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不恰好な彫刻

作者: 日進 月歩

私はいまでも、毎年、梅雨が始まる時期になると、あの人のことを思い出す。

別に特別な日でもない。ただ、湿った風がカーテンを揺らす音が、昔と同じように耳に残るからかもしれない。


あれはまだ私が学生だった頃のことである。

一人暮らしをするには、勇気も金も足りなかった。親戚が下宿を営んでいたので、私はそこへ世話になることにした。


その下宿は、古い木造の二階建てで、表通りから少し入った路地の奥にひっそりと建っていた。玄関の框は黒く擦り減り、上がり框の隅にはいつも薄い埃が溜まっていた。廊下は湿気を帯びて、足音がやけに響く。階段を上がると、板の継ぎ目からかすかに隙間風が抜けてくるのがわかった。

部屋は六畳と四畳半が二つ、台所と共同の水場が一つ。風呂はなく、近所の銭湯へ通うのが常だった。夕方になると、どこからともなく飯の匂いと、炭火の煙が混じって漂ってくる。


二階の奥まった一室に、ひとりで暮らす男がいた。

三十をいくつか過ぎたくらいの年恰好で、職業ははっきりしない。昼間はほとんど部屋に籠もり、夜になると時折、机を叩く音が聞こえてきた。激しく、というより、苛立たしげに、しかし規則正しくもあった。

それが何を意味するのか、私にはわからなかったし、聞く気も起きなかった。

私は彼を「先輩」と呼んでいた。

本当の先輩ではない。ただ年上であることと、どこか近づきがたい雰囲気があったから、自然とそう口にしただけである。彼も特に訂正はしなかった。


ある晩、廊下でばったり出会った。

薄暗いランプの灯りに照らされた彼の顔は、思ったより精悍だった。頭に薄汚れたタオルを巻き、濃い紺のつなぎを着ている。そこで初めて、私は彼が職人らしい暮らしをしているのだと察した。髭がまばらに伸びていて、不思議と不快感はなかった。

彼は小さな紙袋を提げていて、中からは酒瓶の首が見えた。

「飲まないか」

ぶっきらぼうに、それだけ言った。

言葉の端に、どこか寂しさがにじんでいるように思えた。私は何も答えず、ただ頷いていた。


部屋は驚くほど整頓されていた。

本がきちんと並び、灰皿は空で、畳の目が乱れていない。ゴミ箱には木屑が少し溜まっていて、そのすぐそばに、完成したのだろうか、いくつかの小さな彫刻が静かに置かれていた。

