※END-5 ふたりの人生
■(ふたり暮らし)
木造アパートの、二階の角部屋。
引っ越し初日。ダンボールが山積みのまま。カーテンもまだ足りていない。
けれど、ふたり並んで、小さなちゃぶ台で食べたレトルトカレーは、世界で一番美味しかった。
「……やっと、だね」
カレーをすくいながら、"元"先輩――あまねがつぶやいた。
「うん。やっと」
あの旧図書室で、初めて言葉を交わしたときから、どれだけの季節が過ぎただろう。
泣いて、笑って、遠回りして――。
今日からは、ふたりで同じ冷蔵庫を開けて、同じ洗濯物を干せる。
お互いの家にお邪魔するのではなくて、お互いに生活をつくりあう。
「ねえ、ひなた」
「ん?」
「家に帰って、"おかえり"って言えるの、いいなって。……すごく、思ってる」
……まったく、もう。
あまねはいつも、あたしの感情を揺さぶってくる。
昔だったらそーいうの、顔が真っ赤になっていたんだろうな。
今は、それだけで、涙が出そうになるなんて。
涙腺が弱いあたしも、あたしだ。
「いつからだろうなぁ、……弱くなったのっ!」
「……ひなた、何言ってるの?」
「んーんっ。何でもないよっ。あまね!」
カーテンのない窓から差し込む夕陽が、"元"先輩の顔をやさしく照らしていた。
◆
目覚ましが鳴る前に、ふと目を覚ますと――。
隣で寝ているあまねが、あたしの腕枕で、静かに呼吸していた。
「……ふふっ」
じぃんとしびれる腕も、幸せの証。
寝ぼけた髪の毛。くしゃっとした寝顔。
昔は「寝顔なんて絶対見せない」って言っていたのに。
いつの間にか、あまねは広告代理店に就職して、バリバリ働いている。
あたしも、小さなスポーツ用品メーカーで、中高生の選手支援に関わるようになった。
仕事は忙しいし、すれ違う日もある。
でも、寝る前の「おかえり」と「おやすみ」を交わせるだけで、全部報われる。
――社会に出て、いろんな現実を知ったけれど。
それでも、ふたりで築いたこの家は、いつだって安全地帯だ。
■(プロポーズ)
その日、あまねはいつもより早く帰ってきた。
キッチンから、ちょっと焦げた匂い。
食卓には、小さなホールケーキと、並べられたグラス。
「何、これ……記念日?」
笑いながら聞くと、あまねはそっけなく、
「記念日にしたいなって、思って」
そう言って、ポケットから、小さな箱を取り出した。
そして――まっすぐ、あたしの目を見る。
「ひなた。……わたしと、家族になってください」
指先が震えていた。
声も、かすれていた。
でも、その目だけは真剣で、ずっと、あたしだけを見ていた。
「……うん。喜んで」
涙声で返事をすると、先輩も、ふっと微笑んだ。
リングを薬指にはめてくれる、その手があたたかくて。
電話越しに、はじめて名前を呼んでくれたときの記憶が、ふいに重なる。
九条あまね。
このひとが、あたしの未来だ。
■(結婚式)
あの日と、同じ音がした。
あたしが800mのスタートラインに立ったときの――。
オンユアマークの、鼓動の音。
チャペルのドアが開いて、光が差し込む。
正面に立つ、絢爛なウェディングドレスを着こなしたあまねの姿が、涙でぼやけて、もったいない。
あたしもウェディングドレスを着て、みんなに祝福されて。
でも、どんな言葉よりも胸に刺さったのは、ただ、あまねの琥珀色の瞳だった。
壇上に立つと、あまねが小さく手を差し伸べてくれた。
「……来てくれて、ありがとう」
その一言だけで、涙があふれた。
この人に出会えて、本当によかった。
ここまで来られて、本当によかった。
誓いのキスには、拍手も歓声もあったけど。
あたしの耳には、ふたりの鼓動しか聞こえていなかった。
◆
『あたし、好きな人がいます』
初めてそう切り出したのは、たしか高校3年の冬。
あのときのお母さんの表情も、お父さんの沈黙も、今も覚えている。
でも――時間は、この愛情が本物なんだってことを、ちゃんと証明してくれた。
そして今、結婚式場。
