(小話)r-1 宇宙人、寝たふりをする。
◇
先輩の教室には、ふたり以外、誰もいなかった。
放課後だから、当たり前だ。
しかも、陸上部の練習が終わるくらい遅くて――夏の夕方、18時。
あたしは先輩の、そばの席に着く。
向かい合わせじゃない。横並びだ。
ぴったりくっついているわけじゃないけど、肩と肩のあいだ、文庫本一冊分もない。
先輩は、読書をしながら待ってくれていた――の、だと思う。
けれど、まったくページがめくられない。
顔の向きからして、視線は手元の文庫本のあたりに落ちているけど、まつげがぜんぜん動かない。
「……先輩?」
返事はない。
そーっと顔を覗き込む。
目を閉じていた。無表情。いや、無感情?
すぅ……、すぅ……。と、小さな寝息が聞こえた。
「……寝ている、んですか?」
やっぱり返事はない。
でも、耳がやたら赤い。
これは気のせいじゃない。
(……失礼します、先輩)
息をひそめて観察してみる。
唇は閉ざされていて、口角はゆるんでいない。
でも、まつげの先が、ぴくり。
ほんの一瞬だけ震えた。
凝視を続ける。何度も、ぴくっ、と。
……確定。これは、寝たふりである。
(何これ、可愛すぎでは……)
たぶん、あたしが何かするのを待っている。
構ってくれるのを、期待している。
無表情を保ちながら、耳だけピンクにして。
そんなの、ズルいじゃん……。
「……じゃあ、起きない先輩には、こうしちゃいます」
勇気をふりしぼって、指を伸ばす。
先輩の前髪をひとすじかきあげて、額にやさしく触れる。
――熱い。
ほんの少し、指先が触れただけなのに。
先輩の肌は、吸い寄せられるみたいに、なめらかで、柔らかくて。
結構、熱い。……夏だからかな。
髪の生え際、額のなだらかな丸みに沿って。
そのまま、つい――指をすべらせてしまう。
まぶたの際。
眉間。
鼻筋の端っこ。
こめかみのくぼみ。
ひとつの空気の中で、あたしの指が、先輩の顔をなぞっている。
どこを触っても、極上に綺麗で。
触れるたび、心臓が、喉の奥でちかちかと跳ねて、壊れてしまいそう。
――だめだって、わかっているの。
だけど。
指先はさらに、ぷにっとした唇の輪郭の、すぐぎりぎりまで……。
触れたい。けど触れない。触れたら、戻れなくなりそう。
震える吐息が、先輩の前髪を揺らす。
「……先輩が、悪いんですからね……っ」
目を閉じたままの、無防備なその顔。
――額へ、唇を落とす。
その瞬間。
――ぴくっ。
まぶたが、わずかに動いた。
目は、まだ開かない。
「……起きてるって、バレバレですからね」
そう囁いたら、少し間をおいて。
ゆっくりとまぶたが開いた。
まっすぐにこちらを見つめる、琥珀色のまなざし。
「……ひなたちゃんって、わかりやすい」
「どっちが、ですかっ……!?」
先輩はゆっくり上体を起こして、さも今起きましたみたいな顔をする。
……ずるい。いろいろずるい。
顔はいつも通り、感情の見えないままなのに。
首筋が、ばっちり真っ赤だった。
この人は、やっぱり宇宙人だ。
どこまでが本気で、どこからが照れ隠しなのか。
あの日からずっと、こっちが試されている気がする。
それでも。
そのまなざしに見つめられるだけで、胸の奥が、ふわっと温かくなる。
だから、そばにいるのをやめられない。
心音だけが、ゆっくりとした時間の中に溶けていく、先輩の教室。
「……また寝たふりしたら、もっとイタズラしますからね」
そう囁いたら、先輩のまつげが――ほんの、ほんの少しだけ。
恥ずかしそうに、震えた気がした。