生活の場というより、ただの作業場のように思えた。人の気配が薄く、息づかいさえ感じられない。

ここで、どれほど長い間、彫り続けていたのだろう。

ふと机の方へ目をやると、背を向けて座る彼の大きな背中が、ぼんやりと浮かんだように見えた。

「飲むぞ」

彼の声に、私ははっとした。あぐらをかいて酒瓶を傾け始めている彼の前に、ゆっくりと座る。


「何の勉強をしているんだ」

「あ、法律を…」

「それはすげぇな」

酒が入ると、彼は急に言葉が多くなった。

彫刻刀の種類、材木の選び方、かつての師匠のことなどを、嬉しげに語り始めた。私はただ、耳を傾けていた。

やがて酒が進むにつれ、彼の声は少しずつ低くなった。

ぽつぽつと、途切れ途切れに話し始める。視線を落とした先には、不格好な形の彫刻が一つあった。彼はその彫刻を、愛おしげに見つめているように見えた。

その眼差しに、私は何とも言えない思いを覚えた。膝を崩し、正座を解いた。

酒はもう半分以上減っていた。

彼の声は低く、時折途切れる。言葉の間が長くなり、部屋の隅に置かれた小さなランプの火が、ゆらゆらと揺れるだけだった。

「昔、師匠がいた」

彼はそう言って、酒を一口含んだ。喉が動く音が、静かな部屋に響く。

「彫刻を教えてくれた人だ。厳しくて、口数は少なかったが、手は優しかった。

俺の彫ったものを黙って見て、ただ一言、『もう少しだ』と言う。それが褒め言葉だった」

私は黙って聞いていた。膝の上に置いた手が、知らずに握りしめられている。


「ある日、俺は言ってしまった。

『師匠の作風は、もう時代遅れだと思います』と。

ただの酔った勢いだったのかもしれない。

いや、勢いなどはただの言い訳だな。

俺は本気で、そう思っていたのかもしれない」

彼の視線は、再び不格好な彫刻に落ちた。指でその表面をなぞる仕草は、まるで傷を確かめるようだった。

「それから三日後、師匠は死んだ。…自ら命を絶ったんだ。

直接、手をかけたわけではない。だが、あの言葉がなければ、師匠はまだ生きていたかもしれない。

俺はそう思う。毎日、そう思う」

言葉が途切れた。

部屋の中は、酒の匂いと木の匂いだけが残り、静かだった。私は何も言えなかった。慰める言葉も、咎める言葉も、出てこない。ただ、彼の横顔を、ぼんやりと見つめていた。

彼は小さく息を吐いた。

「だから、俺はもう彫らない。

いや、彫っている。だが、それはもう、師匠のためでも、自分のためでもない。ただ、彫るしかないから、彫っているだけだ」

ランプの火が、また揺れた。

私は膝を崩したまま、動けなかった。


不意に声をかけられる。

「…なぁ、法曹界を担う青年よ」

私は背筋を伸ばした。

「俺はどんな罪で罰せられるんだ?」

彼はそう言って、静かに笑った。

笑いというより、唇の端がわずかに上がっただけだった。

「…直接手を下したわけでもなく、意図的に傷つける言葉を告げたわけでもない。だから、現時点ではあなたを罰する法律は存在しないかと」

他に言うべき言葉はなかったのだろうか、といまでも悔やんでいる。

慰める言葉も、咎める言葉も、出てこなかった。ただ、彼が酒をあおる喉仏が、ゆっくりと上下するのを眺めているしかできなかったのだ。

それから二ヶ月ほどして、彼は部屋を引き払った。 誰にも告げることなく。荷物は少なく、夜中に誰かが運び出したらしい。

私は最後に会った夜のことを、誰にも話さなかった。

誰にも言いたくなかったのかもしれない。

誰よりも深い悲しみを心に宿す彼の姿を、独り占めにしたかったのかもしれない。


そして、今、雨音を聞く。

秋の夜の雨だ。梅雨のように激しくはない。ただ、細く、途切れなく降り続く。窓硝子に当たる音は、最初はかすかで、徐々に部屋の中に染み込んでくる。外では、木の葉が重く濡れ、軒先から水滴がぽたりぽたりと落ち、地面の土を暗く染めていく。空気は湿り気を帯び、かすかな土の匂いが、開いた窓の隙間から入り込んでくる。

あの夜から、もう何年も経っている。私はいま、弁護士として日々を過ごしている。法廷で言葉を交わし、罪と罰を秤にかける。だが、あのときの問いの答えはいまも見つかっていない。



時折、下宿の階段をのぼる夢を見る。

これは夢だ、とどこか冷めた意識が囁いている。それでも足は、何年も前の夜と同じ速さで段を踏む。木の軋む音も、湿った空気も、記憶よりはるかに生々しい。

二階の廊下は薄暗く、ランプの火が揺れた。閉ざされた彼の部屋の障子に、その光に縁取られた影がぼんやりと映っている。

扉の前に立つたび、結末まで分かっている再生映像のように、手は同じ位置で止まる。

開けたところで、何も変わらない。

それを知っているからこそ、この夢からも、目を逸らせない。



ふっと、意識が浮上する。

訴状を書いている最中に眠ってしまったようだ。指先にはまだ、紙の感触が残っている。インクの匂いと、湿った空気が混じり合い、ゆっくりと現実を認識する。

窓の外では、雨音が続いている。

さっきまで夢の中で聞いていたあの雨と、どこか同じ調子で、しかし確かに別の時間を刻んでいる音だ。遠くの車の走行音、時計の秒針のかすかな刻み。世界は何事もなかったかのように、静かに進んでいる。

私は目を閉じた。

もう一度、あの下宿の廊下の暗さと、ランプの揺れる光と、扉の前で止まったままの自分の手を、胸の奥にしまい込むように。

あの人の悔恨も、沈黙も、不格好な彫刻も。

そして、それらを見つめることしかできなかった若いころの自分の無力さも。

あの悲しみを、誰にも渡したくないと思った。

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