指輪を見せると、お母さんは一瞬黙って、ぽろりと泣いた。
「……あんた、こんなに大人になって。……綺麗になったね」
お父さんは黙ったまま、ただ、うなずいた。
「ふたりで、幸せになりなさい」
その言葉が、どんな結婚届よりも、重たくてあたたかかった。
◆
夜になって、あまねがぽつりと。
「……家族、だね」
そう言って、あたしの手を握ってくれた。
■(未来)
リビングに、親戚の子どもたちの笑い声が響く。
大きめのテーブルに、小さな手がいくつも並ぶ。
「ねーねー、おばさん! あの写真の人だれー?」
「……あれはね、ひなたおばさんの"先輩"だよ。ずっと、一緒にいる大事な人」
「ふーん。きれーな人!」
写真立てには、制服姿のあたしたち。
もう何十年も前のこと。
中学校のあの午後の空気が、そこに写っていた。
◆
子どもたちを寝かしつけた。
へとへとだけど、静かな夜。
老眼鏡をかけて、タブレット端末で新聞を読むあまねの肩に、そっと寄りかかる。
「ねえ、"先輩"。……あのとき、抱きしめてくれて、ありがとうね」
「……もう何十年も前の話を、今さら」
「でも、あそこから、全部が始まったから」
雨の日の神社も、旧図書室も、視聴覚室も。
部室も、病院も。
そして、今のこのリビングも。全部。
「ぜんぶ、先輩がいてくれたから、大丈夫だったんだよ」
あまねはタブレット端末をスリープ状態にする。
あたしを見て、少しだけ笑った。
「じゃあ、これからもずっと、大丈夫だね」
それだけ言って、やさしく手を握ってくれた。
■ (「また、あした」)
眠るように、静かに、あまねは目を閉じていた。
手を握ると、まだほんのりと、体温が残っている気がした。
――冬の朝だった。
雪の予報は外れて、透き通るような青い空が広がっている。
医師に言われた時間は過ぎていた。
だからいつこうなってもおかしくはなかった。
お互いに覚悟はしていた。
でもあたしはまだ、「さようなら」を言っていない。
だから、まだ手を離せない。
耳元で名前を呼んでみる。
「……あまね」
声が、震えた。
ずっとそばにいてくれた。
抱きしめてくれた。支えてくれた。
名前を呼んでくれた。
「……ありがとう。大好きだよ」
その瞬間――あまねの口元が、ほんの少し、笑ったような気がした。
まるで、「またね」と言ってくれたように。
だからあたしも、泣きながら言う。
「……また、あした」
■(「もし、もう一度だけ」)
もし、もう一度だけ、中学時代に戻れるなら。
あたしは、あの日のトラックに立つ自分に言うだろう。
「その涙も、傷も、全部があまねに繋がっていくよ」って。
旧図書室でおにぎりを食べていた先輩に出会ったあの日。
震えるような声で、「声、聴きたくて」と言われた電話の日。
あたしの手を握ってくれた、病院の午後。
すべてが、すべてが――。
愛しい今に、つながっていた。
だからもう一度、戻れるなら。
先輩のあの冷たいまなざしに、もう一度恋をして。
あの名前を、また何度でも、呼びたい。
「……九条、先輩」
この世界で、何度でも。
■(あたしの人生、これから)
葬儀の翌日、世界はいつも通りに朝を迎えた。
鳥の声。通学路を駆け抜ける子どもたちの笑い声。
だけど、あたしの中で、昨日までの世界は確かに終わっていた。
ベッドの端に座って、ただ、ひとつの呼び名を口にする。
「……あまね」
声は、空気に吸い込まれて消えた。
隣にいない、あの人の名前は、こんなにも頼りなく響く。
……あまね。あまねさん。あまね先輩。九条、先輩。
リビングのソファに残るのは、あの人が好きだった薄手のブランケット。
洗濯したばかりのはずなのに、まだ微かに、先輩の香りが残っていた。
――このまま止まってしまいたい。
だけど、先輩ならきっと、こう言う。
「ひなた、走りなさい」
立ち上がる。玄関に行き、スニーカーを履く。
大学では強化指定選手だったんだ。年を取っても、走れるさ。
