(小話)r-2 先輩の、秘密の香り。
◇
……あれ?
先輩の隣に座った瞬間、いつもと違う香りがした。
バニラみたいで、甘くて。でも少しだけ大人っぽくて――。
「……先輩。ハンドクリーム、変えました?」
小声で尋ねると、先輩は本から目を離さずに、ほんの少しだけ頷いた。
「気分で」
たったそれだけ。
なのに、なぜだろう。
胸の奥が、妙にざわつく。
(……あたしの知らない香りだ)
いつもは冷たい朝の空気みたいな、すっと澄んだ香りなのに。
今日は違う。甘くて、深くて――近づきたくなる匂い。
……先輩の手に、指先を伸ばす。
「少しだけ、いいですか……?」
こくん、と頷いてくれる。
先輩の手を、両手で包みこむ。
白くて、細くて、少しだけ冷たい指先。
そっと鼻先を、手首の内側へ近づける。
そこには、あたしの知らない匂いがあった。
甘く、やわらかく、まるでとろけたバニラ。
でも、その奥にほんの少しだけ――舌の根っこをくすぐるような、苦みが混ざっている。
最初は軽やかなのに、吸い込むほどに深く沈んでいく。
鼻から喉へ、そして胸の奥まで、じんわりと熱を落としていく香り。
甘いだけじゃない。
あたしの知らない、先輩の秘密みたいな匂い。
脳がふっと溶けそうになる。
悪いものが、内側から肌をなぞってくるみたいで――。
喉の奥が、ひりついた。
「……いい匂い、です」
けど。
この匂い。どこか、ハンドクリームだけじゃないような。
先輩はふいに視線を逸らした。
その仕草に、何かを隠している予感がした。
「香水も、使っているんですか……?」
聞いてみると、先輩はわずかに目線を落とした。
「……手首に。首筋にも、少しだけ」
その声は、いつもよりも、うんと静かで。
先輩はためらいがちに、髪をそっとかきあげた。
うなじの奥。襟足のあたり。
艶めいた白磁色の肌が、ところどころ露わになる。
「……失礼します」
首筋のその場所に、鼻先を近づける。
かすかに漂う香りは、さっきよりも濃く、甘く、やわらかくて。
深く吸い込んだ瞬間――喉の奥が、灼熱を帯びた。
あとほんの少しだけ、顔の角度を変えたら。
唇が、肌に触れてしまいそうな距離。
あたしの中の理性が、少しずつ、溶けていく。
「……飛鳥ちゃんをイメージした、香水を使ったの」
その言葉が、耳元でそっと落とされた。
びくりとして顔を上げると――先輩は、まっすぐにこちらを見ていた。
琥珀色の瞳。
眠るような静けさの奥に、確かに熱を宿した、まなざし。
「好きなときに、いつでも、嗅いでいいよ。飛鳥ちゃん」
――逆に、誘惑されていたみたいだ。
視線を外せないまま。
先輩はそっと微笑んだ。
「次は……もっと濃いの、つけてみようかな」
唇が艶かしく動かして。
甘く刺すように、囁く。
……あたし、香りに、酔ったかも。




