7話 幸せの在処
「……遅い」
鍋が煮える頃になっても、夏希は帰ってこない。ゆっくり歩いてきても、仮に話が弾んでも、もうとっくに帰ってきていい頃合いだ。
ルーを入れるタイミングはとっくに逃してしまって、鍋の中で具材が崩れていく。
迎えに行くべきか、待つべきか。最悪なのは迎えに行ってすれ違うことだ。夏希は携帯を持っていないし、家の鍵を開けておくわけにもいかない。
時計を何度睨んでも、時間が進んでいくだけだ。外を見るたびに暗くなっていく。
六時を回ったところで、限界が来た。
ガスコンロの火を消して、靴を履いて飛び出す。左右を見ても、まだ夏希は帰ってこない。家の中から紙とペンを持ってきて、『帰ってきたら、モチ太の家に行って』と書いてドアに貼る。
アキちゃんの家は、迎えに行ったことがあるから知っている。歩いて五分。走ればずっと短い。夏希と歩いた道を通っても、見慣れた影はどこにもない。
「夏希、夏希!」
声を上げても、返って来るのは虫の声だけだ。
アキちゃんの家に着いた。インターホンを押して、上がった息を整える。
応答したのは、お母さんだった。
「はーい」
「夜分にすみません。物部です」
「あら物部さん。どうしたの」
「夏希は来てませんか」
「夏希ちゃん? さあ、うちには来ていないけど」
「……っ」
嘘だった。やっぱりという思いと、どうしてという混乱が湧き上がってくる。
「どうかしたの? 大丈夫?」
「まだ帰ってきてなくて……。とりあえず、行きそうなところを当たってみます。あの、夏希が来たら電話してもらっていいですか」
「もちろんそうするけど、警察に電話しましょうか?」
「見つからなかったらそうします。失礼します」
アキちゃんのお母さんとは、保護者同士ということで連絡先を交換している。だから、夏希がここに来ればすぐにわかるはずだ。
他に夏希が行く場所は――
スマホを取り出して、モチ太に電話を掛ける。
「モチ太。そっちに夏希いないか」
「夏希氏? どしたん、そんなに慌てて」
「夏希が帰ってこない」
「なんと⁉」
ドタバタと音がして、次に聞こえた声はすでに息が上がっている。
「僕はどこを探せばいいんだい?」
「俺もわからないんだ。まだこの町のこと、全然知らないから」
「じゃあ結斗氏はしらみ潰しに走って。僕は小学校に行ってみる」
「わかった」
どうせ行く当てもない。俺はこの町に来てからずっと、家と学校、スーパーしか行っていなかったから。夏希の方が、もうずっといろんな場所を知っている。
電話を切って、また走り出す。とりあえず、モチ太の家に行くまでの道を。当然のように夏希はいなくて、そこからは手当たり次第に行くしかなかった。細い路地も、暗い道も目を懲らして走る。
「夏希! 夏希ー!」
何度も呼ぶ。何も帰ってこなくても、声を上げる。
息が切れて、脚が痛くなって、ふらついて倒れそうになる。でも、まだ夏希は見つかっていない。
「俺が……俺が、……目を離したから……」
ちゃんと着いていけばよかった。明るいからって油断した。あの時の自分の判断が許せない。やり直したい。
それよりも、俺が――
幸せだと、嘘をつけていたら。
ただそれだけで、夏希はまだここにいたはずなのに。
額から汗が落ちて、アスファルトに染みを作った。その光景が目に入って、自分が立ち止まっていることに気がついた。乾いた口の水分を集めて、唾液を飲み込む。喉が痛む。
「物部!」
「結斗氏!」
聞き覚えのある声がして、後ろから足音が二つ近づいてくる。
「……夏希は?」
手を膝について聞く。もう見つかったという言葉を期待して。
近づいてくる二人の顔を見て、すぐにそうではないと察していたけれど。
「どこにもいないの。警察にはもう言ったから」
「そっか。……ありがとう」
警察。すっかり忘れていた。
大人たちが探してくれている。だからちょっとは安心していいはずだ。
