7-3 “楽しみにしてる”の一言で人は簡単に爆発する(心が)
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放課後の旧図書室。
今日も九条先輩は、そこにいた。
窓から差し込む柔らかな夕日が、黒髪をさらりと照らして――まるで神様のいたずら。
何度見ても、ため息が出るくらい綺麗で、胸がきゅっと締めつけられる。
そのたびに、あたしの心拍数は、800メートル走のラスト50メートルを軽く超える。
緊張する。……いける?
うん、いける。
「……せんぱ~~いっ!」
駆け寄るあたしに、先輩はちらりと目を向けて、いつものように静かにうなずいた。
「先輩! たまごサンド探偵、ありがとうございましたっ!」
頭を下げる。
胸に抱えていた、先輩の”マイたまごサンド本”をお返しする。
本を返すってだけなのに。
心臓がどうにかなりそうなのは、何でかな。
「うん。もう読んだの?」
「“黄身には、意思がある”ってところ、めっちゃめちゃ良かったです!」
児童文学って、……ちょっと甘く見ていた。
文字が大きくて読みやすい。
言葉はシンプルなのに、ちゃんと胸に響く。
あたしも、ちゃんと“読む側”になれた気がして、ちょっとだけ誇らしい。
「……でしょ」
先輩が、ほんの少しだけ口元を緩めた。
(……わ、わ……。今日も、いただきました……っっ!)
可愛さ、犯罪級……!
心の中で、鳴り止まない拍手。無限スタンディングオベーション。
「……あのっ、じゃあ今日は、あたしのターンです!」
緊張で、手が少し汗ばむ。
それでも、カバンからそっと取り出した。
《風が強く吹いている》。みかげに借りた、大切な一冊。
「これ……」
胸にぎゅっと抱きしめて、深呼吸して、目を閉じる。
そして、差し出す。
「あたしの、オススメですっ!」
先輩は無言で本を受け取り、ページを丁寧にめくる。
その指先のしなやかさが、美しすぎるから、かな。
何でだろう――胃がキリキリしてきた。
「……”走るの、好きか?”。これ、陸上の物語?」
「はいっ、箱根駅伝の小説です! ……6区が、すっごく良くて……!」
箱根駅伝の6区は、山下り。
崖みたいな急坂を、全力で駆け降りていく。
普通に走ったら危ないくらいの角度なのに――むしろ、それを使って加速する。
景色が全部、一瞬で過ぎ去る。風に巻かれて溶けていく。
聞こえるのは、風を裂く音だけ。世界が、速さだけでできているみたいで――。
作中の6区の走者、ユキって人が言う。
”走、おまえはずいぶん、さびしい場所にいるんだね。”って。
ものすごく速く走る、アスリートの世界を、山の力を借りて体感する。
速くて、美しくて、でも――孤独で。
苛酷で、どこか壊れそうな世界。
でも、それでも“走りたい”って思う気持ち、ちょっとだけ、わかる気がして……。
「……あたし、この小説を読んで。ひょっとしてこれって、あたしのための物語? って思ったんです。だから……」
トラックと、空と、一体になって――自分が、速さのなかに溶けていく感覚。
苦しくて、怖くても、前に進んじゃう気持ち。
本当に、ほんの少しだけ、わかる気がしたから。
(……ああ、もうっ、うまく言えない!)
ぐっと拳を握って、真正面から気持ちをぶつける。
「……読んでくださいっっ!! そしたら、わかりますから!」
先輩は、本を静かに閉じた。
表紙をそっと指先でなぞりながら、言った。
「……わたし、走るの苦手」
「あ……」
「だけど、すごく楽しみ。大事に読むね」
――はい、優勝。
先輩の笑顔に、金メダル贈呈。
心の中で、トンテンカンと表彰台を組み立てる。当然、先輩が表彰台の一番上。
表彰式を開催します。あたしが金メダルをかけてあげたい! ていうか胴上げしたい!!
「飛鳥ちゃん?」
「……はい。無事です」
無事じゃない。ぜんっぜん無事じゃない。
でも先輩が読んでくれるなら、それだけで最高だ。
だって。
もし、先輩がこの本を読んで、心を揺らしてくれたら。
あたしが感じた感動を、先輩も感じてくれたら――。
その瞬間、あたしと先輩は、言葉じゃなくて、きっと気持ちでつながる。
「……あ」
「……どうしたの、飛鳥ちゃん?」
「あ! いえ。解けなかった問題が、今、わかった気がして……」
それはきっと、先輩や、みかげが。
本を貸してくれたときに思っていたことと、同じだったのかな。
先輩がカバンに、《風が強く吹いている》を大事にしまった。
それから、もう一冊を取り出した。
「……読んでみる?」
先輩が差し出しくれたのは、次の一冊。
“爆誕! 天むす探偵団・名古屋グルメ連続事件&しゃちほこ通りの罠”だった。




