表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/50

8-3 ひどいことをされても、ずっと好きです。でもそれは、平気って意味じゃないです。


 そのまま、ふたりで並んで立つ。

 神社の軒先。打ちつける雨音。

 水たまりに跳ねる雫の音が、まるで時を刻む振り子みたいに、規則的に響く。

 雨が、世界の輪郭を縫い留めていた。


 入学してから、先輩の存在を目で追うだけの日々が続いた。

 ほんの2ヶ月前まで、こんなふうに隣に立つなんて、想像すらできなかったのに。

 今、あたしの左肩に、先輩の右肩が、かすかに触れている。

 濡れて冷えた制服越しに、小さく灯る熱。

 ……ひとつ、息を吸う。

 すぐ隣で先輩も同じように、そっと息を吸った。

 吐息がふたつ、空中で重なって、ひとつに溶けていく。

 雨の匂いさえ、ほんのり甘く感じられた。

 ――隣にいられることが、夢みたい。


「……この3週間。何があったか、聞いてもいいですか?」


 しばらくの間、返ってくるのは雨音だけだった。


「――家の事情って言えば、たぶん、みんな納得してくれるんだろうけど」


 その声は、雨に紛れるように小さかった。

 けれどあたしには、まっすぐに届く。


「……あたしは、そういうのが嘘だって、わかりますよ」


 琥珀色の瞳が、静かにあたしを見据える。


「……どうして?」

「だって旧図書室で、一緒にいましたから」


 そして。

 それよりずっと前から、先輩を見ていたから。

 目を閉じる。

 記憶が、胸の奥で光る。

 穏やかな時間も、視線も、心の震えも、全部。

 あたしの中に、先輩が息づいている。


「先輩がどんなときに、どんな顔をして。どんなふうに黙るのか……。ずっと、見てきました。誰よりも、見ていました」


 その言葉に、先輩は目を伏せた。

 そして、そっとまぶたを上げる。

 小さく――笑った。

 ほんのかすかな苦笑だった。

 その瞳の奥には、どこか、安堵の色が滲んでいた。


「何だか不思議。ずっと一緒にいたみたい、わたしたち」

「それ、……最高に嬉しいです。けど、ちょっとだけ……寂しいです」

「……寂しい?」

「“みたい”じゃなくて、本当に……。これからも一緒にいたいって、思っていますから」


 先輩の頬に、ふわりと紅が差す。

 その顔が、どうしようもなく、愛しかった。


「――あまね、先輩」


 名前を呼ぶと、胸がきゅっとなる。


「……あまね先輩っ!」


 もっと、先輩のことを知りたい。

 もっと、先輩のそばにいたい。


「……なあに、飛鳥ちゃん」


 あたしを呼ぶ声は、触れたら溶けてしまいそうなほど、やわらかい。


「――もう、どこにも、行かないでくださいね……っ」


 水たまりに落ちた雫のように、言葉が静かに波紋を描いて、広がっていく。

 一瞬、世界が息をひそめた。

 視界がにじんでいく。

 ……あれ。どうして、こんなに胸が苦しいんだろう。

 ぎゅっと締めつけられて、呼吸もうまくできない。

 足もとがふらりと揺れた――その瞬間。

 先輩の腕が、そっと、あたしを抱きとめてくれた。


「あまね先輩……」

「……飛鳥ちゃん」


 耳元で、凛とした声が響いた。

 くすぐったいほど近くて、吐息があたたかい。

 その腕の中に身をゆだねる。

 胸に顔をうずめたまま、そっと見上げた。


 先輩は、何も言わず――。

 ただ、ぎゅっと唇を閉じていた。

 震えるように、ゆっくりと噛みしめる、その唇。

 言葉にならない想いを、静かに、胸の奥へと押し込めているようだった。


 そして、時間がほどけるように、口を開いた。


「――うん。もう、大丈夫。どこにも行かないよ」


 先輩は――まるで春の陽みたいに、笑ってくれた。


 たったそれだけ。

 でも、まるで世界中の光が、その笑顔に集まったみたい。

 張りつめていた心が、ふわりとほどけていく。

 寂しさも、不安も。

 名前のつかない想いも。

 涙に溶けて、流れていく。

 体重を預けてしまうあたしを……先輩は、支えてくれる。


 この3週間のすべてが、やっと、報われた気がした。





 雨がやんだ。

 ふと空を仰ぐと、重たく垂れ込めていた雲が裂けて、青空が垣間見えた。

 濡れたままの石段が、陽に照らされて、きらきらと光を返す。

 ついさっきまでの土砂降りが、まるで幻だったみたいだ。

 ……やたら蒸しっとして、むしろ暑いくらい。

 湿気をたっぷり含んだ空気が、じっとりと肌にまとわりつく。

 みんみんみん、と、遠くで蝉が鳴いていた。


「……また、旧図書室で会いたいね」


 先輩の声が、風に乗って、静かに空へと溶けていった。


 胸が、きゅっとした。

 それでも、もう怖くはなかった。


「あたしもですよ、先輩。絶対に……明日も、会いましょう」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