なのに、夏希は見つからない気がする。
大きい町ではないはずだ。行く場所は限られている。そのはずなのに、どこにもいないような気がして。
太陽みたいに笑っているあの子が、いなくなるときはこんなふうに、呆気ない気がして。
不安が、消えない。
「どこ行ったんだよ……夏希……」
しゃがんで、手を組んで、天を仰ぐ。祈るなんてバカみたいだ。でも、他になにができる? 俺はあまりにも無力だ。
途方に暮れて、有原も空を仰ぐ。
「こんなの、神隠しみたい」
「……冬花氏、今なんと」
反応したのはモチ太だ。虚を突かれたような声で、驚きに満ちた目で有原を見ている。
「だから、神隠しみたいって。こんなふうに消えちゃうなんて」
「それだ! 結斗氏、まだ走れるかい。いや、走ってくれ!」
思い当たる場所があるらしい。モチ太は大きな腕で俺を引っ張り上げた。パワー系デブを自称するだけあって、軽々と持ち上げられる。
「どこに行けばいい?」
モチ太は近くの山を指さした。
「この細道をまっすぐ行くと、山の入り口に鳥居がある。そこをひたすら登って」
「山……?」
「僕を信じるんだ。違ったら、殴っても構わない!」
肩を掴んできたモチ太が、必死の形相で言う。
嘘じゃない。なにかしらの確信があってそう言っている。
「私も行く。いいでしょ、物部」
「着いてこれるのか?」
「田舎育ち舐めんな」
睨むように、けれどそれとは少し違う強さで俺を見つめてくる。
有原は不思議な人だ。ツンと尖っているのに、そのトゲは俺の心をすれすれで避けていく。当たってはいけない場所を知っているかのように、なにも傷つけない。だから、信じてみようと思える。
「わかった。モチ太は下で待ってるんだな」
「僕が行ったら遭難間違いなし。自分の分はわきまえているつもりなのさ」
田舎育ちにもいろいろあるらしい。
スマホのライトを点けて、俺と有原は走り出した。
木の枠が設けられただけの階段を駆け上がる。木々は星の光すらも覆い隠して、山の中は真っ暗だ。この中に夏希が入っていったと思うと、不安で走る脚に力がこもる。
「どうして夏希ちゃんは出ていったの?」
走りながら、有原が尋ねてくる。それは体力が減るよりもずっと、大事なことだ。
「……俺が、嘘をつけなかったから」
「え?」
「俺が、くだらない嘘をつけなかったから。どうでもいいことを、深刻そうに答えたから――だから、夏希は笑えなくなったんだ」
我ながら意味不明だ。こんな説明で伝わるはずがない。
有原は怒るだろうか。理解不能と流すだろうか。
「……それは……物部にとっては、大事なことだったんでしょ? だから、ダメだよ。嘘ついちゃ。嘘をつけないことに、頑張って嘘ついたら……戻れなくなっちゃうから」
なにかが背中に触れた。有原の手だ。
「先行って。ちょっと、思ったより走れない」
「大丈夫か」
「いいから!」
背中を押された。
振り返ったら怒られそうな気がして、思いっきり加速する。重たい体を引き上げて、この道の終点へ向かう。
木々の奥に、光が見えた。
それは空から降り注ぐ月光。鬱蒼と生い茂る木々が、そこだけ生えていない。切り取られたような空間は、青白い光で満たされていた。
池があった。泳いだら簡単に反対側に行けそうな、小さな池だ。
水面は凪いで、鏡のように透き通っている。
息を呑むほど美しい光景の、その真ん中に。
彼女はいた。
池の縁で膝をついて座っている。肩より少し下まで伸びた髪と、小さいけれどちゃんとした背中。
「夏希!」
駆け寄って、背中に声を掛ける。
振り返った少女は、ぱっちりした大きな目。よく笑うから、綺麗な輪郭の頬。誰より可愛い、俺が守らなくちゃいけない女の子。
「ユイくん……⁉」
手を伸ばして、肩を掴む。夏希がぶるっと震えた。
「ユイくん、怒ってる?」
「怒ってないよ」
