9-3 泣きたくなるくらい幸せな余韻に、包まれていたい。
「……せ、先輩……っ」
『声、聴きたくて』
その瞬間、胸の奥が――爆ぜた。
言葉が、心臓のいちばんやわらかいところに突き刺さる。
耳元で響く声が、全身をやさしく、でもしっかりと、締めつける。
――ああ、思い出した。
こんな風に、あたしの世界は、何度も何度も、反転してきたんだ。
放課後の旧図書室で。
おにぎりを食べている先輩を、見てしまったあの日から。
整いすぎた顔に、米粒をくっつけた唇の端。
頬をぷくっとふくらませて。
静かに本をめくる指先。
ふと、何かに気を取られたように視線を上げる瞬間。
たまに、ちょっとだけ眉が寄る表情。
そのどれもが、あたしの胸に、雪のように降り積もっていった。
元々、憧れていたのに。
好きにならずにいられるわけ、なかった。
世界の色が変わってしまったのは――あなたのせいですよ、あまね先輩。
責任、取ってくださいね。
……スマホを握る手が震える。
そっと目を閉じて、声の余韻を聴いた。
「……さっき、あんなに話したばっかりなのに。先輩ったら、もうですか?」
わざと、意地悪く返す。
「もう足りなくなったんですか? ……素直に言えて、いい子です」
スマホの向こうの空気が、ふるりと揺れた。
見えなくてもわかる。
先輩――絶対、今、顔真っ赤だ。
『……あれで終わりにしたくなかった。今日』
カウンターを食らった。
……かわいすぎる。ほんとに、もう。
「……じゃあ、本気にして、いいんですね?」
言葉の温度をそっと落として、ささやくように尋ねる。
「毎日、電話しちゃいますよ。あまね先輩」
沈黙が、一秒……二秒……と続いたあと。
『……飛鳥ちゃんなら、……いい』
そのたった一言が、心の深いところに、灯をともす。
「……もう、夜更けですね。こんな時間まで、本当にありがとうございます」
『ううん、こちらこそ。……話せてよかった』
「おやすみなさい、先輩。夢で逢いましょう」
『うん。……おやすみ、飛鳥ちゃん。また、明日』
――そして、通話が、静かに切れた。
画面に浮かぶ「通話終了」の文字。
何が起きたのか、夢うつつなまま。
スマホを胸に、ぎゅっと抱きしめる。
心臓が、爆音で鳴っている。
世界のすべてが、先輩の声で満たされている。
(……先輩、どうして、番号……。知ってたんですか……?)
ふと、そんな疑問が浮かんだ、けど。
それすら胸の中でやさしく溶けていった。
だって、たとえ理由がわからなくても、あたしの名前を呼んだのは――あまね先輩だから。
今はただ。
甘くて、甘くて、ちょっと泣きたくなるくらい幸せな余韻に、包まれていたい。




