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32話 不正解、無力、されどこの日々を

 大きな手がマグカップを差し出してくる。受け取ると、温もりが手の平に伝わってくる。長いため息をついて、ゆっくりと顔を上げた。


「結斗氏、少し落ち着いたかい」

「……ごめん」


「構わないのさ」


 ここはモチ太の部屋で、夏希はいない。気が動転して夏希にしがみつく俺を、モチ太が引き離したからだ。一発、頭に重いのをもらった。それで正気を取り戻せた。


「あんなふうに動揺する君は見たことがないから、僕も慌ててしまった。加減できなくてすまない」

「いいよ。っていうか、ありがとな」


「突き飛ばされて感謝とは、結斗氏は器が大きいなあ……」


 モチ太はどうにか茶化そうとして、途中で黙り込んだ。


「冬花氏から連絡が来てる。きっと君のところにも」

「……有原には会えない」


「承知したよ。では僕の方で連絡しておこう」


 スマホを開くことすら怖かったから、モチ太がやってくれるのは助かった。今はなにも見たくない。知りたくない。聞かれたくない。思い出したくない。考えたくない。


 目を閉じると、石に刻まれた『有原 夏希』の文字が蘇る。目を開けると、ここに夏希がいなくて不安になる。


「結斗氏。君になにがあったんだい。もしかして、例のドッペルゲンガーが干渉してきたとか」

「違う。そうじゃない」


 不思議なことなんてなにもなかった。ただ、当たり前のようにそこにあったものが目に入ってしまった。今までずっと目を逸らしてきたことが繋がって、線になってしまった。


 都合のいい妄想をしよう。有原の妹と、夏希はたまたま名前が一緒だっただけ。実は夏希は俺の親戚の子で、夏休みだから預けられている。そうだ。俺はこの目で、うたかた様とやらの奇跡を見たわけじゃない。ただ一度だけドッペルゲンガーに出会って、導かれるように学校から遠い宇多方村に住むことになって、たまたま夏希と同じ名前の妹を持つ有原と仲良くなっただけ。


 ただ、それだけじゃないか。

 宝くじの一等賞が存在するなら、その程度の奇跡はあったっていいじゃないか。なにもおかしくない。


 夏希が有原を「お姉ちゃん」と呼ぶのも、夏希がうたかた様の元へお願いしに走ったのも、夏希がいつか来る別れを悟っているようなのも。全部、勘違いに決まっている。モチ太の体験だって、記憶が混濁しているだけだ。


 奇跡なんかない。それでいい。それがいい。


「結斗氏は――」


 重たい息を吐いて、モチ太が表情を曇らせる。


「なにかを知ってしまったんだね。夏希氏のことについて」

「……」


 否定しなければ、モチ太は正解にたどり着いてしまうかもしれない。だけどもう、どうやって誤魔化せばいいかわからなかった。なにかを言わなくてはならない。その意思だけに引っ張られて、口を開いた。


「嫌なんだ。もう、嫌なんだよ」


 溢れ出したのは、弱音だった。少しの強がりも出てこないくらい、心は擦り切れていた。なにをしていたって涙が出てきそうで、嘘なんかじゃ隠せないくらい、声が掠れてしまう。


「やっと誰かと家族になれたって思えたんだ。一人じゃないって思えたんだ。俺はもう……なくしたくない」


 よりよい一日なんて望まない。平凡な一日でいい。


 朝起きたとき、夜寝るときに大切な人が隣にいる。朝と夜は一緒に食べるのがルールで、絵日記にはコメントをつける。「じゃーん」と言って見せてくれる服を、「可愛いよ」と褒める。一緒にご飯を作って食べる。怪我をしたら心配してくれる。泣いた彼女を抱きしめる。


