15-6 先輩がそばにいてくれるなら、たぶん、大丈夫です。これから、一生。
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静かな白の空間に、冷たい音が落ちる。
廊下を通るストレッチャーの車輪の音。
血圧計の電子音が、ぴ、と鳴ってすぐに止む。
冷房の風が、薄い病衣の袖を揺らす。
椅子に腰かけて、ただぼんやり、自分の足を見つめた。
包帯に覆われた左足首。
走ることが当たり前だった、あたしの宝物。
今はただ、静かに、何かを諦めたみたいに、膝の下で眠っている。
……先生が、カルテを閉じた。
「……症例報告は以上。まあ、靱帯、軽くやっちゃってるね」
淡々とした声。
"軽く"という言葉が、慰めにならないことくらい、自分でもわかっていた。
「最低でも3週間。まあ1か月は見たほうがいいね。それまで安静にすること」
総体にも、通信陸上にも――間に合わない。
それが、先生の言葉を待つまでもなくわかっていて。
「……競技への、復帰は」
それでも、かすかな希望をすがった。
「うん、手術だね。復帰は短くて8カ月。というか、長期間のリハビリも必要だからね?」
希望が消えていく音がした。
「しばらく部活はお休み。安静が一番」
「……はい」
そう返すだけで、精一杯だった。
横にいるお母さんが黙ってうなずく。
そして、あたしの右側に、もうひとりの気配。
「……ごめんね」
その声に、ふっと振り向く。
長椅子に座っていた先輩。
目を伏せて、ぎゅっと指先を握りしめていた。
「もっと、寄り添っていればよかった」
声が震えていた。
あの完璧な横顔が、うつむいて、小さくなっている。
まるで、自分のせいだとでも言いたげに。
◆
前十字靭帯損傷。
それが診断名。
損傷した箇所は、左膝だった。……脛じゃなかったのか。わからないものだ。
しばらくは、膝が頼りない感じがするらしい。
今日から安静にして、適切なリハビリを行えば、約4週間で手術が可能とのこと。
……怪我をしたあとにケアをしないと、手術って受けられないんだ。それも初めて知った。
お母さんは、受付で手続きをしてくれている。
病院の待合室。
先輩とふたり、長椅子に座る。けれど、微妙に距離がある。
沈黙がうるさいほど流れていた。
先輩は、まだうつむいたままだ。
あたしは――気づけば、立ち上がっていた。
「……ひなたっ!」
「う、……いたた」
「やめてっ、無理、しないで……!」
……ごめんなさい、先輩。
あなたを泣かせたくて、立ち上がったわけじゃないんです。
「先輩のせいじゃないです。そんなこと、思わないでください」
足の痛みに顔をしかめながら、それでも――先輩の隣に腰を下ろした。
「あたし……」
深く息を吸って。
胸の奥に沈んでいた言葉を、ひとつずつ掬い上げる。
「あたし、たぶん、ずっと怖かったんです」
先輩が、私を見つめる。
「走ることも、期待されることも。……勝てない自分が、いちばん怖かった」
ようやく、言えた。
ずっと燻っていた、本当の気持ち。
「なのに。先輩に、期待される自分でありたくて」
言葉にして、初めて気づく。
あたしの中にあった苦しさの正体。
この痛みの輪郭。
「でも、それでも……。走ることが、好きでした。やっぱり」
頬を、一粒の涙が伝った。
「……ひなた」
名前を呼ばれる。
それだけで、全身が溶けてしまいそうになる。
思わず、あたしは先輩の肩にもたれた。
――体温が、あたしの心に触れる。
「これから、どうしたらいいのか、まだわかりません。でも……」
あたしは、そっと目を閉じた。
「先輩が、そばにいてくれるなら。たぶん、大丈夫です」
先輩は何も言わず、ただ、頭を寄せてくれた。
肩と肩が触れ合って、心と心が、静かに重なった。
傷ついた足。
泣き疲れた心。
でも今だけは、すべてが――。
静かに、赦された気がした。




