8-1 ひどいことをされても、ずっと好きです。でもそれは、平気って意味じゃないです。
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真っ黒な雲が、空をぬるりと覆っている。
放課後。部活の最中。
トラックで部員たちの掛け声が飛び交っているのに、どこか音が抜けたように静かだった。
車の通過音や、鳥の鳴き声が、妙にくっきりと耳に届く。
空気が、ぴしりと張りつめる。
次の瞬間。
バケツをひっくり返したような雨が、世界を叩きつける。
「ひなたーっ! 避難だよぉっ!」
れなこの声が、背中から追ってくる。
陸上部の皆が一斉に部室へ駆け込む。
でももう、遅かった。
ユニフォームは肌に張りついて、スパイクの中はすでに池。
前髪が顔にびたっと貼りついて、視界ゼロ。
全身、ずぶ濡れ。
もうコント。コントです。はは。
「ひなた〜っ、大丈夫!?」
「……この後のスケジュール、教えて」
「へっ?」
「トレーニングの。マネージャー、お願い」
「……あっ、えっとね。ひなたは今日、猛ペースでメニューをこなしたから……。うん、クールダウンだけだよぉ」
ロッカーから家の鍵だけを取り出して、ぎゅっと握る。
「ありがと。じゃあ、家でやってくる。お湯で体温めたいし」
重たい足取りで、部室の扉に手をかける。
開けた瞬間、顔面に容赦のない雨が叩きつけてきた。
「えっ、ちょっ……! 無茶はダメだよっ! まだ待ってたほうがいいよぉ~! 風が強くて、危ないよぉ……?」
「……別にいい」
「そんなぁ。帰る途中で、体冷えちゃうよぉ……っ」
れなこが追いかけてくる。
……息を吸って、吐く。
口の中に、雨粒が一粒――いや、もう、何粒も。
しょっぱくて、泥みたいな味がした。
「……気をつけて帰ってね、れなこ」
「ひなたっ!?」
まるで世界中が、今のあたしの気分に合わせて、最悪を更新してくるみたい。
扉を閉める。
水を蹴って走り出す。
冷たくて、重くて、容赦がなくて。
頬を、唇を、まぶたを打って、心の奥まで濡らしてくる。
何もかもが、あたしをぐしゃぐしゃにする。
たとえ靴の中がぐしょ濡れになっても。
視界が前髪で埋もれても。
濡れても、転んでも、すりむいても。
たとえ意味なんてなくても。
この雨の中を走ることだけが。
今のあたしにできる、唯一の祈りだった。
――九条先輩が、あたしに何も言わず、いなくなった。
それがまだ実感できなくても、ああ事実なんだと認めるしかなかったのは。
職員室前の掲示板に貼られた、一枚の紙を見たときだ。
"第二校舎 老朽化により立ち入り禁止"
淡々とした文言なのに、世界が崩れる音がしたのを、覚えている。
先輩と最後に顔を合わせたのは、“天むす探偵団”を預かったあの日から、ほんの数日後。
5月の第4金曜日。
第二校舎が封鎖されたのは、5月の最終月曜日。
たった週末ひとつ、間に挟んだだけなのに。
気づけば、ふたつの月をまたいで、もう3週間も、先輩と会っていない。
あれが……本当に最後だったの?
「――ばかっ。ばか! 九条先輩のばかぁ……っ!」
――何で?
あたし、何か、した?
"柳庵"のこと、誘わなかったから?
笑ってくれた、優しい顔。
あれは全部――あたしの勘違いだったの?
先輩の教室に行っても、いない。
そのクラスの上級生に尋ねても、"どこにいるか知ってる?"って、逆に聞かれた。
先生に聞いても、曖昧な顔で誤魔化されるだけ。
何度も、何度も探した。
登校するたび、校舎を駆け回った。
……旧図書室。
閉鎖されるその日まで、先輩とあたしの“居場所”だった場所。
部活が終われば、荷物も持たず、まっすぐに――ただ、そこへ。
いけないことだってわかりつつ。
鍵の壊れた扉から侵入して。
欠かさずに、閉校時間まで待った。
でも今日は。
今日だけは、先輩を待たなかった。
「……九条あまねの、ばかぁ……っ!!」
……いや、違う。
今も、この街のどこかにいるって信じて、駆け回る、あたしってほんとにばか。
いるわけないのに。
信じて、祈って、足が止まらない。
そもそも、こんな土砂降りでは外に出ない。
ひとこと、連絡をくれたら、それだけでよかった。
でも叶わない。
だって、連絡先なんて交換していない。
――あたし。
先輩が好きです。
たとえ、ひどいことをされても。
どれだけ傷つけられても、きっと好きなままでいると思います。
でもそれは、ひどいことをされても、平気って意味じゃないです。
魂が裂かれるくらい辛いことです。
目の前が灰色に溶ける。
音も色も、雨に押し流されていく。
泣いてなんか、いない。
ただ濡れているだけ。全部、雨のせい。
……体が動かなくなってきた。
関節がきしんで、筋肉が強ばって、足が前に出ない。
冷えが皮膚の奥まで染みる。
心まで凍えていく。
左手首に、右手を当てた。
脈が遅い。
「……あまね先輩」
家までの道も、わからない。
いや、それ以前に、ここがどこなのかさえも。
足を引きずるようにして、雨宿りできそうな場所を探す。
ふと曲がった路地の奥。
小さな神社が、ひっそりと息を潜めていた。
苔むした石段。木の鳥居。
雨に濡れたその軒先だけが、時の流れから切り離されたように、そこにあった。
その雨の帳の、向こう。
神社の軒先に、ひとりの人影。
濡れ羽色の、湿った長髪。制服の裾から滴る水。
まるで彫像のように動かず、ただそこに、静かに佇んでいる。
全身の血が逆流して、何もかもが止まった気がした。
その姿を見つけただけで、心の中の全部が崩れそうになる。
「あまね、先輩……」
名前を呼んだ瞬間。
その人影が、ゆっくりと、こちらを振り向いた。
そして――ほんの小さく、うなずいた。
まるで、旧図書室でいつも交わしていた、あの合図のように。
――九条あまね先輩。
水音だけが、あたしたちの間に残された。