15-1 "好きだから頑張れる"一方で、"好きだから気持ちが乱れる"なんて。
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トラックが、夕焼けの黒ずみに沈みはじめる。
照り返しの熱が、まだ地面にじっとり残っていた。
スパイクがむしゃむしゃと、合成ゴムを食むような音を立てる。ひとり。またひとり。
トラックの端では、後輩たちが声をかけ合い、フォームを確かめあっている。
選考のため、みんな準備をしている。もう帰り支度がはじまってもいい時間なのに。
――800メートル。
決して短くない。でも、長距離とも言えない。
ただの根性じゃ足りなくて、かといって頭だけでも勝てない。
駆け引きも、持久力も、スピードも――全部を求められる種目。
あたしは今、スタートラインの脇に立ったまま。
ほどけた靴紐を見つめたまま、しゃがむことすらできない。
指先が震えているのは、風のせいじゃない。
――そして、光の届かない場所で、トラックがゆっくりと夜に呑まれていく。
◆
「800。代表、飛鳥」
部室に集合した全体ミーティングで、顧問の先生が淡々と告げる。
「ひなたっ! やったねぇ、さすがはエースっ!」
れなこが満面の笑顔で、あたしの肩をぽんぽんと叩いてくる。
その明るさに、笑い返したかった。
けれど口元をうまく動かせない。
アスリートビブスを受け取る手が、強張る。
「……頑張ります」
軽い布地のそれは、逃げ場のない現実の証みたいに重く、胸に突き刺さる。
ミーティングが解散した。
名簿の紙をじっと見つめた。
名前と種目。
そこに並ぶ"飛鳥ひなた"の文字。
気持ちが、落ち込む。
……最近、追い込んでさえいないのに。
先輩のことが、頭から離れない。
◆
夜の照明は、1時間あたり五千円かかる。そんな話を、前に誰かがしていた。
照明の下。トラックにあたし、ひとり。
真夜中に煌々と浮かび上がる白線。
昼間の熱が地面に残っていて、空気はむわりと重たい。
……明るいうちに練習するよう、きつく言ってくれたらいいのに。
わがままを許してしまう顧問やコーチは甘いと思う。
ジョグを10分。
ダイナミックストレッチを終えて。
Aスキップ、Bスキップ、もも上げ、バットキック、ヒールアップ、スプリントドリル、流し、流し、流し。
心拍を上げる。筋肉に火を入れる。
それでも、身体は軽くならない。
追加で100mを5本、流す。
600mを4本。
そのまま、3000mのビルドアップ走へ。
どんなに走っても、前みたいに没頭できない。何かを、どこか遠くに置き忘れたままだ。
――だって。
あの人に会いたいって、思ってしまった。
会いたいって願いが、叶ってしまった。
その瞬間から、走る理由が変わってしまった。
勝ちたかった。速くなりたかった。結果を出したかった。
得意なことで、誇れる自分でいたかった。
あたしにとっての陸上の意味。
だけど今は――ただ、あの人の隣にいたい。
「飛鳥、飛ばし過ぎだぞ!」
「……ぜっ、はあっ……。……なこと、ないです」
駆け寄ってくる顧問を、腕で制す。
「まだ……、ぜえ、はあ……、やれますから……っ」
タオルと水分だけ受け取って、飲んで、拭いて。
水が喉を通るたびに、呼吸が苦しくなる。
「飛鳥。800、走ってみろ」
「おいっ……!」
不意に、コーチが言った。
レースペース走を省いて、そのまま本番か。
顧問が何かを言いかけたのを、再び手で制した。
「はあ、はあ。……はい、コーチ」
◆
スタートラインに立つと、心がきしんだ。
全力で走ることが、どこか裏切りに思えた。
あの人のことを考えていたい。
ずっと、あの人のそばにいたい。
走れば、遠ざかってしまう気がした。
走ることで、距離ができてしまう気がして。
――わがままだ。
全部を手に入れようとして、どれも中途半端になりそうで、それもまた怖い。
「オンユアマーク――」
コーチの声が響く。
スタートラインに、左足のつま先を揃える。
右足を引いて、肩をすくめ、視線を落とす。
視界の端を消すように、世界を絞る。
トラックの感触。息の熱。自分の心拍。
それらが、ざわめきのように胸をかき乱す。
――走れ。結果を出せ。エースとして、期待に応えろ。
みんな、そう言ってくれる。信じてくれる。
飛鳥なら、って。
(なのに――)
どうしてこんなに、怖いの。
ピストルの音はない。ただの合図。
それなのに、号砲が鳴ったかのように――。
走り出した瞬間、世界が割れた。




