31話 有原――
喫茶店で一時間過ごしても、雨は一向に止まなかった。気持ち弱くなった気はするが、それも誤差の範囲内。雨雲レーダーでも、周辺一帯が青に染まっていた。
「待ってても止まなそうだし、行っちゃおうかな」
「そうするか」
一時間もあれば気分も少しは落ち着いて、比較的いつも通りに振る舞える。それでも、いつも以上に有原の一挙手一投足が気になってしまう。言葉の隅々に込められた意味を、必要以上に想像してしまう。
浮かれるな。これから俺が行くのは、そんな場所じゃないだろ。
言い聞かせると、少しはマシになった。立ち上がって会計を済ませ、外に出る。
「途中でお花買うね」
「うん」
「物部って、お墓参りしたことある?」
「まあ、人並みには」
「私は初めてだから。調べたけど、間違ってたら教えて」
「了解」
お墓のある寺を目指して、淡々と坂道を登る。
途中にあった花屋は、立地もあってお供えの花ばかりが売っていた。有原は時間を掛けて、菊の鮮やかな花束を選んだ。包んだそれを大事そうに抱えて、また歩きだす。
有原の家族は、どんな人たちだったのだろう。そんなことに思いを馳せる。けれどどうやっても、彼女の両親は想像できなかった。厳しかっただろうか。優しかっただろうか。彼女は、大切にされていただろうか。
入り口のところで桶と柄杓を取って、水道の水を汲む。
墓地は山の斜面にあって、至る所に水たまりができていた。有原は周囲を見回しながら、ゆっくりと進んでいく。一つ一つ確かめるように、間違えてしまわないように。
「……あった」
足が止まる。
並んだお墓の中ではまだ新しい、光沢のある墓石。黒く縦に長いそれには、確かに『有原家之墓』と刻まれている。
「綺麗に手入れされてるな」
「叔父さんがやってくれてるんだと思う。前から言ってるけど、すごくいい人だから」
「わかるよ」
今の有原を見ていれば、なんとなく想像がつく。そして想像は、綺麗に保たれたこの場所を見て確信に変わった。
傘から手を出して、有原が言う。
「雨降ってるし、掃除は今日じゃなくていいかな」
「うん。花だけ替えて、あとはお線香焚いてでいいと思うよ」
「じゃあ、物部は見てて。これは私がやらなくちゃいけないことだから」
「傘、持ってるよ」
有原の傘を受け取って、彼女が濡れてしまわないように右手を伸ばす。伸ばした腕と肩は濡れてしまうけれど、別に構わなかった。少女はしゃがんで、萎れた花を取り出す。水を替えて、さっき買った花束を半分にわけて供える。
マッチを取り出したところで、俺もしゃがんだ。雨のせいで湿気って、苦戦しているみたいだ。何度も失敗しながら、気を紛らわすように有原が口を開いた。
「私ね、小さい頃のこと覚えてないんだ」
「それは……精神的なショックみたいな?」
「お医者さんはそう言ってる。自分の心を守るために、忘れて防衛してるって。思い出したら、心が壊れてしまうから」
「だから、ここに来れなかったんだな」
「なにかを思い出すのが怖かったし、思い出せなかったら、なんて言ったらいいかわからないし。そんなことを考えてる間に、十年も経っちゃった」
擦ったマッチに火が点いて、安定する。線香に近づけると、ちゃんと先端が赤くなった。手で扇ぐと、白煙が立ち上った。
有原がなにかを思い出した様子はない。けれど変わらず、真っ直ぐに前を向いている。
「でも今日、やっと来れた。物部のおかげ」
「俺はなにもしてないよ」
「隣にいてくれてるじゃん。それって、誰にでもできることじゃないし……他の誰かに頼めないし」
「……そっか。じゃあ、俺を頼ってくれてありがとう」
「ふふっ。変なの」
小さく笑って、静かに手を合わせる。俺もそれに続いた。
長い長い時間をかけて、有原は彼女の両親と話していた。声には出さずとも、俺にはそれがわかった。十年。一体どれだけのものを、その間に彼女は見てきただろう。伝えたかったことは、どれほど募っていただろう。
雨は止まない。それでいい。こっちの方がきっと、静かに話せるから。
有原が立ち上がった。
「いこっか」
頷いて荷物を持つ。行きと同じように、有原の後に続いて歩きだした。
少し進んだところで、ふと後ろを振り返った。そのこと自体に大した意味はない。散歩の途中に、さっきの景色をもう一度確かめるような。それくらいの軽い気持ちだった。
目に入ったのは、墓石の側面。
そこに刻まれているのは、その墓で眠る人の名前。両親の二人だけだと思っていたそこには、三人の名前があった。
『有原 尚人
玲香
夏希』
時間が止まった。
声すらも出なかった。
口が渇いて、目が痛くなって、手が震える。
降りしきる雨の真ん中で、俺だけが世界から切り離されていた。
何度見ても、そこには『夏希』の名前があった。
ずっと不思議だったことがある。どうして夏希は、俺の元に現れたのか。どうして夏希の親は、彼女のことを探さないのか。
うたかた様が奇跡を起こしたなら、それはどんな奇跡なのだろう?
