15-5 "好きだから頑張れる"一方で、"好きだから気持ちが乱れる"なんて。
◆
遠くで、蝉が鳴いていた。
その声は、何層もの空気を隔てた先にあるみたいに、ぼんやりと響いて――ただ、うるさかった。
足元には、ひっくり返った蝉の死骸。
その翅に、風は吹かない。
れなこが扉を開ける。
ゆっくりと、重たく軋む音。
無人だった部室。
午後の熱をため込んだ空気が、じっとりと肌にまとわりつく。
ベンチに腰を下ろす。じゅっ、と霧の音がして、ひんやりとした感触が皮膚を這った。
左足に、れなこが冷却スプレーを吹きかけてくれる。
「……腫れてる。絶対、病院行こ?」
「……うん」
それだけ、かろうじて声にして、顔を伏せた。
息を吐くたび、胸の奥がきしめく。
(これじゃ……出られない)
総体も。
もしかしたら、通信陸上さえも――。
練習も、犠牲も、決意も、涙も。
先輩への想いさえも。
全部をかけた。
それなのに、たった一度の転倒で、全部が崩れ落ちる。
すべてがあのトラックに置きざり。
手のひらを見つめる。
指の隙間から、努力のかけらが、さらさらと落ちていく。
拾おうとしても、間に合わない。
ただ呆然と、それを見ているしかなかった。
「ねえ」
れなこの声が、静かに落ちる。
「……九条先輩、呼ぶよ」
「――え」
はっとして顔を上げると、れなこの目が、あたしを見据えていた。
◆
きぃ、と引き戸が軋んだ。
夕暮れの影が、部室の床に長く伸びる。
見慣れた――けれど最も求めていた、あの人。
濡れ羽色の黒髪。
制服のまま、肩で息をして、乱れた髪の毛。
色をなくした目が、まっすぐにあたしを見ていた。
今にも泣き出しそうなその顔に、呼吸が止まりそうになる。
「……先輩」
声が震える。
胸が、熱くて、痛くて、苦しくて。
会いたかった。
けれど、本当はこんな形でなんて――。
「あたし……っ」
言いたいことは、山ほどあったはずなのに。
喉が詰まって、一言も出てこない。
先輩は、ゆっくりと近づいてきて。
あたしの前で、そっと膝をついた。
そして、小さく、囁くように。
「ばか」
「――え」
耳を疑った。
今の、聞き間違い?
でも、もう一度。
「……飛鳥ちゃんの、ばか」
やさしい声だった。
責めるでもなく、咎めるでもなく。
まるで、抱きしめるみたいな音色で。
「……ばかって、なんですか……っ」
あたしは、泣きそうになりながら、言い返す。
「先輩のほうが、ばかですっ……!」
「……ひなたちゃんの、ばか」
「違いますぅ! あまね先輩の、ほうがっ、ば、ばかぁ……っ」
声が裏返って、くしゃくしゃになって。
くすぐったくて、愛しくて、悔しくて。
ぐちゃぐちゃの感情が、全部混ざって、一斉にこぼれ落ちて。
「あまね先輩にっ、ばかなんて、言われたくないです……っ!」
涙が止まらなくて、もう、どうしようもなかった。
ばかって言われた、それなのに――。
先輩が、あたしの手を握ってくれる。
「……ごめんね」
――あたしは。
すごく、すごく、嬉しかった。
名前を呼んでくれた。
来てくれた。
触れてくれた。
壊れかけた心が、あまね先輩の声に、手に、香りに。
ゆっくりと、優しく、抱きしめられていく。
ぐらぐらになった世界が、少しだけ、形を取り戻す。
「ひなた」
初めて――。
敬称も、距離も、何もなく。
あたしの名前だけが、唇からこぼれた。
「……来てくれて、ありがとうございます」
今度は、あたしのほうから。
泣きながら、名前を呼び返す。
「――あまね、さん」
涙のせいで、ぼやけてよく見えないけれど。
きっと、先輩も泣いていた。
「……"さん"はいらない」
ふたりの間にあった断絶も。
交わせなかった言葉も。
全部、ひとつずつ――。
名前で、手で、心で――今、つながっていく。
◆
遠くからサイレンの音が聞こえる。
部室のガラスが赤く点滅した。
誰かの叫び声。大人たちの慌ただしい足音。
それでも、この小さな空間だけは、時間から切り離されたようだった。
「……あたし、陸上。……好きだったんです」
ぽつりと、漏れた言葉。
……やっと、だ。
ずっと見ないふりをしていた気持ちが、やっと言葉になった。
「でも、それよりも……」
あたしは、顔を上げる。
目の前にいる、この人をまっすぐに見つめて。
「あまねのことが、大事になっていました」
先輩は。
旧図書室でのときのように、静かにうなずいた。
もっと近づいて。
顔が見えなくなる距離で、やさしく抱きしめてくれる。
あの雨の日と同じ、抱擁。
胸に顔を埋めて、……泣いた。
先輩は何も言わない。
けれど、身体に伝うぬくもりが、語っていた。
――言葉なんて、もう、いらなかった。