 なにが平凡だ。この上ないくらいに、特別な日々だ。


 当たり前のようにそこにあった毎日が、どんな宝物よりも輝く一番だった。そんなことに今さら気がついた俺は、救いようのないくらい馬鹿だ。


「……助けてくれ」


 俯くことしかできなかった。真っ暗で、顔なんて見えなかった。だけど俺には、モチ太が笑ったように思えた。


「当然さ。だって僕は、結斗氏の親友だからね」





 俺一人ではどうすることもできなかった。思い出すだけで体が震えて、思考が止まってしまう。神様だって許さない、そんな気持ちは消え失せていた。


 俯くだけの俺に比べて、モチ太は冷静だった。俺から有原と夏希の二人を遠ざけつつ、ソララを部屋に呼んだ。ソララとは会っても問題ないことを――有原と夏希の二人が関係していることを、モチ太は見抜いていた。


「結斗さんが大変って聞いて来たっすけど……」

「やあやあソララ氏。今日はカーペットの上に座る日でね。そこに腰を下ろしてくれるかい」


 部屋の隅でうずくまる俺に合わせて、モチ太は俺の左側であぐらをかいていた。ソララも特になにも言わず、俺の右側に腰を下ろす。挟まれるようにして、二人の視線を受ける。


 いつもと変わらない穏やかなトーンで、モチ太が口を開く。


「いつでも構わない」

「どんなことでも受け止めるっす」


 ソララが来るまでの間に、考えていた。モチ太に助けを求めたことが正しかったのか。ソララに言う必要があるか。二人は友達で、信用している。だからこそ、夏希に対してはこれまで通りに接してほしい。変わらないでいてあげてほしい。


 ……でも、俺は変わってしまった。


 あの子の帰る家で、俺は怯え続けないといけない。ふとした拍子に消えてしまう気がして、この瞬間も不安で潰されそうだ。夜眠ってしまったら、朝にはいないんじゃないか。そんな考えを拭わない限り、眠ることすらできないだろう。


「ソララに話すのは今日が初めてだから。驚くかもしれない。でも、信じてほしい」

「あたし、結斗さんが言うことならなんでも信じるっすよ」


「なんでもは信じるなよ」

「信じるっすよ」


 肌を褐色に焼いた少女は、その透明な瞳を真っ直ぐに向けてくる。体育座りをきちんとして、先生の話を聞くくらい姿勢良く。もう一度「信じるっす」と繰り返した。


「結斗さんは、あたしが辛いときに引っ張ってくれたっすから。尊敬する先輩の言うことは、信じるのが後輩の役目っす」

「……ありがとな」


 ソララは照れくさそうにはにかんだ。流れに乗るように、モチ太が続く。


「結斗氏がいなかったら、ずっと過去のことを引きずって……ソララ氏を傷つけたままだった。誰にも言わなかったことを君は見つけて、引きずり出して、怒ってくれた。だから君が困っているなら、力になりたいのさ」

「ありがとう」


 なにもなくしたくないとワガママを言って、手を伸ばした。ソララの横でバカを演じて、モチ太に思いっきり頭突きした。また五人に戻れる。だけど、それだけじゃなかった。


 ずっと変わらないものなんてない。時間が経つほどに失っていくものがあるように、時間が経つほどに降り積もるものもある。大切だと思うこの気持ちは、大きくなっていくばかりだ。


「俺はずっと、うたかた様がどんな神様で、どれくらい力があるのかを考えてた。でも、そんなことはどうでもよかったんだ。……答えなんて知りたくなかった。夏希がどうしてここにいるのか。知りたかったのは、正解じゃない。夏希がこれからもここにいる。そう信じられる理由がほしかった。安心する材料がほしかった。それだけだったんだ」


 得体の知れない神様なんてどうでもいい。俺にとって大切なのは夏希であって、叶えたい願いなんてないのだから。


 要するに俺は、うたかた様を否定したかった。けれど進むにつれて、奇跡の輪郭は浮き上がってくる。そしてそれは今日、はっきりとした形を描いてしまった。


「夏希は――有原の妹だった。有原夏希。それがあの子の名前だ」

「……で、でも…………」


 ソララがなにかを言おうとして、身を乗り出したまま固まる。彼女も気がついたのだろう。夏希がずっと、有原のことをお姉ちゃんと呼んでいたこと。似ていないようで、あの二人がよく似ていること。

