいないし」


「……怒られない?」


「たぶん、気づかないわ」


 そう言って、投げるように渡してきた。


 着替えると、サイズが大きくて袖が余った。


「……なんか、怪しいな」


「その方がいいわ。学生より、労働者の方が目立たないもの」


 鏡代わりに、小さな金属板を渡される。


「……どう?」


「九龍城の人って感じ」


「嬉しくない……」


 エンウーは小さく笑った。


「じゃあ、少し歩くわよ」


 部屋を出ると、さっきよりも通路が暗く感じた。


 裸電球が揺れている。

 壁の赤い文字は、油で滲んでいた。


『金福菜館』

『順興雑貨』


 鍋の音。

 水の音。

 誰かの怒鳴り声。


「……ここ、全部家なのか?」


「そう。上も下も横も、全部」


「迷いそうだ」


「迷うわよ。だから、勝手に歩かないで」


「……はい」


 しばらく歩くと、少し広い場所に出た。


 椅子と机が並び、湯気が立ちのぼっている。

 麺の匂いが強い。


「炒麺、食べる?」


「食べたい」


 金属の皿に山盛りの麺。


「……多くないか」


「これで普通よ」


 箸で持ち上げると、湯気と一緒に香辛料の匂いが広がった。


「……うまい」


「でしょ」


 エンウーは少し誇らしげだった。


「……なぁ」


「なに?」


「俺、ちゃんと戻れるのか?」


 エンウーは箸を止めた。


「出口はあるわ。あたしは知らないけど」


「……知らない?」


「城は勝手に形が変わるの」


 妙に現実的な言い方だった。


「でも」


 エンウーは俺を見た。


「戻りたいなら、戻れると思うわ」


「……なんとなく?」


「なんとなく」


 少し沈黙が流れた。


「……戻れるまでは、この部屋に住むといいわ」


「え……いいの?」


「もちろんよ。ただ、ヘンなことしたら駄目だからね?」


「わ、分かってるって……。す、するワケないだろっ」


 思わず顔が熱くなる。


 エンウーが、くすりと笑う。


「あなたとは、仲良くなれそうな気がするわ」


「あ、ありがとう……?」


 そんな感じで、俺は、エンウーのお世話になることになったのだ。

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