5-1 “先輩”って呼ぶたび、世界の色が少しずつ変わっていく。
◆
九条あまね先輩は、やっぱり、彫刻みたいだ。
白い肌は、光をはね返すのでも、照り返すのでもなく――まるで、そっと吸い込むよう。
さらりと流れる黒髪は、風にほぐれる絹糸みたいにやわらかく、どこか儚い。
横顔の輪郭は、まるで硬質な線でなぞったみたいに整っていて。
長いまつ毛の影が、ふわりと揺れる。
ひとひらの羽のように、影が揺れて――その一瞬が、あたしの胸をやさしく打つ。
何度見ても、毎回、恋をする。
丁字路の廊下で、先輩を見かけた。
あたしたちは左に曲がる。
先輩は、左側から現れて、右側へと静かに歩いていく。
このままじゃ、また、あたしが一方的に見ているだけだ。
先輩はひとりで、無言。足音すら立てない。
まるで空気さえも寄せつけないような静けさをまとって。
つまらなさそうな表情で、すれ違っていく。
――昨日、あんなに近くで、同じ時間を過ごしたのに。
やっぱり、先輩とあたしには、最初から接点なんてなかったのかもしれない。
喉の奥が、何か言おうとして動く。
でも、声は出なかった。
胸がぎゅっと痛む。
……あたしは、また何も言えない。
先輩の影が、床をすべるように通り過ぎていく。
背中が遠ざかるたびに、心臓が悲鳴をあげる。
このままじゃ、ダメだ。
何か言わなきゃ。
言葉を探して、声を探して、心の奥を、必死に掻き回す。
なのに、出てこない。
昨日の続きを話す言葉も。
名前を呼ぶ、たったそれだけの勇気すらも。
こんなことじゃ。
ただ、見送っていた、だけの――。
一昨日までのあたしと。
1年間、心の中で何百回も呼んでいたあたしと、何も変わらないじゃないか!
「おはよう、飛鳥ちゃん」
その瞬間、世界の色が、静かに変わった。
あたしの名前を呼ぶ、冷たくて、でもやわらかな声。
胸の奥がきゅっと跳ねて、反射的に顔を上げる。
先輩が、こっちに。
あたしに――歩み寄って。
ふわりと、影が重なる。
「――……せ、先輩」
「うん」
すぐ目の前に立つ九条先輩。
背が高くて、肩越しに廊下の先が見えなくなる。
顔が見たくて、つい、見上げた。
冷たい朝の空気みたいな、石鹸とも香水ともつかない、清らかな匂いがした。
心臓がバクンッて、跳ねる。
「お、おっ、……おはようございますっ!!」
声が裏返りそうになるのを、ぎりぎりで飲み込む。
先輩は、返事の代わりに、ほんの少しうなずいた。
たったそれだけで、心がきゅっとした。
「……髪、少し跳ねてる」
先輩の視線が、あたしの髪に落ちた。
ほんの一瞬、手を伸ばしかけて――けれど、すぐに引っ込める。
「……ごめん。癖、強そうだったから」
――今、確実に、世界の時間がスローになった。
先輩の指が近づいて。
それだけで酸素が足りないのに。
触れてほしい。ちょっとでいいから。いや、むしろ、ぐしゃってしてほしい。
だって、あたしの髪を気にしてくれた。
そんなのもう、"好きだよ"って、言われるより……っ!
「……あのっ! あの、……先輩っ!」
先輩の肩が、ぴくりと動く。
「なおして、くださいっ……!!」
叫ぶように、しぼり出す。
顔が真っ赤なのが自分でもわかる。
先輩の瞳が、少しだけ見開かれた気がした。
でも、それはすぐに、静かなまなざしに戻って――。
ふわり。
指先が、あたしの髪にそっと触れた。
跳ねていた一房を、やさしく、なぞるように整えて。
まるで壊れものに触れるような、丁寧で、おだやかな手つき。
「……うん。なおった」
その言葉の後、指が離れていく。
……ぼーっとする。
頭の芯が、熱いのか冷たいのかもわからない。
心臓がずっと喧しく鳴っている。
頭も、胸も、騒がしくて、息ができないくらいなのに。
あたしの世界は、静かで、優しくて、満ち足りる。
先輩の瞳は、相変わらず感情を見せない。
だけど――。
「また、放課後。旧図書室で」
そのひと言だけを残して、先輩はくるりと背を向けた。
一歩、また一歩。ゆっくりと歩き出す。
静かに、でも確かに――。
先輩は、ここにいた。
……これが、夢じゃないなんて。
あまりにも鮮やかすぎて、現実の方があとから追いついてくる。
じわじわと温度が戻ってきて。
顔が、熱い。熱すぎる。このままだと、ほんとに溶けちゃいそう。
心臓はまだ、暴れっぱなしだ。
でも――たとえ誰に聞かれても、もう、平気だと思った。
「……えっ、えぇっ!? ひなた、今の……今のって、何~!?!?」
――前言撤回。