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15-5 "好きだから頑張れる"一方で、"好きだから気持ちが乱れる"なんて。


 遠くで、蝉が鳴いていた。

 その声は、何層もの空気を隔てた先にあるみたいに、ぼんやりと響いて――ただ、うるさかった。

 足元には、ひっくり返った蝉の死骸。

 その翅に、風は吹かない。


 れなこが扉を開ける。

 ゆっくりと、重たく軋む音。

 無人だった部室。

 午後の熱をため込んだ空気が、じっとりと肌にまとわりつく。

 ベンチに腰を下ろす。じゅっ、と霧の音がして、ひんやりとした感触が皮膚を這った。

 左足に、れなこが冷却スプレーを吹きかけてくれる。


「……腫れてる。絶対、病院行こ?」

「……うん」


 それだけ、かろうじて声にして、顔を伏せた。

 息を吐くたび、胸の奥がきしめく。


(これじゃ……出られない)


 総体も。

 もしかしたら、通信陸上さえも――。

 練習も、犠牲も、決意も、涙も。

 先輩への想いさえも。

 全部をかけた。

 それなのに、たった一度の転倒で、全部が崩れ落ちる。

 すべてがあのトラックに置きざり。

 手のひらを見つめる。

 指の隙間から、努力のかけらが、さらさらと落ちていく。

 拾おうとしても、間に合わない。

 ただ呆然と、それを見ているしかなかった。


「ねえ」


 れなこの声が、静かに落ちる。


「……九条先輩、呼ぶよ」

「――え」


 はっとして顔を上げると、れなこの目が、あたしを見据えていた。





 きぃ、と引き戸が軋んだ。

 夕暮れの影が、部室の床に長く伸びる。


 見慣れた――けれど最も求めていた、あの人。

 濡れ羽色の黒髪。

 制服のまま、肩で息をして、乱れた髪の毛。

 色をなくした目が、まっすぐにあたしを見ていた。


 今にも泣き出しそうなその顔に、呼吸が止まりそうになる。


「……先輩」


 声が震える。

 胸が、熱くて、痛くて、苦しくて。

 会いたかった。

 けれど、本当はこんな形でなんて――。


「あたし……っ」


 言いたいことは、山ほどあったはずなのに。

 喉が詰まって、一言も出てこない。


 先輩は、ゆっくりと近づいてきて。

 あたしの前で、そっと膝をついた。

 そして、小さく、囁くように。


「ばか」

「――え」


 耳を疑った。

 今の、聞き間違い?

 でも、もう一度。


「……飛鳥ちゃんの、ばか」


 やさしい声だった。

 責めるでもなく、咎めるでもなく。

 まるで、抱きしめるみたいな音色で。


「……ばかって、なんですか……っ」


 あたしは、泣きそうになりながら、言い返す。


「先輩のほうが、ばかですっ……!」

「……ひなたちゃんの、ばか」

「違いますぅ! あまね先輩の、ほうがっ、ば、ばかぁ……っ」


 声が裏返って、くしゃくしゃになって。

 くすぐったくて、愛しくて、悔しくて。

 ぐちゃぐちゃの感情が、全部混ざって、一斉にこぼれ落ちて。


「あまね先輩にっ、ばかなんて、言われたくないです……っ!」


 涙が止まらなくて、もう、どうしようもなかった。

 ばかって言われた、それなのに――。

 先輩が、あたしの手を握ってくれる。


「……ごめんね」


 ――あたしは。

 すごく、すごく、嬉しかった。

 名前を呼んでくれた。

 来てくれた。

 触れてくれた。

 壊れかけた心が、あまね先輩の声に、手に、香りに。

 ゆっくりと、優しく、抱きしめられていく。

 ぐらぐらになった世界が、少しだけ、形を取り戻す。


「ひなた」


 初めて――。

 敬称も、距離も、何もなく。

 あたしの名前だけが、唇からこぼれた。


「……来てくれて、ありがとうございます」


 今度は、あたしのほうから。

 泣きながら、名前を呼び返す。


「――あまね、さん」


 涙のせいで、ぼやけてよく見えないけれど。

 きっと、先輩も泣いていた。


「……"さん"はいらない」


 ふたりの間にあった断絶も。

 交わせなかった言葉も。

 全部、ひとつずつ――。

 名前で、手で、心で――今、つながっていく。





 遠くからサイレンの音が聞こえる。

 部室のガラスが赤く点滅した。

 誰かの叫び声。大人たちの慌ただしい足音。

 それでも、この小さな空間だけは、時間から切り離されたようだった。


「……あたし、陸上。……好きだったんです」


 ぽつりと、漏れた言葉。

 ……やっと、だ。

 ずっと見ないふりをしていた気持ちが、やっと言葉になった。


「でも、それよりも……」


 あたしは、顔を上げる。

 目の前にいる、この人をまっすぐに見つめて。


「あまねのことが、大事になっていました」


 先輩は。

 旧図書室でのときのように、静かにうなずいた。

 もっと近づいて。

 顔が見えなくなる距離で、やさしく抱きしめてくれる。

 あの雨の日と同じ、抱擁。

 胸に顔を埋めて、……泣いた。


 先輩は何も言わない。

 けれど、身体に伝うぬくもりが、語っていた。

 ――言葉なんて、もう、いらなかった。

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