8-2 ひどいことをされても、ずっと好きです。でもそれは、平気って意味じゃないです。
鼓動がうるさくて、その水音さえ遠のいていく。
耳の奥で、自分の心臓が叫んでいるみたいだ。
視界の向こうに、いるのに。
まるで夢みたいに輪郭がぼやけている。
……3週間。
何も言わずに姿を消していた先輩。
声をかけようとしても、喉が詰まって、言葉にならなかった。
本当にそこにいるのが、あの人なのか――確かめるのが、怖かった。
もしも名前を呼んでしまったら。
この奇跡みたいな再会が、幻みたいに壊れてしまいそうで。
「飛鳥ちゃん。……濡れてる」
その声で、時間が動き出す。
凛として、静かで、変わらない――先輩の声。
心の奥で雷みたいに鳴り響いた。
「……はい。ずぶ濡れ、です」
そんなことを言いたいんじゃなかったのに。
たった一言、心配されただけで。
胸がつぶれそうなぐらい……嬉しいなんて。
「待ってて」
先輩が一歩、踏み出す。
豪雨の中、自分のことなんて気にせずに。
びしょ濡れになりながら、あたしの目の前まで来てくれる。
冷たい朝の空気みたいな、すっと澄んだ香りが、鼻をくすぐった。
ずっと恋しくて、探していた匂いだ。
「……どうして……」
喉から声が零れ落ちる。
あたしも一歩、踏み出す。
水たまりを踏んで、ばしゃっと音が弾けた――その瞬間。
気づけば、先輩の胸に飛び込んでいた。
「……どうしてっ!!」
拳が動く。
先輩の肩を、どん、と叩く。
もう一度。もう一度。
叩くたびに、力は抜けていって……涙は溢れるばかり。
四回目は、ただ撫でているみたいになってしまった。
「……飛鳥ちゃん」
「っ、ひっく……。ば、ばかです……っ、先輩……。……ばかぁ……」
「おいで」
その言葉とともに、先輩の腕が、あたしの背中に回った。
力強く、ぎゅっと引き寄せられる。
制服越しに伝わる体温は、心許ないほど弱い。
先輩も冷えている。
それでも、その僅かなぬくもりが、あたたかい。
頬を押しあてる、先輩の胸から、恋しかった匂いがする。
濡れた制服同士が張りつく感触。
遠ざかっていく雨音。
まるで、時の止まった箱庭のなかに、ふたりきりで取り残されたみたいだった。
先輩の心音が、ゆっくりと、でも確かに響いてくる。
その音が、ここに先輩がいるってことを、教えてくれた。
「……冷えるよ」
しばらくして、先輩があたしの背をそっと押した。
軒下へ。
雨の届かない場所へ。
ふたりで肩を寄せて、しゃがみ込む。
先輩がバッグを開けて、小さなタオルを取り出した。
そして、あたしに近づける。
「じっとして」
濡れた前髪をおさえながら、優しく、優しく、雨をぬぐってくれる。
前に触れた時は冷たかった先輩の指先が。
今は、火が灯ったみたい。
「……足りないね」
濡れきったタオルを見つめながら、ぽつりと呟いた。
自分のためじゃなくて、あたしのために、ためらいもなく差し出してくれる。
そういう人なんだ、先輩は。
「……先輩」
「うん?」
琥珀色の瞳が、まっすぐにあたしを見つめ返す。
「……"天むす"、返してないです」
会話の糸口を、震える指先で探すように、言葉をこぼす。
「……そうだね。どう、面白い?」
「それは、もう……すごく。でも、今、持っていないんです」
「……カバンは?」
「部室に、置いてきました」
「そっか……」
「……いつ、先輩に会えるか分からなかったから。ずっと、持ち歩いていました。……でも」
胸の奥に、熱いものがこみあげてくる。
「先輩から預かった、大事なもの。濡らしたくなんて、なかったんです」
これは、ただの小説じゃない。
あたしと先輩を結ぶ、たったひとつの、目に見える証だ。
もし、失ってしまったら。
先輩とのつながりごと、消えてしまいそうで。
それだけは絶対に嫌だった。
あたしが顔を上げると、先輩は何も言わずに、じっと見つめていた。
いつもの無表情――のはずなのに。
その瞳の奥が、静かに揺れている。
恥ずかしそうに目をそらすわけでもなく。
困ったように笑うわけでもなく。
ただ、まっすぐに。
まるで、あたしの心の奥を、そっとのぞき込むようなまなざしで。
「――先輩……?」
濡れたまつげが、かすかに震える。
小さく開いた唇は、何かを言いかけて、けれど言葉にならない。
首筋のあたりまで、ほんのりと紅く染まっていて。
視線はわずかに揺れていた。
それでも、決して視線を逸らさない。
ずっと――あたしだけを見ている。
こんなふうに、真剣に。
誰よりも強く、まっすぐに。
“あたし”を見つめてくれる、九条あまね先輩を――。
今日まで、知らなかった。




