15-3 "好きだから頑張れる"一方で、"好きだから気持ちが乱れる"なんて。
◆
今日が最後だ。
この空間を借りられる、たった2週間の最終日。
静まり返った視聴覚室。
扉を開けると、いつもの席にあの人はいた。
暗幕の閉じられた薄暗がりの中、光を拒むようにして座る姿は。
まるでこの空間そのものが、先輩の一部になってしまったかのようだった。
「こんにちは……。おじゃま、します」
返事はなかった。
ただ、琥珀のまなざしが、ふいにこちらをかすめて。
それから、またすっと静けさへ沈んでいった。
……こくりと喉を鳴らして、いつもの席の隣に腰を下ろした。
(……先輩。プレゼン、どうでしたか?)
すごく、聞きたい。
今すぐにでも。
けれど、それを口にしたら、心が揺らぐのがわかっていた。
隣にずっといたい。そう願ってしまう自分を、絶対に止められない。
「……大会、あるんです」
スカートの裾をぎゅっと掴む。
「最近、サボってたから……ちょっと、取り返さなきゃって」
ほんの14日間。
されど14日間。
この部屋で。
この人のそばで。
あたしは、自分の心がどれだけ簡単に奪われるか、知ってしまった。
「……頑張ってね。応援する」
その声はとても静かだった。
でも、胸の奥に触れるような、やわらかさがあった。
「わたしにできることは、ある?」
先輩の優しい言い方に反して。
あたしは――突き放すように、口を開く。
「……もう少しだけ、静かにしてもらえると。……助かります」
ああ。
本当は、こんなつもりじゃないのに。
他に言い方が思いつかなかった。
こんな言い方では……。
「だから……、大会が終わるまで、陸上に集中します」
先輩は、何も言わなかった。
ただ、黒髪の隙間からのぞく横顔が、どこか遠くを見ていた。
(……何で、こんなに苦しいんだろう)
手を伸ばせば、届きそうなのに。
名前を呼べば、こちらを向いてくれそうなのに。
それができないくらいには――もう、距離ができていた。
たかが数週間離れるだけ。
大会が終わったら、またきっと顔を合わせられる。
それなのに。
人生で一番大事なものを手放してしまった。
そんな気がした。
予鈴が鳴る。
静かに席を立つ。
先輩は、やっぱり振り向かない。
でも何故か。
その姿が「行かないで」と叫んでいるように見えた。
「……ありがとうございました。先輩」
ごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい。先輩。
あたし……。大好きな人の隣じゃ、力を出せないタイプでした。
今後は先輩を、優先するために。
先輩と出会う前から、こんなあたしに期待してくれる人たちへ、義理を果たしたい。
その人たちの想いに、もう少しだけ応えさせてください。
中学校を卒業するまでは。
視聴覚室を出る。
――閉じかけた扉の隙間から、嗚咽のような音が、微かに聞こえた。
揺れた。
空気が。
背中が。
あたしの心が。
◆
朝練。
放課後。
立てる機会があるたび、トラックに立った。
授業の合間には、スマホでフォームを確認して、ノートに癖や改善点を書き出す。
空いた時間はすべて、ストレッチに使った。
鏡の前では、何度も、何度も、腕の振りを繰り返した。
再開してからずっと続いた、夜の電話も、ぱったりなくなった。
とにかく――動いていた。
止まったら、考えてしまう。
考えてしまったら、崩れてしまう。
だから、走った。
昼休みも、例外にしなかった。
あの人がいる、あの空間を、手放した。
顧問に怒られても、れなこに止められても、やめなかった。
走ることでしか、自分をつなぎとめられない気がした。
――ちくっ。
最初は、ただの違和感だった。
左脛の奥が、小さく、痛んだ。
走っていれば消える――そんな種類の痛みだと、思っていた。