 モチ太は薄々察していたのか、険しい表情で床を見つめている。


「ならどうして、冬花さんは気がつかないんすか? もしかして、二人は会ったことがない、とか……」

「そっか。ソララは知らないんだな。……ごめん。先に言っとくべきだった」


「……」

「有原の家族は、十年前に事故で亡くなってる。そのショックで有原は、当時の記憶を無くしてるらしい」


「え」


 ソララの顔から血の気が引く。


「お墓で見たんだ。夏希の名前を」

「……でも、師匠は生きてるっす。さっきも会ったばっかりで!」


「ソララ氏」

「だっておかしいじゃないっすか! 生きてる人が死んでるなんて! そんなの……」


「ソララ氏! ……僕たちは、信じるって決めただろう」

「嫌っす! 結斗さんのことは尊敬してて、嘘つく人なんて思ってない。でも……でも、嫌っすよ……そんな、そんなこと」


 床に手をついてうなだれるソララに、モチ太がそっと手を伸ばす。


「でも、一番辛いのは結斗氏だ。僕らがそういう態度を取るべきじゃない」

「じゃあモチさんは――」


 顔を上げたソララが、言葉に詰まる。

 モチ太は泣いていなかった。一滴の涙も流さず、瞳を少しも潤ませず。ただ顔を真っ赤にして、唇を強く噛みしめて堪えていた。

 辛くないわけがない。嫌じゃない人なんていない。それでもモチ太は、動じないように耐えていた。


 ソララはぐっと顔に力を入れて、力強く自分の頬を叩いた。バチンッ。乾いた音が響いて、くっきりと跡が残る。


「すみませんでした。あたし、信じるって言ったのに……」

「いいんだ。ソララが言ってたこと、俺も思ったから」


 動揺して、みっともなく騒いで、否定して、ズタボロになった。それが俺だけじゃないとわかって、少し安心してしまった。


「俺さ、どうしたらいいかわからないんだ。夏希はいつか消えてしまうかもしれない。そう思うと、不安でなにも考えられない」

「消えてしまう予兆のようなものは、あったのかい?」


「前はあったかもしれないけど。最近はないよ。家族だっていってからは、ずっと一緒だって夏希も思ってるみたいで」

「なら、それでいいんじゃないのかい」


 優しい声で、モチ太が言う。


「夏希氏がなんであろうと、うたかた様が関わっていようと、結斗氏といるのが彼女の幸せなら。それが正しいことなのさ。いつまで一緒にいられるかなんてわからない。だけどそれは、誰だって同じことだと、僕は思う。だから一日一日を、大切に過ごすんだ」

「いいのかな、それで」


「正しいことではないだろうね。だから、選ぶんだ。君がそうと決めたのなら、責任を負うと決めたのなら、僕は全力で支持する」


 正しいことではない。

 夏希をずっと留めておくことは、間違ったことだ。わかっている。あの子が死者であれ、生者であれ、いつかは俺の元を去らねばならないのだろう。だが、それでも。


「俺は……大馬鹿だ」


 適当に過ごしてきた時間が、無駄にしてきた言葉が、今になって重たくのしかかる。後悔してもしきれない。


「馬鹿じゃない高校生なんていないさ」

「そうっすよ。あたしだって、馬鹿だけどなんとかやってるっす」


 下を向いて取り返せるものなんてない。


「夏希に会いたい。俺はまだ、あの子と一緒にいたいよ」


 未来への不安は消えない。だけど俺には、今がある。


 いつか別れが来るとしても、あの子がここにいたいと言う限り、俺はこの手を放したくない。たとえそれが間違ったことでも。受け容れる覚悟は、とうにできていた。

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