1-1 「九条先輩」って、心の中で何百回も呼んでいるくせに。
九条 あまね先輩は、まるで彫刻みたいだ。
透き通るように真っ白で、ひとつのしみもない肌。
どんな日焼け止めを使っているんだろう。あたしだってスキンケアをしているのに、髪の分け目まで小麦色だ。
さらさらで艶やかな、濡れ羽色の黒髪。
男子よりも背が高くて、姿勢もしゃんとしている。
目鼻立ちも、唇のかたちも整いすぎていて、とても同じ中学生だって思えない。
廊下ですれ違った、ほんの一瞬。
それだけで心臓がどきっと跳ねた。
ふわっと鼻先に残るのは、冷たい朝の空気みたいな、すっと澄んだ香り。
その場で立ち止まって、見上げた。
先輩は――いつも、どこかつまらなさそうな顔をしている。
感情の読めない、無表情な横顔。
しゃらんと揺れる長髪。
遠ざかっていく背中。
やがて廊下の角を曲がって、見えなくなった。
今日も、ただ見送ることしかできなかった。
……先輩の笑顔を、見たことがある人っているのかな。
たとえば、家族とか。
彼氏、とか。
あたしは、きっと一生縁がないんだろうな。
だってあたしは陸上部。先輩は、たぶん部活に入っていない。
教室も違う。先輩を呼んだことなんて、一度もない。
先輩とあたしは――何の接点もない。
だから。
今ここで先輩を追いかけたところで、何がどうなるっていうの。
「……おーいっ、みんな、待ってよっ! 何で先に行くのさっ!」
「いやいや、ひなたが勝手に止まってたんだろ?」
先輩の姿が消えた廊下の角を背にして。
移動教室へ向かっていたクラスメイトたちに駆け寄り、背後に合流する。
「ひなたってば、すっごく鼻の下伸ばしてたねぇ~……っ!」
「……の、伸ばしてないしっ」
「いやいや、あれは完全に憧れモードだったって~♪」
「あー。あの人、九条さんだろ? やめとけって。有名じゃん、無口で無表情って」
「……無口なことが、どうしてやめとけの理由になるのさ」
「えっ!? なになに!? ちょっと今の反応、怪しすぎじゃない~っ!?」
「ああっ、もう、うるさいなぁっ! 減らず口はこーしてやるっ!」
前を歩いていたクラスメイトたちに勢いよくぶつかって、ぎゅっと抱きつく。
「ちょっとぉ、ひなた~! くすぐったいってぇ~!」
「おいっ、こんなところで抱きつくなって! ばかたれっ!」
「いひひっ、どうだまいったかっ! まいったって言え〜!」
「まいった、まいったよぉ~」
「廊下でやるなっつーの、ったく……」
移動教室での授業が終わり、教室に戻る。
クラスメイトたちの笑い声が響く。その輪の中にちゃんとあたしの居場所がある。
――でも。
心はまだ、あの廊下の角を見つめたままだ。
「九条先輩」って、心の中で何百回も呼んでいるくせに。
声に出せたことなんて、一度もない。