首を横に振って、できるだけ自然に微笑んでみる。俺は愛想が悪い。だからよく誤解される。でも、下手くそだけど、今だけは伝わってほしい。
「夏希。怪我はない?」
「……うん」
「怖いことはなかった?」
「……うん」
「お腹空いただろ」
「……うん。お腹、空いた……ぁ」
大粒の涙が浮かんできて、嗚咽と一緒に零れた。
頭を撫でると、ぽろぽろと大粒の滴が溢れる。ぐちゃぐちゃになった目と、口で、それでも夏希は言葉を絞り出す。
「ごめんなさい。……ユイくん、ごめんなさい」
「なにがごめんなさいなの?」
「あのね、ユイくんが幸せじゃないのは……ナツがわがまま言っちゃうからなの。ナツが悪い子だから、だから、うたかた様にお願いに来たの」
やっぱりだ。
やっぱり、この子は俺のせいでいなくなった。俺のためにこんなところまで来た。
その事実の尊さに、胸が苦しくなる。心の奥から、言葉を絞り出す。
「……夏希はいい子だよ」
頭を撫でていた手を背中に回して、そっと抱き寄せる。
「わがままなんて言ってない。悪い子なんかじゃない」
「でも……じゃあ、ユイくんは」
「俺は……俺はね……」
自分が通ってきた道を、どうやったらこの子に伝えられるだろう。傷つけたくない。でも、誤解させたくない。
少し離れて、夏希の目を見る。嘘じゃないとわかってもらう方法は、これしか知らない。
「辛いことがたくさんあったんだ。だから、幸せがなにかわからないんだ」
両親が自分の幸福を求めて、俺は家という居場所を失った。転校して、一人暮らしを始めなければならないくらい、完膚なきまでに孤立した。
だけど、それを全部言うわけにはいかない。そんな現実は、夏希に知ってほしくない。
サンタさんはいる。流れ星は願いを叶えてくれる。神様はちゃんと見てる。
強がってでも、彼女の世界に溢れる輝きを守ってあげたい。
「俺は幸せがわからない。でもね、夏希がいないのは嫌だよ。だから帰ってきて。一緒にカレー食べよう」
「ユイくんのカレー?」
「うん。そうだよ」
「……食べる!」
夏希のお腹が、くぅ、と可愛らしく鳴った。
俺のお腹も、ぐぅ、と愛想無く鳴った。
「ご飯は二人で食べるって、約束だもんな」
◇
疲れ果てた夏希は眠ってしまって、俺はおんぶして山を下りなくてはならなかった。小学生にもなればちゃんと重たくて、疲れた体には堪える。
それでも、この重さは俺が背負わなくちゃいけない重さだ。
ゆっくりと歩く足下を、追いついてきた有原が照らしてくれる。
「物部は初めてうたかた様のところに行ったんでしょ。どうだった?」
「うたかた様?」
そういえば、モチ太も夏希もそんなことを言っていた気がする。夏希のことで頭がいっぱいで、よく覚えていなかったけど。
「綺麗な池の真ん中に、陸と不思議な岩があったでしょ」
「……岩、ああ。なんか、言われてみれば。ぼんやりと」
池の真ん中。夏希の向こう側に、黒っぽいシルエットがあった気がする。
「でも、ただの岩なんだろ」
子供たちの間で、願いが叶うおまじないが流行る。そんなのは、どこでもあることだ。こっくりさんなら俺が小学生の頃も有名だった。
有原がどんな顔をしたか、暗闇のせいでわからなかった。
「そうだね」
どこか呆れたようなその声の意味も、まるで掴めない。
あの岩に、なにかあるのだろうか。まあ、いいか。今日なにもなかった。それが一番大事だ。
「俺からも質問なんだけどさ。有原って、幸せだって思うか?」
「幸せ?」
「夏希に聞かれたんだ。俺は上手く答えられなかった」
沈黙が落ちて、有原がスマホを持ち上げた。ライトは点けたまま。
「おい、まぶしいって」
悪戯っぽく、有原は笑った。
「私はよく分からないけど、今の物部は幸せそうなんじゃない?」
ここまで読んで、面白いと思っていただけたらブックマーク、★での評価をよろしくお願いします!