2-1 む、無理……! そんな顔で見ないで……! それ以上何か言われたら、あたし、(尊くて)死にます……!
◆
部室でスパイクに履き替えて、外に出る。
ぼんやりとした光が、校庭をやわらかく包んでいた。
雲に覆われた空は淡くて、どこか眠たげで。
咲き残った桜が、トラックの端でふわりと揺れている。
湿った土と草の匂い。
新調したスパイクの、足にまだ馴染まない感触。
入学して一年が経った。
最初は見慣れなかったこの景色も、気づけばすっかり自分のものになっている。
準備運動をかねて、校舎の外周をゆっくり走る。
――あれ?
使われていないはずの第二校舎。
その一階。本棚がずらりと並ぶ窓辺に。
……ひとり、じっと佇む人影があった。
風もないのに、長い髪がゆっくり揺れる。
濡れ羽色のしっとりとした黒。
すぐにわかった。九条先輩だ。
……誰かを待っているのかな。それとも――。
「……ひなた~っ、何やってるのさぁ~! 練習始まるよぉ~!」
背後から声が飛んでくる。
「……あっ、ううん別に! アップだよっ! 今日も日差しがいいな~なんて、あはは……」
「……ひなた。何だか無理があるよぉ。隠し事してない~っ!?」
「そ、そんなことないってぇ!?」
振り返ると、両手いっぱいにビニール袋を抱えた、桃井 れなこが駆け寄ってくるところだった。
中にはポカリ、塩分タブレット、氷袋。運動部のフル装備が、ぱんぱんに詰まっている。
「さては部活さぼる気でしょ~? コーチ怒るよぉ!」
「い、いやいやっ!? そんなことないから……っ。ちゃんとアップ終わったら行くって!」
もう一度、窓を見る。
もう九条先輩の姿はなかった。
いつも、こうだ。
踏み出せないまま、タイミングを逃してしまう。
「マネージャーとして、ひなたのことは見逃さないからねっ! さぼり未遂も全部、報告案件~!」
「うわああチクらないでよぉ!! ほら、やる気全開っ!! 行ってきまあすっ!!」
うまくいかない苛立ちとか。
自分のふがいなさとか。
そういうのは全部、思い切り体を動かすことで、少しは忘れられる気がする。
「……ひなた~? お~い、大丈夫?」
「はあ、ひい。ぜえ、はあ……だ、大丈夫っ」
心臓をばくばく鳴らして、頭の中が真っ白になるまで走って。
脚が悲鳴をあげても止まらず、風を切って、地面を蹴って。
限界の先へ、もう一歩だけ。
そうやって走っていると、悩んでいたことも、気持ちも、グラウンドの土に溶けて、どこかへ流れていくような気がする。
「お疲れ様~。でも飛ばしすぎだよぉ! コーチも心配してたし。ほんっと、ひなたは陸上一直線だねぇ~!」
息が切れて、肩が上下する。
ポカリを受け取った腕が、びくびく震えている。
差し出してくれた、れなこの顔を、まっすぐ見られない。
そんな純粋な気持ちじゃない……あたしって。
「んぐ、んぐ……ふうっ。……ありがと、れなこ」
「どーいたしまして〜。ひなたはエースなんだから! 体、大事にしなきゃ。……立てる?」
「うん……よっと」
立ち上がると同時に顔を上げる。
グラウンドの向こう。雲の切れ間から夕焼けがのぞいていた。
灰色の空を裂くように、朱色がじんわりと滲んでいる。
建物も、グラウンドも、すべてが赤く染まる。
九条先輩も同じ空を見ているだろうか。
「さぁ、ひなた! 部室でマッサージタイムだよぉ~! 今日は脚を重点的にいくからねぇ!」
「えっ? やだ。れなこのマッサージってゴリゴリじゃん……」
「愛だよ、愛っ! 筋肉に友情と圧を届けるの!」
「友情と圧って何……?」
……こんな気持ちを抱えたままじゃ、ダメだ。
心にフタをしたまま、やり過ごすなんて。
◆
下校のチャイムが鳴った、放課後。
いつものように部活へ向かおうとした。
けど。
足が、どうしても途中で止まる。
二階の昇降口まで来て、靴を履き替えようとして――そのまま、踵を返した。
「おっ、ひなた! 練習行こう~! って、ええっ、どこ行くの~!?」
「……ちょっと」
「へ?」
階段前ですれ違ったれなこが、不思議そうに首を傾げる。
「ちょっとだけ、回り道っ!」
れなこが、ぱちくりと目を瞬かせる。
「……ちょっとって、どのくらいさ~!?」
背後からの声に聞こえないふりをして。
校舎一階に降りる。連絡通路を渡る。誰も通らない、静かな場所。
自分の足音が、心臓の鼓動と一緒になって響く。
――使われていないはずの第二校舎。
古びた木造の内装。軋む廊下の床。ひんやりした空気。
初めて来たのに、どこか懐かしい匂いがする。
気づけば、手が旧図書室のドアノブに触れていた。
(何やってんだろ、あたし……)
昨日、見かけた場所がここだった。
それだけだ。
今日もいるとは限らないし、昨日のことだって、見間違いだったかもしれない。
それでも……たとえ空振りでも構わない。
だって、昨日まで声をかけられなかった自分を、変えたいから。
――何もできずに終わるのは、嫌だから。
そっと、ドアを押す。
「失礼します……」
思っていたよりも空気は澄んでいた。
古びた空の本棚が静かに並ぶ。もう本はほとんど残っていないのに、埃がなくて、きれいだ。
日陰でひっそりとしているのに、どこかあたたかな空間。
棚の並びの先。
机がいくつか並ぶ、その一角。
窓際の古い机のそばに――。
九条先輩が、いた。
背筋を小さく丸めて、ちょこんと座っている。
振り返る形で、あたしを上目遣いに見上げながら。
もぐもぐと、口を一生懸命動かしていた。
「……えっ。えっ? あの、せ、先輩……!?」
「……ん、んぐ……もごっ、……ん……」
先輩は、しゃべろうとしたっぽい。
けど、口の中がぱんぱんで、うまく言葉にならない。
唇の端には――米粒がくっついていた。