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2-1 む、無理……! そんな顔で見ないで……! それ以上何か言われたら、あたし、(尊くて)死にます……!


 部室でスパイクに履き替えて、外に出る。

 ぼんやりとした光が、校庭をやわらかく包んでいた。


 雲に覆われた空は淡くて、どこか眠たげで。

 咲き残った桜が、トラックの端でふわりと揺れている。

 湿った土と草の匂い。

 新調したスパイクの、足にまだ馴染まない感触。


 入学して一年が経った。

 最初は見慣れなかったこの景色も、気づけばすっかり自分のものになっている。




 準備運動をかねて、校舎の外周をゆっくり走る。

 ――あれ?

 使われていないはずの第二校舎。

 その一階。本棚がずらりと並ぶ窓辺に。

 ……ひとり、じっと佇む人影があった。

 風もないのに、長い髪がゆっくり揺れる。

 濡れ羽色のしっとりとした黒。

 すぐにわかった。九条先輩だ。


 ……誰かを待っているのかな。それとも――。


「……ひなた~っ、何やってるのさぁ~! 練習始まるよぉ~!」


 背後から声が飛んでくる。


「……あっ、ううん別に! アップだよっ! 今日も日差しがいいな~なんて、あはは……」

「……ひなた。何だか無理があるよぉ。隠し事してない~っ!?」

「そ、そんなことないってぇ!?」


 振り返ると、両手いっぱいにビニール袋を抱えた、桃井(ももい) れなこが駆け寄ってくるところだった。

 中にはポカリ、塩分タブレット、氷袋。運動部のフル装備が、ぱんぱんに詰まっている。


「さては部活さぼる気でしょ~? コーチ怒るよぉ!」

「い、いやいやっ!? そんなことないから……っ。ちゃんとアップ終わったら行くって!」


 もう一度、窓を見る。

 もう九条先輩の姿はなかった。

 いつも、こうだ。

 踏み出せないまま、タイミングを逃してしまう。


「マネージャーとして、ひなたのことは見逃さないからねっ! さぼり未遂も全部、報告案件~!」

「うわああチクらないでよぉ!! ほら、やる気全開っ!! 行ってきまあすっ!!」




 うまくいかない苛立ちとか。

 自分のふがいなさとか。

 そういうのは全部、思い切り体を動かすことで、少しは忘れられる気がする。


「……ひなた~? お~い、大丈夫?」

「はあ、ひい。ぜえ、はあ……だ、大丈夫っ」


 心臓をばくばく鳴らして、頭の中が真っ白になるまで走って。

 脚が悲鳴をあげても止まらず、風を切って、地面を蹴って。

 限界の先へ、もう一歩だけ。

 そうやって走っていると、悩んでいたことも、気持ちも、グラウンドの土に溶けて、どこかへ流れていくような気がする。

 

「お疲れ様~。でも飛ばしすぎだよぉ! コーチも心配してたし。ほんっと、ひなたは陸上一直線だねぇ~!」


 息が切れて、肩が上下する。

 ポカリを受け取った腕が、びくびく震えている。

 差し出してくれた、れなこの顔を、まっすぐ見られない。

 そんな純粋な気持ちじゃない……あたしって。


「んぐ、んぐ……ふうっ。……ありがと、れなこ」

「どーいたしまして〜。ひなたはエースなんだから! 体、大事にしなきゃ。……立てる?」

「うん……よっと」


 立ち上がると同時に顔を上げる。

 グラウンドの向こう。雲の切れ間から夕焼けがのぞいていた。

 灰色の空を裂くように、朱色がじんわりと滲んでいる。

 建物も、グラウンドも、すべてが赤く染まる。

 九条先輩も同じ空を見ているだろうか。


「さぁ、ひなた! 部室でマッサージタイムだよぉ~! 今日は脚を重点的にいくからねぇ!」

「えっ? やだ。れなこのマッサージってゴリゴリじゃん……」

「愛だよ、愛っ! 筋肉に友情と圧を届けるの!」

「友情と圧って何……?」


 ……こんな気持ちを抱えたままじゃ、ダメだ。

 心にフタをしたまま、やり過ごすなんて。




 

 下校のチャイムが鳴った、放課後。

 いつものように部活へ向かおうとした。

 けど。

 足が、どうしても途中で止まる。

 二階の昇降口まで来て、靴を履き替えようとして――そのまま、踵を返した。


「おっ、ひなた! 練習行こう~! って、ええっ、どこ行くの~!?」

「……ちょっと」

「へ?」


 階段前ですれ違ったれなこが、不思議そうに首を傾げる。


「ちょっとだけ、回り道っ!」


 れなこが、ぱちくりと目を瞬かせる。


「……ちょっとって、どのくらいさ~!?」


 背後からの声に聞こえないふりをして。

 校舎一階に降りる。連絡通路を渡る。誰も通らない、静かな場所。

 自分の足音が、心臓の鼓動と一緒になって響く。

 ――使われていないはずの第二校舎。

 古びた木造の内装。軋む廊下の床。ひんやりした空気。

 初めて来たのに、どこか懐かしい匂いがする。

 気づけば、手が旧図書室のドアノブに触れていた。


(何やってんだろ、あたし……)


 昨日、見かけた場所がここだった。

 それだけだ。

 今日もいるとは限らないし、昨日のことだって、見間違いだったかもしれない。

 それでも……たとえ空振りでも構わない。

 だって、昨日まで声をかけられなかった自分を、変えたいから。

 ――何もできずに終わるのは、嫌だから。

 そっと、ドアを押す。


「失礼します……」


 思っていたよりも空気は澄んでいた。

 古びた空の本棚が静かに並ぶ。もう本はほとんど残っていないのに、埃がなくて、きれいだ。

 日陰でひっそりとしているのに、どこかあたたかな空間。

 棚の並びの先。

 机がいくつか並ぶ、その一角。

 窓際の古い机のそばに――。

 九条先輩が、いた。

 背筋を小さく丸めて、ちょこんと座っている。

 振り返る形で、あたしを上目遣いに見上げながら。

 もぐもぐと、口を一生懸命動かしていた。


「……えっ。えっ? あの、せ、先輩……!?」

「……ん、んぐ……もごっ、……ん……」


 先輩は、しゃべろうとしたっぽい。

 けど、口の中がぱんぱんで、うまく言葉にならない。

 唇の端には――米粒がくっついていた。


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