12-1 推しに名前呼びなんてされたら死ぬにきまっている。
◆
――むり。
あたし、一昨日から今日にかけて、何回生き返ったらいいんですか?
授業のチャイムが鳴っても。
黒板の文字も、先生の声も、ぜんぶ――先輩に、上書きされる。
ノートの余白に"あまね先輩"と書いた。
自分の字なのに、きらきらして見える。
その隣にこっそり書き足す。
"ひなたちゃん"という文字と、相合傘。
……ふえぇ。生きているって、奇跡だ……。
「ねぇ、ひなた〜」
「はい尊いっ!!」
「まだ何も言ってないけどぉ!?」
隣の席から、れなこの呆れた声が飛んでくる。
「……あれ、もう休み時間!?」
「休み時間っていうより給食だよぉ〜」
言われてみれば、お腹がすいている。
でも、現実世界に戻るのが惜しい。
――だって。
あの先輩が、あたしの名前を呼ぶなんて……どんな幸せよ!?
……昨日も、電話で。
(……ふへぇ。ふへへへ……っ、やばい……)
「ひなた、やばい顔してるぅ!! ふへへって言ってたよ今!」
「え!? し、してない! 言ってないよ!?」
「じゃあそのノートに大量発生してる"ひなたちゃん"って何〜?」
「それは……先輩が言ったからぁぁ!!」
机に突っ伏して隠す。
顔から湯気が出そう。ていうか出ている。完全に茹でタコモード。
「……行ってきたら?」
「……え?」
「給食当番、代わるよぉ。気になって食べられないでしょ?」
「れなこ……!!」
「お代は、先輩との恋話でお願いしますっ♪」
……ありがとう、れなこ。
立ち上がって、駆け出そうとしたそのとき、背後からふわりと聞こえた。
「ずっと元気なかったもん。ひなたが、また笑ってくれて……ほんとによかった」
◆
階段を駆け上がる。
目指すのは、ひとつ上の学年。あの人のクラス。
給食の放送に、廊下にこぼれる笑い声。
お昼時の喧騒が、やたら遠くに感じられた。
(……会えるかな)
呼吸が浅くなる。
さっきまで教室でふへっていたのが嘘みたい。
今は胸がぎゅっとしている。
教室の窓から、そっと中をのぞく。
――でも、いない。
見渡しても、先輩の姿はどこにもなかった。
教室の後ろで談笑していた、数人の中のひとりがあたしに気づく。
「あれ……飛鳥さん?」
「えっ、え? はいっ!?」
反射的に姿勢を正す。
出入り口に現れたのは、長身で、どこか洗練された雰囲気の女子。
柔らかく髪を結っていて、微笑んだ顔には、先輩に似た気品があった。
「よかった。……ずっと気になってたんだよね。ほら、番号くれたじゃん」
ぽかんとするあたしに、その人はスマホを取り出して、手早く操作する。
見せられた、連絡帳の表示には。
《飛鳥ひなたさん/あまねを待ってた子》
――あのときだ。
雨の中、何時間も探し回った日。
すがる思いで番号を託した、上級生。
「あれから、あまねには会えた?」
……ナチュラルな名前呼び。
羨ましいな。
「……は、はいっ。おかげで……」
「そりゃ良かった。また、あまねに用事?」
「はい。今日は、来ていないんですか?」
彼女は少しだけ目を細める。
「……なんかね。あまねが急に、笑ってたんだよ」
え? と、思わず聞き返しそうになる。
「……笑ったんですか?」
「うん。珍しいよ。滅多に笑わないのに」
……それは、納得できる。
「そしたらさ、"名前呼ぶのって、すごく勇気がいるんだね"って言ってて」
――あまね先輩。
それって。
「……視聴覚室Bだってさ」
「えっ……」
「委員の仕事でプレゼン準備中。鍵も持ってるし、給食も持っていったよ」
「……はい」
言葉が追いつかない。
でも、伝えたいことは、伝わっている気がした。
「だからさ。たぶん――飛鳥さんは、特別だと思う」
視界がにじんだ。
胸の奥から、いろんな想いが溢れそうになる。
……よく見えないけれど。
彼女も、涙ぐんでいる気がした。
「きっと、あまねも待ってる」
「……はいっ!」
声が少し震えたけれど、その人は頷いてくれた。
「……あーあ」
――大きなため息。
「妬けちゃうなあっ。あまねの一番の友達、私だったのに! もうっ」
「す、すみません……っ」
「……いじわるだったね、ごめん」
彼女は、頬をかきながら、くしゃっと笑った。
「私、あまねのこと、大好きだからさ。……だから嬉しいの。あの子が自分から、誰かの名前を呼ぶなんて、今まで一度もなかったから」
その声に、嘘がないのがわかる。
やさしくて、あたたかくて。先輩を本当に、大切に思っている声だ。
「私、志緒 さゆきって言います」
「……ひなたです。飛鳥ひなた」
「うん、知ってる。あまねもそう言ってたし。てか、番号預かったときに聞いてるよ?」
「そ、そうですよね……っ」
「私とも、友達になってくれたら嬉しいな」
「……はいっ、よ、よろし……、よろしくお願いしますっ……!」
慣れない敬語が空回って、頭がぺこぺこと何度も下がる。
「ふふ、ありがと。そんなにかしこまらなくて大丈夫だよ」
志緒さんが、すっと手を差し出す。
その手を握った。
手のひらは、少しひんやりしていて。
でも、ちゃんとぬくもりがある。
……そんなところも、先輩と似ている。
「行っておいで。ひなたちゃん」
「……はいっ」
もう一度、深く頭を下げて――走り出す。
階段を駆けあがる足音も、廊下に響く放送も、何もかもが遠ざかっていく。
今、あたしの中にあるのは、たったひとつの音。
――あの声で、呼ばれた名前。
胸の奥に残っている。
その一言だけが、何度も、何度も、あたしの中で波紋のように広がっていく。
視聴覚室は、もうすぐそこだ。




