14-2 あたしのいちばんやわらかいところが、音もなくふやけた。
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柳庵の引き戸を開けると、ひやりとした空気が首筋をなぞった。
ふわ、と広がる木の香り。奥から聞こえる小さな湯気の音と、茶器が触れる音。
人気の少ない、平日の夕暮れ時。
先輩とふたり、靴を揃えて畳に上がる。
小上がりの窓辺の席。
簾越しに射す光が、床に縞模様を落としていた。
「……夏蜜柑とヨーグルト。ここの、すき」
先輩がメニューも見ずにそう呟く。
その横顔に、すでにこの店の風景の一部みたいな落ち着きがある。
(……もしかして、すでに来ましたか?)
あたしはうなずいて、同じものを頼んだ。
かき氷が運ばれてくるまでの間、先輩は何も言わなかった。
ただ静かに、簾越しに、窓の外を眺めている。
まつげの影が頬に揺れて、涼しげな横顔が、どこか遠くの風景みたいに感じられる。
あたしも、何も言えなかった。
頭のどこかが、ずっと熱くて。
見ているだけで、喉の奥がからからになった。
氷水を飲んでも乾いていく。
「先輩……、あの……」
「ん」
「プレゼンの練習って……今日は、ここで?」
先輩は、小さく笑った。
「……また今度、ね」
たったそれだけ。
その一言で、全部はぐらかされたのに。
不思議と、追求する気になれなかった。
その"また今度"が、特上に甘くて、くすぐったい。
やがて、店員の方が来た。
運ばれてきたのは、涼やかなガラスの器にたっぷり盛られた、夏蜜柑のかき氷だ。
ふわふわの氷のうえに、果肉と蜜、そしてとろりとヨーグルトソースがかかっている。
スプーンを持ち上げる。
「……冷たそうです」
「うん、おいしいよ」
先輩がひとくち運ぶ。
口を開けて、上品に。スプーンを入れて、出した。
ぷるんとした唇の上に、氷の雫がきらりと光った。
……あ。
「どうかした?」
そう言って笑いかけてくる、少し無防備な表情。
先輩。最近……無敵すぎる。
あたしも、ひとくち。
ひんやりした甘さと、きゅんとする酸味。
とろっとしたヨーグルトに、蜜柑の果肉がころんと混じっていて。
口の中、特にほっぺたの内側が冷たくて、幸せ。
「……どうぞ」
先輩が、自分のスプーンを――静かに、差し出してくる。
「……えっ?」
ヨーグルトソースが多くかかった氷の山から、すくったものだ。
「……シェア、しよ?」
同じ味のはずなのに。
その言葉だけで、胸の奥が、じくじくと疼く。
先輩のスプーン。
断れない。……断りたくない。
その金属の冷たさを、あたしの唇が迎えた。
ゆっくり、慎重に。
舌先に触れた瞬間、脳まで痺れる。
ひんやりした氷。けれど、身体は熱くなる一方。
頬も、胸も、手のひらも――ひとくちで、ぜんぶが、燃えたぎる。
さっき先輩が、口に運んだ。
それを今、自分が舐めた。
そんな想像が、脳を灼くように何度もかすめて、呼吸が止まる。
「……おいしい?」
「お、い、ひい……、れすっ……」
柄を持って、スプーンを戻そうとした、そのとき。
あたしの指を包むように――先輩の指が、重なった。
ぴたりと、離さずに。
「……飛鳥ちゃんって、熱がこもりやすいのかな」
「……ふぇっ」
ぬるくなったあたしの指先を、やさしく撫でるように、握りながら。
先輩は、微笑むこともせずに、静かに言った。
「顔が赤いよ」
その意味が頭に届く前に、心臓が跳ねる。
理解したあとでは、もう逃げられなかった。
「……な。……な、ななななっ……!? さ、さささ、寒暖差っ、です、きっと!!」
焦りで裏返った声。息が上ずる。
そんなあたしを、先輩はくすっと笑って見つめてきた。
――もう、手加減しないから。
あのときの言葉が、脳内に再生される。
今なら、ちゃんと意味がわかる。
あたし、泳がされている。
試されている。
わざと火照らされている。
冷たさより熱く、蜜よりとろけそうに。
「……もうひとくち、いる?」
今度は、先輩があたしのスプーンを手に取った。
「あ、あああのっ、あたし、自分で食べられますからっ……!」
心臓は、もうとっくにリズムを忘れている。
先輩は黙って、あたしのスプーンをくるりと返した。
そして――。
その先端を、自分の唇の、ごく近くに引き寄せる。
「……こぼれちゃう前に、ちゃんとね」
なめらかな唇が――スプーンに、触れる。
唇の氷……気づいていたの?
先輩が、スプーンをあたしに、返してくれた。
……さっき、あたしが咥えたそれを。
――先輩が、唇に触れさせた。
そしてまた、そのスプーンを、あたしが使う。
心が、小さく、静かに、崩れていく音がした。
これはもう、プレゼンでも、何の話でもなくて。
あたしと先輩の、きっとはじまりの、儀式なのかもしれない――。




