6話 ユイくんは?
料理の練習をしよう。
有原の豚汁を食べて喜ぶ夏希を見て、そう決めた。
初日の朝に目玉焼きに挑戦。見るからに簡単そうなこの料理はしかし、上の方に火が通らず下が焦げてしまった。
「ユイくん、お醤油かけたら美味しいよ!」
「それは醤油が美味いだけ……」
夜には同じ卵料理ということで、オムライスに挑戦した。レシピをちゃんと調べて、材料も買ってきた。
結果、包もうとした卵が見事に粉砕した。
「ケチャップチャーハン? 美味しいね」
「オムライス……」
連絡先を交換した有原に惨状を報告し、アドバイスを受ける。
『目玉焼きは水掛けて蓋するの。蒸し焼きにしたら上手くいく』
『オムライスは練習。失敗は当たり前なんだから、落ち込むなー』
次の日の朝も早めに起きて、台所に立った。有原のアドバイス通りに目玉焼きを作ってみる。蓋で中が心配だから、十秒おきに確認して。
できた目玉焼きは、黄身が半熟の絶品だった。
「ユイくんすごい! 天才!」
「これ、美味いなぁ……」
目を輝かせて手を叩く夏希を見たら、有原に感じていた悔しさが少し和らいだ。
その日の夕方、二人でスーパーに行った。夏希に食べたいものを聞いて、ハンバーグを作ることにした。レシピを調べて、有原にアドバイスを求めて、一緒に肉をこねた。
そうやって俺は、料理をするようになった。
◇
共通の話題ができたことで、俺とモチ太、有原の三人はよく話すようになった。
教室での有原は相変わらず鉄壁モードで、誰も近づけず読書をしている。だがバスに乗ると、俺たちのところに来る。モチ太が椅子を二つ分使うので、彼女の席は俺の隣だ。
今日も有原が最後にやってきて、俺の横に座る。後ろのモチ太が話し始める。
「あの無気力だった結斗氏が自炊をしているとの事実に、僕は驚きを隠せないのさ」
「夏希ちゃんがいるんだから、当然でしょ」
有原の言葉に頷いておく。反応しないと、無視していると思われるので。
料理は今のところ、ちゃんと続けている。ただ、改善点は多い。
ハンバーグは大成功だったが、相変わらずオムライスは失敗する。魚を焼いてみたら、部屋が魚臭くなって大変だった。
楽じゃないし、面倒だ。だけど今、当たり前のように今晩なにを食べようか考えている。
それだけでも、成長と呼んでいいのだろう。
有原は一週間分の献立を考えると買い物が楽。と言っていたが、普通に難易度が高すぎてできそうにない。作れるかわからない料理で献立を作るの、あまりにも無責任だし。
「して結斗氏、今日はなにを作る予定なんだい」
「夏希が食べたいって言ってたし、カレーにしようかな」
「カレーは晩ご飯には足りないのでは?」
「人類にとっては食い物だから」
モチ太にとっては飲み物なのかもしれないけど。
このモチモチボディだと、どれくらいカレー食うんだろう。米が五合あっても全滅しそうな気がする。
「なんか、いっつも夏希ちゃんに作る物決めてもらってない? 物部は自分が食べたいものとかないの?」
「ない」
有原からの問いに、迷わず首を横に振る。自分で食べたいものがないから、夏希に意見を聞いているのだ。
「即答なんだ」
「なに食っても結局同じだし。俺はなんでもいい」
「本気で言ってる?」
「たぶん」
「じゃあ、物部は夏希ちゃんがいなかったら料理はしないの?」
「うん」
「……」
有原は言葉を失っていた。モチ太でさえ黙っている。
なにかまずいことを言ってしまったらしい。撤回すべきだろうか。冗談だってはぐらかすか? 面倒だ。
「ごめん。疲れたから寝る」
窓に寄りかかって、目を閉じた。
六限の体育は水泳だったから、疲れているのは本当だった。
◇
俺もたまに、夢を見る。
美味いものを食べて、楽しいことをしている夢だ。なにを食べているのか、なにをして遊んでいるのかはわからない。ただ、誰もが幸せそうにしている。