歯の根が合わない。考えたくない。全部忘れたい。それなのに、頭の中で思考は加速していく。
夏希。有原夏希。
夏希と冬花。
「あ――」
夏希は俺のことを、ユイくんと呼ぶ。
夏希はモチ太のことを、モッチーと呼ぶ。
夏希はソララのことを、ソララちゃんと呼ぶ。
他の三人が名前で呼ばれている中で、たった一人例外がいた。最初からそうだった。
夏希は有原のことを、お姉ちゃんと呼ぶ。
「物部? どうしたの。顔色悪いよ」
「……あ、雨で冷えただけだから」
心配そうな顔をして、有原が近づいてくる。その姿が、おでこが腫れた俺に氷を当ててきた夏希と重なった。
そこから導き出される結論は、たった一つの最悪な解。
「ごめん。俺、帰らないと」
「え――今から帰るんでしょ」
「今すぐ帰らないといけないんだ。ごめん。俺、走って帰るから。ここで」
「急にそんなこと言われても……ねえ、物部!」
呼び止める声を無視して走り出した。桶と柄杓だけ元に戻して、寺を飛び出す。傘を閉じて右手に握って、雨の中を走る。
なにも考えたくなかったから、とにかくスピードを上げた。
「嘘だ」
「嘘だ。嘘だ。嘘だ!」
「だって夏希は……夏希は……」
今日の朝だって、一緒に朝ご飯を食べた。明日の遊園地が楽しみだと言って、元気にしていた。俺が帰ったら、二人でおはぎを作るんだと約束した。これから先も、ずっと一緒にいるって。俺たちは家族なんだって、約束して――
あの子の笑顔だけは、なにがあっても守ると誓ったのに。
「クソっ!」
震える膝を叩く。動かない足を動かす。
夏希は生きてる。夏希は生きてるんだ。そんなこと、俺が一番知ってる。
「生きてるんだ……生きてるんだよ!」
もち屋の看板が見えた。最後の力を振り絞る。裏に回って家の方へ。インターホンを鳴らす。何度も押したいのを堪えて、一度だけ。
生きてる……生きてる……生きてる。
何度も呟く。大丈夫。大丈夫だと言い聞かせる。
「結斗氏?」
「夏希は⁉」
「夏希氏ならすぐ近くに」
「いるんだな! モチ太のすぐ側に、いるんだな!」
「そうともさ。ほら、夏希氏。結斗氏に一言」
「ユイくん? どうしたの」
その声で、糸が切れた。
インターホンが遠のくのが不思議だった。膝に激痛が走ってようやく、自分が立っていられないことに気がついた。
ドアが開く。大きな体の後ろから、靴を履いた少女が現れた。
「ユイくんびしょ濡れ! どうしたの?」
「ああ……よかった」
駆け寄ってくる夏希を、両手で思いっきり抱きしめた。
重さも、体温も、匂いも感触も、全部がちゃんとここにある。
「よかった……よかった……本当に……っ!」
涙が止まらなかった。夏希はいる。ちゃんといる。
「ユイくん。どうして泣いてるの?」
神様。うたかた様。どうか、どうか夏希を連れて行かないでください。俺はもう、なにも望まないから。これまでが不幸だったなんて言わないから。この先どんなことがあっても、全部受け容れるから。俺はどうなったっていい。なにがあったっていい。
だからどうか、夏希だけは。この子だけは、奪わないでください。




