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(小話)r-2 先輩の、秘密の香り。


 ……あれ?

 先輩の隣に座った瞬間、いつもと違う香りがした。

 バニラみたいで、甘くて。でも少しだけ大人っぽくて――。


「……先輩。ハンドクリーム、変えました?」


 小声で尋ねると、先輩は本から目を離さずに、ほんの少しだけ頷いた。


「気分で」


 たったそれだけ。

 なのに、なぜだろう。

 胸の奥が、妙にざわつく。


(……あたしの知らない香りだ)


 いつもは冷たい朝の空気みたいな、すっと澄んだ香りなのに。

 今日は違う。甘くて、深くて――近づきたくなる匂い。

 ……先輩の手に、指先を伸ばす。


「少しだけ、いいですか……?」


 こくん、と頷いてくれる。

 先輩の手を、両手で包みこむ。

 白くて、細くて、少しだけ冷たい指先。

 そっと鼻先を、手首の内側へ近づける。


 そこには、あたしの知らない匂いがあった。

 甘く、やわらかく、まるでとろけたバニラ。

 でも、その奥にほんの少しだけ――舌の根っこをくすぐるような、苦みが混ざっている。


 最初は軽やかなのに、吸い込むほどに深く沈んでいく。

 鼻から喉へ、そして胸の奥まで、じんわりと熱を落としていく香り。

 甘いだけじゃない。

 あたしの知らない、先輩の秘密みたいな匂い。

 脳がふっと溶けそうになる。

 悪いものが、内側から肌をなぞってくるみたいで――。

 喉の奥が、ひりついた。


「……いい匂い、です」


 けど。

 この匂い。どこか、ハンドクリームだけじゃないような。

 先輩はふいに視線を逸らした。

 その仕草に、何かを隠している予感がした。


「香水も、使っているんですか……?」


 聞いてみると、先輩はわずかに目線を落とした。


「……手首に。首筋にも、少しだけ」


 その声は、いつもよりも、うんと静かで。

 先輩はためらいがちに、髪をそっとかきあげた。

 うなじの奥。襟足のあたり。

 艶めいた白磁色の肌が、ところどころ露わになる。


「……失礼します」


 首筋のその場所に、鼻先を近づける。

 かすかに漂う香りは、さっきよりも濃く、甘く、やわらかくて。

 深く吸い込んだ瞬間――喉の奥が、灼熱を帯びた。


 あとほんの少しだけ、顔の角度を変えたら。

 唇が、肌に触れてしまいそうな距離。

 あたしの中の理性が、少しずつ、溶けていく。


「……飛鳥ちゃんをイメージした、香水を使ったの」


 その言葉が、耳元でそっと落とされた。

 びくりとして顔を上げると――先輩は、まっすぐにこちらを見ていた。

 琥珀色の瞳。

 眠るような静けさの奥に、確かに熱を宿した、まなざし。


「好きなときに、いつでも、嗅いでいいよ。飛鳥ちゃん」


 ――逆に、誘惑されていたみたいだ。

 視線を外せないまま。

 先輩はそっと微笑んだ。


「次は……もっと濃いの、つけてみようかな」


 唇が艶かしく動かして。

 甘く刺すように、囁く。

 ……あたし、香りに、酔ったかも。

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