その輪の中に、俺はいない。
ぼんやり立って、離れたところでそれを見ている。
夢が覚めたときに、ふと思い出すのは両親の言葉だ。
――お母さんね、新しい幸せを見つけたの。
――父さんにも、父さんの幸せがあるんだ。
遠ざかって行く背中。幸せという言葉は、いつも俺を含まない。
こんな夢を夏希に聞かせたいとは、思わなかった。
◇
カレーの作り方は、だいたい豚汁と同じだ。具材を切って炒めて、水を入れて沸騰したら市販のルーを入れる。夏野菜を入れると美味しいらしいが、最初は普通のカレーを作ることにした。なにごとも基本は大切だからね。
スーパーに二人で行って、帰り道を並んで歩く。左手にマイバッグを持って、右手は夏希と手を繋ぐ。
「カレー、カレー、ユイくんのカレー」
鼻歌を歌いながら、夏希は軽快に歩く。今日はずいぶんとご機嫌で、歩くペースも速い。俺がやや引っ張られ気味だ。
よほどカレーが好きらしい。これなら毎日カレーでもいいかもしれない。
なんて考えていたら、頭の中で有原が「それじゃ栄養が偏る」と苦言を呈してきた。
カレーって栄養が偏ったりするのだろうか。ぶっちゃけどんな材料でもそれなりに合いそうだし、頑張ればそれだけで生活できそうではある。飽きる飽きないは別として。
夏希がちらちらとこっちを見てくる。話しかけてほしいのだろうか。
「いいことあった?」
「うん。これはユイくんにとっても、いいことなんだよ」
「俺にとっても?」
「明日で学校終わりでしょ」
「……そういえば。そっか」
「嬉しい?」
「そうだね。学校がないのはいいことだ」
この間の朝のことを覚えていたらしい。確かに、夏休みは学校がないから嬉しい。適当に過ごしているから、明日が終業式だということも意識していなかった。学校から持ち帰ってくる物は、なにかあっただろうか。
「夏休みはいっぱい遊ぼうね!」
「そうだね」
どうせ実家に帰る予定もない。時間ならいくらでもある。
「川遊びして、虫取りして、絵日記も書いて、えっとね……あとは、夏祭りにも行ってね……」
次々と楽しいアイデアが出てくる夏希を、静かに見守る。彼女の目に映る世界は、宝石箱みたいに輝いているのだろう。その色を分けてもらうみたいに、俺は夏希の隣を歩いている。
少女の言葉が、スイカ割りで止まった。
夏希はお腹いっぱいに満たされたときみたいに、ふにゃっと笑う。
「ナツ、すっごく幸せ」
綿毛みたいに言葉は揺蕩って、蕩けそうな瞳が俺を捉える。
「ユイくんは、幸せ?」
「俺は幸せじゃないけど、夏希が幸せなら平気だよ」
「え――」
何の気もなく口をついて出た言葉が、夏希の表情を凍り付かせた。
いつだって笑顔を絶やさなかった少女が、初めて激しい困惑を見せて、しまったと思う。間違えた。言うべきでないことを口にしてしまった。
「ああいや、えっと……そう。毎日楽しいし、夏希が来てくれて嬉しいし。だから別に、幸せとかはどうでもいいんだ」
違う。そうじゃない。
幸せだ。ただ一言そう言えば済む話だ。なのに、それができない。
家が近づいてくる。あの中に入れば、少しはマシになる気がした。夏希と手を離して、料理に集中すれば楽だ。
そんなことを考えてしまう自分が嫌になる。
「あのね、ユイくん。ちょっとナツ、忘れ物しちゃったの」
「どこに?」
「アキちゃんち。ほら、すぐ近くのお家に住んでる」
「じゃあ、寄ってから帰ろうか」
「ううん。すぐだから、一人で行けるよ。ユイくんは先におうち行ってて」
外はまだまだ明るい。アキちゃんという子も知っている。その子の家は、うちのアパートから五分あれば着くところにある。
「じゃあ、気をつけてね。早く帰って来るんだよ」
「はーい」
夏希は走って、すぐに見えなくなった。悪い空気が断ち切られたことに安堵して、ため息が出てしまう。
帰ってきたら、なんでもないような笑顔で迎えよう。