8-3 ひどいことをされても、ずっと好きです。でもそれは、平気って意味じゃないです。
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そのまま、ふたりで並んで立つ。
神社の軒先。打ちつける雨音。
水たまりに跳ねる雫の音が、まるで時を刻む振り子みたいに、規則的に響く。
雨が、世界の輪郭を縫い留めていた。
入学してから、先輩の存在を目で追うだけの日々が続いた。
ほんの2ヶ月前まで、こんなふうに隣に立つなんて、想像すらできなかったのに。
今、あたしの左肩に、先輩の右肩が、かすかに触れている。
濡れて冷えた制服越しに、小さく灯る熱。
……ひとつ、息を吸う。
すぐ隣で先輩も同じように、そっと息を吸った。
吐息がふたつ、空中で重なって、ひとつに溶けていく。
雨の匂いさえ、ほんのり甘く感じられた。
――隣にいられることが、夢みたい。
「……この3週間。何があったか、聞いてもいいですか?」
しばらくの間、返ってくるのは雨音だけだった。
「――家の事情って言えば、たぶん、みんな納得してくれるんだろうけど」
その声は、雨に紛れるように小さかった。
けれどあたしには、まっすぐに届く。
「……あたしは、そういうのが嘘だって、わかりますよ」
琥珀色の瞳が、静かにあたしを見据える。
「……どうして?」
「だって旧図書室で、一緒にいましたから」
そして。
それよりずっと前から、先輩を見ていたから。
目を閉じる。
記憶が、胸の奥で光る。
穏やかな時間も、視線も、心の震えも、全部。
あたしの中に、先輩が息づいている。
「先輩がどんなときに、どんな顔をして。どんなふうに黙るのか……。ずっと、見てきました。誰よりも、見ていました」
その言葉に、先輩は目を伏せた。
そして、そっとまぶたを上げる。
小さく――笑った。
ほんのかすかな苦笑だった。
その瞳の奥には、どこか、安堵の色が滲んでいた。
「何だか不思議。ずっと一緒にいたみたい、わたしたち」
「それ、……最高に嬉しいです。けど、ちょっとだけ……寂しいです」
「……寂しい?」
「“みたい”じゃなくて、本当に……。これからも一緒にいたいって、思っていますから」
先輩の頬に、ふわりと紅が差す。
その顔が、どうしようもなく、愛しかった。
「――あまね、先輩」
名前を呼ぶと、胸がきゅっとなる。
「……あまね先輩っ!」
もっと、先輩のことを知りたい。
もっと、先輩のそばにいたい。
「……なあに、飛鳥ちゃん」
あたしを呼ぶ声は、触れたら溶けてしまいそうなほど、やわらかい。
「――もう、どこにも、行かないでくださいね……っ」
水たまりに落ちた雫のように、言葉が静かに波紋を描いて、広がっていく。
一瞬、世界が息をひそめた。
視界がにじんでいく。
……あれ。どうして、こんなに胸が苦しいんだろう。
ぎゅっと締めつけられて、呼吸もうまくできない。
足もとがふらりと揺れた――その瞬間。
先輩の腕が、そっと、あたしを抱きとめてくれた。
「あまね先輩……」
「……飛鳥ちゃん」
耳元で、凛とした声が響いた。
くすぐったいほど近くて、吐息があたたかい。
その腕の中に身をゆだねる。
胸に顔をうずめたまま、そっと見上げた。
先輩は、何も言わず――。
ただ、ぎゅっと唇を閉じていた。
震えるように、ゆっくりと噛みしめる、その唇。
言葉にならない想いを、静かに、胸の奥へと押し込めているようだった。
そして、時間がほどけるように、口を開いた。
「――うん。もう、大丈夫。どこにも行かないよ」
先輩は――まるで春の陽みたいに、笑ってくれた。
たったそれだけ。
でも、まるで世界中の光が、その笑顔に集まったみたい。
張りつめていた心が、ふわりとほどけていく。
寂しさも、不安も。
名前のつかない想いも。
涙に溶けて、流れていく。
体重を預けてしまうあたしを……先輩は、支えてくれる。
この3週間のすべてが、やっと、報われた気がした。
◆
雨がやんだ。
ふと空を仰ぐと、重たく垂れ込めていた雲が裂けて、青空が垣間見えた。
濡れたままの石段が、陽に照らされて、きらきらと光を返す。
ついさっきまでの土砂降りが、まるで幻だったみたいだ。
……やたら蒸しっとして、むしろ暑いくらい。
湿気をたっぷり含んだ空気が、じっとりと肌にまとわりつく。
みんみんみん、と、遠くで蝉が鳴いていた。
「……また、旧図書室で会いたいね」
先輩の声が、風に乗って、静かに空へと溶けていった。
胸が、きゅっとした。
それでも、もう怖くはなかった。
「あたしもですよ、先輩。絶対に……明日も、会いましょう」




