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5-1 “先輩”って呼ぶたび、世界の色が少しずつ変わっていく。


 九条あまね先輩は、やっぱり、彫刻みたいだ。

 白い肌は、光をはね返すのでも、照り返すのでもなく――まるで、そっと吸い込むよう。

 さらりと流れる黒髪は、風にほぐれる絹糸みたいにやわらかく、どこか儚い。

 横顔の輪郭は、まるで硬質な線でなぞったみたいに整っていて。

 長いまつ毛の影が、ふわりと揺れる。

 ひとひらの羽のように、影が揺れて――その一瞬が、あたしの胸をやさしく打つ。

 何度見ても、毎回、恋をする。


 丁字路の廊下で、先輩を見かけた。

 あたしたちは左に曲がる。

 先輩は、左側から現れて、右側へと静かに歩いていく。

 このままじゃ、また、あたしが一方的に見ているだけだ。

 先輩はひとりで、無言。足音すら立てない。

 まるで空気さえも寄せつけないような静けさをまとって。

 つまらなさそうな表情で、すれ違っていく。


 ――昨日、あんなに近くで、同じ時間を過ごしたのに。

 やっぱり、先輩とあたしには、最初から接点なんてなかったのかもしれない。


 喉の奥が、何か言おうとして動く。

 でも、声は出なかった。

 胸がぎゅっと痛む。

 ……あたしは、また何も言えない。

 先輩の影が、床をすべるように通り過ぎていく。

 背中が遠ざかるたびに、心臓が悲鳴をあげる。

 このままじゃ、ダメだ。

 何か言わなきゃ。

 言葉を探して、声を探して、心の奥を、必死に掻き回す。

 なのに、出てこない。

 昨日の続きを話す言葉も。

 名前を呼ぶ、たったそれだけの勇気すらも。


 こんなことじゃ。

 ただ、見送っていた、だけの――。

 一昨日までのあたしと。

 1年間、心の中で何百回も呼んでいたあたしと、何も変わらないじゃないか!




「おはよう、飛鳥ちゃん」


 その瞬間、世界の色が、静かに変わった。


 あたしの名前を呼ぶ、冷たくて、でもやわらかな声。

 胸の奥がきゅっと跳ねて、反射的に顔を上げる。

 先輩が、こっちに。

 あたしに――歩み寄って。

 ふわりと、影が重なる。


「――……せ、先輩」

「うん」


 すぐ目の前に立つ九条先輩。

 背が高くて、肩越しに廊下の先が見えなくなる。

 顔が見たくて、つい、見上げた。

 冷たい朝の空気みたいな、石鹸とも香水ともつかない、清らかな匂いがした。

 心臓がバクンッて、跳ねる。


「お、おっ、……おはようございますっ!!」


 声が裏返りそうになるのを、ぎりぎりで飲み込む。

 先輩は、返事の代わりに、ほんの少しうなずいた。

 たったそれだけで、心がきゅっとした。


「……髪、少し跳ねてる」


 先輩の視線が、あたしの髪に落ちた。

 ほんの一瞬、手を伸ばしかけて――けれど、すぐに引っ込める。


「……ごめん。癖、強そうだったから」


 ――今、確実に、世界の時間がスローになった。

 先輩の指が近づいて。

 それだけで酸素が足りないのに。

 触れてほしい。ちょっとでいいから。いや、むしろ、ぐしゃってしてほしい。

 だって、あたしの髪を気にしてくれた。

 そんなのもう、"好きだよ"って、言われるより……っ!


「……あのっ! あの、……先輩っ!」


 先輩の肩が、ぴくりと動く。


「なおして、くださいっ……!!」


 叫ぶように、しぼり出す。

 顔が真っ赤なのが自分でもわかる。

 先輩の瞳が、少しだけ見開かれた気がした。

 でも、それはすぐに、静かなまなざしに戻って――。

 ふわり。

 指先が、あたしの髪にそっと触れた。

 跳ねていた一房を、やさしく、なぞるように整えて。

 まるで壊れものに触れるような、丁寧で、おだやかな手つき。


「……うん。なおった」


 その言葉の後、指が離れていく。

 ……ぼーっとする。

 頭の芯が、熱いのか冷たいのかもわからない。

 心臓がずっと喧しく鳴っている。

 頭も、胸も、騒がしくて、息ができないくらいなのに。

 あたしの世界は、静かで、優しくて、満ち足りる。


 先輩の瞳は、相変わらず感情を見せない。

 だけど――。


「また、放課後。旧図書室で」


 そのひと言だけを残して、先輩はくるりと背を向けた。

 一歩、また一歩。ゆっくりと歩き出す。

 静かに、でも確かに――。

 先輩は、ここにいた。

 ……これが、夢じゃないなんて。


 あまりにも鮮やかすぎて、現実の方があとから追いついてくる。

 じわじわと温度が戻ってきて。

 顔が、熱い。熱すぎる。このままだと、ほんとに溶けちゃいそう。

 心臓はまだ、暴れっぱなしだ。

 でも――たとえ誰に聞かれても、もう、平気だと思った。






「……えっ、えぇっ!? ひなた、今の……今のって、何~!?!?」


 ――前言撤回。


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