END-3 卒業間近。先輩との夜
◆
校舎の窓に、まだ咲いていない桜の枝が揺れていた。
もうすぐ3月――けれど、夜の風はまだ冷たい。
第二校舎へ続く連絡通路。
誰も来ないその場所で、ふたりきり。
外灯のオレンジ色が、地面に長く細い影を落とす。
その隣に、先輩が立っていた。
制服の上から羽織ったコートが、ふわりと風に揺れる。
耳の下でそっと結ばれた髪が、夜気をまとって静かに踊っていた。
「……本当に、卒業しちゃうんですね」
わかっていたはずなのに。
言葉にしてしまったら、胸の奥に、どうしようもない穴が空いた。
先輩は、ゆっくりと頷いた。
あたしのことを見つめていながら、どこか遠い場所を見ているような瞳で。
「……寂しくなります」
ぽつりと零れた言葉が、冷たい空気の中に溶けていく。
……あたしのばか。
言ったそばから、もっと寂しくなった。
「あたしは、まだ……追いつけてないのに」
先輩の背中を、ずっと追いかけてきた。
髪型も、スキンケアも、食事の管理も、プロポーションの保ち方も――。
全部、最初は先輩の真似だった。
真似して、失敗して、自分なりに工夫して。
何度もやり直して、そのたびに、新しいやり方を探してきた。
今では、ほんの少しだけど。
先輩の隣にいても、少しは恥ずかしくない、……誇ってもらえる彼女になれたかな、って。
本当に、ちょびっと。
先輩に近づけた気がしていたのに。
なのに、もう、明日には――先輩はここを離れてしまう。
沈黙が落ちる。
木々の葉が揺れる音が、夜の奥から微かに聞こえてくる。
「……ひなたは、強いよ」
先輩の声が、そっと静けさを破る。
「走れなくなっても、また立ち上がった。……誰かの言葉じゃなく、自分の意思で」
その声に、胸がきゅっとなる。
あたしがどんなに悩んで、揺れて、泣いたか――。
耐えきれなくなって、逃げ出しそうになった日も。
そのたびに先輩は、全てを受け止めてくれた。
抱き締めてくれたし、それ以上のことも、応じてくれた。
だから――ここで、言わなきゃいけないと思った。
「あたし、先輩に出会えてよかったです」
心から、そう思えた。
先輩がいたから、何度も踏みとどまれた。
先輩がいたから、あたしは――あたしでいられた。
「……ありがとうございました、先輩」
目を伏せて、そっと言う。
「卒業、……おめでとう、ございます……!!」
……あれ。
おかしいな。
泣かないって、決めていたのに。
そのとき。
目元に、冷たくて――温かい指先が触れた。
指の腹で、そっと涙を拭われた。
その動作が、あまりにもやさしくて。
あたしはもう、声すら出せなかった。
「……こっちこそ。出会ってくれて、ありがとう」
その声は、微かに震えていた。
きっと言いたいことはまだまだある。
でも、いい。
言葉にならない想いが、空気の粒にまで、染み込んでいく。
言葉にしないまま――夜が、全てを包んでくれた。
◆
3月。校舎に春の風が吹き込む。
桜のつぼみが、膨らみはじめていた。
部活復帰の日。
トラックの端に立って、軽く息を吸う。
最初の一歩。
地面を蹴った瞬間、足が応えてくれる。
風が、頬をなでる。
――あたし、また走れる。
まだ完治じゃない。
全盛期のタイムにはほど遠い。
でも、体の奥から、気持ちが跳ね上がった。
「――おかえり、ひなた」
その声に振り返ると、桜の花びらが舞った。
制服姿の先輩が、グラウンドの外に立っていた。
胸元には、卒業証書の筒が抱えられている。
「ただいま、……先輩」
言葉が、すっとつながる。
止まっていた時間が、また動きはじめた。
「ひなた、走りなさい」
そう言って、笑ってくれた先輩の顔が、少し寂しそうだった。
でも――その瞳には、迷いのない光があった。
卒業する先輩。走り出すあたし。
交差して、離れて、それでもずっと、心は並んで――。
あたしは、もう一度スタートラインに立つ。




