表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

35/50

14-2 あたしのいちばんやわらかいところが、音もなくふやけた。


 柳庵の引き戸を開けると、ひやりとした空気が首筋をなぞった。

 ふわ、と広がる木の香り。奥から聞こえる小さな湯気の音と、茶器が触れる音。

 人気の少ない、平日の夕暮れ時。

 先輩とふたり、靴を揃えて畳に上がる。

 小上がりの窓辺の席。

 簾越しに射す光が、床に縞模様を落としていた。


「……夏蜜柑とヨーグルト。ここの、すき」


 先輩がメニューも見ずにそう呟く。

 その横顔に、すでにこの店の風景の一部みたいな落ち着きがある。


(……もしかして、すでに来ましたか?)


 あたしはうなずいて、同じものを頼んだ。


 かき氷が運ばれてくるまでの間、先輩は何も言わなかった。

 ただ静かに、簾越しに、窓の外を眺めている。

 まつげの影が頬に揺れて、涼しげな横顔が、どこか遠くの風景みたいに感じられる。

 あたしも、何も言えなかった。

 頭のどこかが、ずっと熱くて。

 見ているだけで、喉の奥がからからになった。

 氷水を飲んでも乾いていく。


「先輩……、あの……」

「ん」

「プレゼンの練習って……今日は、ここで?」


 先輩は、小さく笑った。


「……また今度、ね」


 たったそれだけ。

 その一言で、全部はぐらかされたのに。

 不思議と、追求する気になれなかった。

 その"また今度"が、特上に甘くて、くすぐったい。


 やがて、店員の方が来た。

 運ばれてきたのは、涼やかなガラスの器にたっぷり盛られた、夏蜜柑のかき氷だ。

 ふわふわの氷のうえに、果肉と蜜、そしてとろりとヨーグルトソースがかかっている。

 スプーンを持ち上げる。


「……冷たそうです」

「うん、おいしいよ」


 先輩がひとくち運ぶ。

 口を開けて、上品に。スプーンを入れて、出した。

 ぷるんとした唇の上に、氷の雫がきらりと光った。

 ……あ。


「どうかした?」


 そう言って笑いかけてくる、少し無防備な表情。

 先輩。最近……無敵すぎる。

 あたしも、ひとくち。

 ひんやりした甘さと、きゅんとする酸味。

 とろっとしたヨーグルトに、蜜柑の果肉がころんと混じっていて。

 口の中、特にほっぺたの内側が冷たくて、幸せ。


「……どうぞ」


 先輩が、自分のスプーンを――静かに、差し出してくる。


「……えっ?」


 ヨーグルトソースが多くかかった氷の山から、すくったものだ。


「……シェア、しよ?」


 同じ味のはずなのに。

 その言葉だけで、胸の奥が、じくじくと疼く。


 先輩のスプーン。

 断れない。……断りたくない。

 その金属の冷たさを、あたしの唇が迎えた。

 ゆっくり、慎重に。

 舌先に触れた瞬間、脳まで痺れる。

 ひんやりした氷。けれど、身体は熱くなる一方。

 頬も、胸も、手のひらも――ひとくちで、ぜんぶが、燃えたぎる。


 さっき先輩が、口に運んだ。

 それを今、自分が舐めた。

 そんな想像が、脳を灼くように何度もかすめて、呼吸が止まる。


「……おいしい?」

「お、い、ひい……、れすっ……」


 柄を持って、スプーンを戻そうとした、そのとき。

 あたしの指を包むように――先輩の指が、重なった。

 ぴたりと、離さずに。


「……飛鳥ちゃんって、熱がこもりやすいのかな」

「……ふぇっ」


 ぬるくなったあたしの指先を、やさしく撫でるように、握りながら。

 先輩は、微笑むこともせずに、静かに言った。


「顔が赤いよ」


 その意味が頭に届く前に、心臓が跳ねる。

 理解したあとでは、もう逃げられなかった。


「……な。……な、ななななっ……!? さ、さささ、寒暖差っ、です、きっと!!」


 焦りで裏返った声。息が上ずる。

 そんなあたしを、先輩はくすっと笑って見つめてきた。


 ――もう、手加減しないから。


 あのときの言葉が、脳内に再生される。

 今なら、ちゃんと意味がわかる。

 あたし、泳がされている。

 試されている。

 わざと火照らされている。

 冷たさより熱く、蜜よりとろけそうに。


「……もうひとくち、いる?」


 今度は、先輩があたしのスプーンを手に取った。


「あ、あああのっ、あたし、自分で食べられますからっ……!」


 心臓は、もうとっくにリズムを忘れている。

 先輩は黙って、あたしのスプーンをくるりと返した。

 そして――。

 その先端を、自分の唇の、ごく近くに引き寄せる。


「……こぼれちゃう前に、ちゃんとね」


 なめらかな唇が――スプーンに、触れる。

 唇の氷……気づいていたの?


 先輩が、スプーンをあたしに、返してくれた。

 ……さっき、あたしが咥えたそれを。

 ――先輩が、唇に触れさせた。

 そしてまた、そのスプーンを、あたしが使う。

 心が、小さく、静かに、崩れていく音がした。


 これはもう、プレゼンでも、何の話でもなくて。

 あたしと先輩の、きっとはじまりの、儀式なのかもしれない――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