表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

17/50

8-2 ひどいことをされても、ずっと好きです。でもそれは、平気って意味じゃないです。

 鼓動がうるさくて、その水音さえ遠のいていく。

 耳の奥で、自分の心臓が叫んでいるみたいだ。

 視界の向こうに、いるのに。

 まるで夢みたいに輪郭がぼやけている。


 ……3週間。

 何も言わずに姿を消していた先輩。

 声をかけようとしても、喉が詰まって、言葉にならなかった。

 本当にそこにいるのが、あの人なのか――確かめるのが、怖かった。

 もしも名前を呼んでしまったら。

 この奇跡みたいな再会が、幻みたいに壊れてしまいそうで。




「飛鳥ちゃん。……濡れてる」


 その声で、時間が動き出す。

 凛として、静かで、変わらない――先輩の声。

 心の奥で雷みたいに鳴り響いた。


「……はい。ずぶ濡れ、です」


 そんなことを言いたいんじゃなかったのに。

 たった一言、心配されただけで。

 胸がつぶれそうなぐらい……嬉しいなんて。


「待ってて」

 

 先輩が一歩、踏み出す。

 豪雨の中、自分のことなんて気にせずに。

 びしょ濡れになりながら、あたしの目の前まで来てくれる。

 冷たい朝の空気みたいな、すっと澄んだ香りが、鼻をくすぐった。

 ずっと恋しくて、探していた匂いだ。


「……どうして……」


 喉から声が零れ落ちる。

 あたしも一歩、踏み出す。

 水たまりを踏んで、ばしゃっと音が弾けた――その瞬間。

 気づけば、先輩の胸に飛び込んでいた。


「……どうしてっ!!」


 拳が動く。

 先輩の肩を、どん、と叩く。

 もう一度。もう一度。

 叩くたびに、力は抜けていって……涙は溢れるばかり。

 四回目は、ただ撫でているみたいになってしまった。


「……飛鳥ちゃん」

「っ、ひっく……。ば、ばかです……っ、先輩……。……ばかぁ……」

「おいで」


 その言葉とともに、先輩の腕が、あたしの背中に回った。

 力強く、ぎゅっと引き寄せられる。

 制服越しに伝わる体温は、心許ないほど弱い。

 先輩も冷えている。

 それでも、その僅かなぬくもりが、あたたかい。


 頬を押しあてる、先輩の胸から、恋しかった匂いがする。

 濡れた制服同士が張りつく感触。

 遠ざかっていく雨音。

 まるで、時の止まった箱庭のなかに、ふたりきりで取り残されたみたいだった。

 先輩の心音が、ゆっくりと、でも確かに響いてくる。

 その音が、ここに先輩がいるってことを、教えてくれた。


「……冷えるよ」


 しばらくして、先輩があたしの背をそっと押した。

 軒下へ。

 雨の届かない場所へ。

 ふたりで肩を寄せて、しゃがみ込む。

 先輩がバッグを開けて、小さなタオルを取り出した。

 そして、あたしに近づける。


「じっとして」


 濡れた前髪をおさえながら、優しく、優しく、雨をぬぐってくれる。

 前に触れた時は冷たかった先輩の指先が。

 今は、火が灯ったみたい。


「……足りないね」


 濡れきったタオルを見つめながら、ぽつりと呟いた。

 自分のためじゃなくて、あたしのために、ためらいもなく差し出してくれる。

 そういう人なんだ、先輩は。


「……先輩」

「うん?」


 琥珀色の瞳が、まっすぐにあたしを見つめ返す。


「……"天むす"、返してないです」


 会話の糸口を、震える指先で探すように、言葉をこぼす。


「……そうだね。どう、面白い?」

「それは、もう……すごく。でも、今、持っていないんです」

「……カバンは?」

「部室に、置いてきました」

「そっか……」

「……いつ、先輩に会えるか分からなかったから。ずっと、持ち歩いていました。……でも」


 胸の奥に、熱いものがこみあげてくる。


「先輩から預かった、大事なもの。濡らしたくなんて、なかったんです」


 これは、ただの小説じゃない。

 あたしと先輩を結ぶ、たったひとつの、目に見える証だ。

 もし、失ってしまったら。

 先輩とのつながりごと、消えてしまいそうで。

 それだけは絶対に嫌だった。




 あたしが顔を上げると、先輩は何も言わずに、じっと見つめていた。

 いつもの無表情――のはずなのに。

 その瞳の奥が、静かに揺れている。


 恥ずかしそうに目をそらすわけでもなく。

 困ったように笑うわけでもなく。

 ただ、まっすぐに。

 まるで、あたしの心の奥を、そっとのぞき込むようなまなざしで。


「――先輩……?」


 濡れたまつげが、かすかに震える。

 小さく開いた唇は、何かを言いかけて、けれど言葉にならない。

 首筋のあたりまで、ほんのりと紅く染まっていて。

 視線はわずかに揺れていた。

 それでも、決して視線を逸らさない。


 ずっと――あたしだけを見ている。


 こんなふうに、真剣に。

 誰よりも強く、まっすぐに。

 “あたし”を見つめてくれる、九条あまね先輩を――。

 今日まで、知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