涙で視界が揺れても、走る。
この足で、世界を生きていく。
先輩の声を、心臓の奥で鳴り響かせながら。
■(ふたりで再会する "夢のなか")
――夕焼けのトラック。
あの日のグラウンドと同じ匂いがした。
気づけば、あまね先輩がスタートラインに立っていた。
中学時代のあの姿のまま。
凛とした背中。濡れ羽色の黒髪が夕陽に透けている。
「……先輩?」
声をかけると、先輩はふっと笑った。
まるで時間なんてなかったかのように。
「走ろう、ひなた」
その声に胸が熱くなる。
並んでスタートラインに立ち、手を繋いで、一緒に走り出す。
息が苦しくても、笑い合って、ただ前だけを見て。
ラスト100メートル。
先輩が、あたしのほうを見て囁いた。
「もう一度、生きていきなさい」
瞬間、視界が白く溶けた。
目を開けたとき、涙で枕が濡れていた。
■(天国の先輩からの手紙)
四十九日の朝、ポストに一通の封筒が届いていた。
差出人は――あまねから。
信じられない気持ちで封を切る。
"
ひなたへ。
これを読むころ、私はきっともう隣にいないね。
あの日、本当は校舎から見ていたの。
トラックで倒れたあなたを見たとき、
私は初めて、自分のほうが怖がっていることを知った。
あなたが笑わなくなることが、私には一番怖い。
だから、どうか泣きすぎないで。
代わりに、笑っていてほしい。
私は、あなたが夢中になっている姿に恋をした。
走る姿に恋をした。
全力で物事にぶつかる姿に恋をした。
旧図書室で、私に想いをぶつけてくれた瞬間、恋に落ちたの。
だから、これからも走って。
たとえ遅くても、どんな形でも、前に進んで。
あなたの名前を呼べる時間を、私は奇跡のように思っている。
ありがとう。
愛しています。
――飛鳥あまね
"
手紙を握ったまま、あたしは声をあげて泣いた。
でも、どこかで聞こえた気がした。
あの声が。
「ひなた、前を見て」
涙越しに、青い空が広がっていた。
◆
手紙を読み終えた日の夜。
枕元に置いた便箋の端が、そっと揺れていた。
――あの人は、もういない。
それでも、あの人の言葉は、たしかにここにある。
翌朝、スニーカーの紐を結びながら、小さくつぶやいた。
「……行ってきます。あまね」
空には雲ひとつなかった。
朝露を含んだ空気を吸い込んで、あたしは街の外れにあるグラウンドへと歩いた。
久しぶりに訪れた場所。
風が、懐かしい匂いを運んでくる。
足でスタートラインを引いて。深く息を吸って、吐く。
あまねが応援してくれた風景に、もう一度、触れたかった。
「……行くよ」
地面を蹴る。
空気が裂けて、世界が動き出す。
心臓の鼓動が速まっていくたび、何かが剥がれ落ちていく。
悲しみも、寂しさも、涙も。
――走るって、こんなに温かかったっけ。
走るたびに、あの人の声が背中を押す。
「ひなた、前を見て」
「ひなた、あなたなら大丈夫」
――ありがとう。
あたし、今日も走っているよ。
この足で、未来を選んでいるよ。
グラウンドに、微笑みが咲いた。
■(永遠のトラックを一緒に走る。夢の中での最終再会)
夜、夢の中。
見慣れたトラック――夕暮れ色に染まる空の下。
風の中に、あの、冷たい朝の空気みたいな。
すっと澄んだ香りが混ざっていた。
「……先輩?」
振り向くと、あまね先輩が立っていた。
あの日と同じ制服、同じ髪の色、同じ光を宿した瞳。
「久しぶり」
その声に、胸が震えた。
ふたり、並んでスタートラインに立つ。
手を繋いで、ただ笑い合う。
「……どこまで、走りますか?」
「終わりなんて、いらないでしょう?」
笛も号令もいらなかった。
ふたりの鼓動だけが合図になる。
世界の時間が止まったまま、ふたりで走る。
何度でも、何周でも。
涙も、別れも、老いも、名前さえも越えて。
そこにはただ、あたしと先輩だけがいた。
――このトラックは、永遠。
そして、ふたりの心も。
ゴールは、ない。
だって、ふたりはもう、離れないから。




