第1話 部室の奥に、城があった
俺──相川晴人の同好会には、部員がひとりしかいない。
放課後の部室棟は人影もなく、廊下に響くのは自分の靴音だけだった。
古いコンクリートの壁。
天井の蛍光灯は半分が切れかけていて、じじっと不安な音を立てている。
自分の部室の前に立つと、少しだけ息を吸った。
がらりと引き戸を開ける。
埃の匂いが鼻についた。
机が二つ。
錆びたロッカー。
隅に積まれた段ボール箱。
壁には、すでに同好会を辞めた先輩が残していった、今年日本でもヒットした香港映画のポスターが貼られている。
80年代を舞台にしたというその映画のポスター。
2025年の現在、この古ぼけた部室内でいちばん新しい光を放っていた。
その奥に――
見慣れないものがあった。
鉄製の扉。
壁に埋め込まれるようについていて、黒く錆びている。
取っ手は歪み、塗装も剥げていた。
どう見ても、学校の部室にあるものじゃない。
「……こんなの、前からあったっけ……?」
記憶にない。
昨日までは、ただの壁だったはずだ。
試しに、取っ手に手を伸ばす。
ひんやりと冷たい。
少し力を入れて引いた。
ぎぃ……と、低く軋む音がした。
同時に、空気が変わる。
湿った匂い。
油と香辛料が混ざった匂い。
遠くで怒鳴り声と笑い声が聞こえる。
「……は?」
扉の向こうは、部室の壁ではなかった。
狭い通路。
灰色のコンクリート。
頭上を這う無数の配管と電線。
建物が折り重なり、光はほとんど届かない。
床には水たまりができていて、ぬめっている。
壁には、赤い看板。
『龍華酒家』
『福順菜館』
「……なんだよ、ここ……」
恐る恐る、足を踏み出した。
ぴちゃ、と水音が鳴る。
通路は肩幅ほどしかなく、湯気が漂っている。
どこかで鍋を叩く音がしていた。
角を曲がった、そのとき。
ごん、と鈍い衝撃。
「──痛っ」
箱を抱えた少女と、正面からぶつかった。
黒髪を後ろでひとつに束ねている。
少し大きめの作業着を着て、袖は手の甲まで隠れていた。
大きな瞳が、警戒と戸惑いを混ぜた色で俺を見つめる。
「ご、ごめん! 前見てなくて……」
少女は箱を抱え直し、じっと俺の顔を見た。
「……あなた、見ない顔ね」
「えっと、俺、相川晴人。迷ったみたいで……」
「……日本人なの?」
「……うん」
少女は少し驚いたように瞬きをした。
「外から来たのね」
「……え?」
じっと見つめられる。
「……ずいぶん、中国語うまいのね」
(中国語……? 日本語じゃなくて……??)
「……ここ、どこ?」
「はぁ?」
少女は呆れたように肩をすくめた。
「九龍城に決まってるじゃない」
(九龍城……? たしかさっき見た部室のポスターって、九龍城を舞台にした映画だったような……??)
赤い看板。
湿った通路。
絡み合う配管。
少女は箱を床に置いた。
「私は林煙雨。この辺で働いてるの」
「働いてる……?」
「荷物運びとか、頼まれ仕事よ」
通路の奥を指さす。
「この辺、迷うと戻れなくなるわ」
「……戻る?」
エンウーは首をかしげた。
「出口、分かりにくいでしょ」
振り返ると、さっき通った道はもう分からなかった。
同じような通路がいくつも続いている。
「……案内してくれる?」
エンウーは一瞬考えたあと、うなずいた。
「いいわ。でも、目立たないようにして」
「どうして?」
「青龍会の人に見つかると、面倒だから」
名前だけで、嫌な感じがした。
二人で歩き出す。
濡れた壁。
揺れる裸電球。
赤い文字の看板が並ぶ。
「……学生?」
「高校生。16才」
「ふぅん。一つ上ね。あたし、15才。城の中の学校に通ってるの」
「学校……あるんだ」
「あるわよ。狭いけど」
しばらく沈黙が続いた。
「……変な場所だな」
「そう? あたしには普通だわ」
部室の奥に、こんな街があった。
そこで出会った少女と歩いている。
それが、俺――相川晴人の、
奇妙な日常の始まりだった。




