2話 学校では空気、のはずだったんだけど
夏の風を受けて稲穂が揺れる。のどかな田園風景はずっと先まで続いていて、その上に広がる空は苦いくらい青い。
この町に引っ越してきてから四ヶ月。景色に飽きるまでかかった時間は二分。
「あっちぃー」
八時前だというのに、もう汗ばむほどに暑い。肌にくっつきそうなシャツを指でつまみ、外の空気を取り込む。焼け石に水だ。
隣を歩く夏希は、首から提げた水筒をごくごく飲んでいる。中に入っているのは、冷蔵庫で冷やした麦茶。俺は水筒なんて持っていない。あれば便利なのだろうが、持ち運ぶ面倒くささが勝った。
「あっちぃー」
ぷはっと口を外して、夏希が繰り返す。それから俺のほうを見て、水筒を差し出してきた。
「ユイくん飲む?」
「俺はいいよ」
「なにも飲まないと、熱中症になるんだよ」
「学校でジュース飲むから平気」
「あーっ、ユイくんだけずるい!」
「帰ったら夏希のも買うよ」
「うん。約束」
膨らんだ少女の頬は、すぐに元通りになる。表情の変化も、感情の移り変わりも、夏希は俺よりずっと早い。
田んぼから逸れて、建物の並ぶ道に出る。学校へ行く前に寄る場所。それは老舗のもち屋さん。俺がいない間、夏希を預かってくれる店だ。
店の看板が見えたところで、通りの向こうから声を掛けられる。
「結斗氏、夏希氏。今日はお早いじゃないか」
XLサイズの制服をパンパンに膨らませた巨漢が、大きな手を振っている。夏希はぴょんと跳ねて、道の向こうを指さした。
「あっ、モッチーだ!」
車が来ていないのを確認して道路を渡る。夏希は折り目正しく一礼して、
「おはようございます」
「うむ。おはよう」
腕組みして鷹揚に返す。この男は、加々見太一。もち屋の一人息子でふくよかな体型だから、皆からはモチ太、モッチーなどと呼ばれている。
「ねえねえモッチー。ナツね、今日夢を見たの」
「ほほう。どんな夢を?」
「ユイくんが王子さまだった夢だよー」
「結斗氏が王子さまとな。なるほど、それはいい夢だったのであろうな」
「うん!」
大きく頷いて柔らかい笑顔を浮かべているモチ太。俺よりずっと夏希と話すのが上手くて、ちょっと負けた気分になる。気分というか、わりとちゃんと負けてるんだよな。
俺よりずっと、夏希が話しやすそうだ。
「モッチーはどんな夢を見るの?」
「僕はたくさんのお餅を食べる夢を見るのさ。きなこ、あんこ、ごま、ずんだ。いろんなお餅が並んで、座っているだけで口の中に入ってくる天国の夢をね」
「わぁー。すっごく楽しそう」
そんな夢を俺も見ていたら、朝の会話はもっと弾んだろうか。……いや、ないな。
この体型でそれを言うから、説得力があるんだ。俺がお餅天国の夢を見たら、「お腹減ってるの?」と心配されてしまうだろう。
このままずっと話していたそうな夏希に、モチ太が言う。
「では夏希氏、僕たちは学校があるから出発させてもらうよ」
「いってらっしゃーい」
手を振る夏希に見送られ、俺とモチ太は高校へ向かう。歩いてすぐのバス停から、定期券で乗り込む。田舎の朝は席が空いている。俺たちは一番後ろに座った。
モチ太はバスで宿題をしていて、ずっと下を向いている。俺はぼんやりと窓の外を眺めている。景色が好きなのではなく、なにもしないでいい時間が好きだから。
そうして揺られること四十分。ようやく高校の最寄りに到着。
バスから降りたモチ太は、宿題を片付けスッキリした顔で話しかけてくる。
「結斗氏、昨晩アニメ化が発表された『マジカル百合っぺナンバー2』は傑作であるぞ」
話し方の癖から分かるとおり、モチ太はオタクだ。それも「ドュフフ」って笑うタイプの気持ち悪いやつ。
夏希の前では本性を隠しているが、俺と二人になった瞬間にご覧の通り。
ちなみに俺はオタクというほど詳しくないし、百合にも興味がない。普通に困る。
「あー、そうなんだ」
「うむうむ。舞台は百合少女だけが魔法少女になれる世界。主人公の由利崎リリはどこにでもいる普通の腐女子」
「待て待て。ワードが強すぎて脳が壊れる」
「NTR⁉」
「脳が壊れるってワードに反応すんなって」
知らないうちに俺の思考はモチ太に汚染されているらしい。断片的に知っているミームが口から出てきてしまう。
「ドュフフ。結斗氏も順調に染まってきている、ということなのさ」
「嫌すぎる」
ため息をつく俺の横で、腐女子の主人公が悪と戦うため、女の子同士のラブコメに落ちていく話を熱く語るモチ太。基本的にいいやつなのだが、これが気持ち悪くて友達が少ないらしい。まあ、そうなるわな。
適当に相づちを打っていたら、俺もオタク仲間と認定されて声を掛けられなくなった。これに関してはありがたい。転校生だからって、面白いと思われるのは困るから。
オタクトークを適当に流しながら、教室に入る。
バスで四十分移動してきたとはいえ、ここも田舎。学年には文系と理系の二クラスしかなくて、二年生の文系は三十人、理系は十八人しかいない。余裕の定員割れだ。
すかすかの教室で窓側の席に座って、鞄を枕に頭を乗せる。もはやモチ太の話は聞いていなかった。
ぼーっとしていると、一限の先生がやってきて授業が始まる。
始まってしまえばあとは簡単だ。適度に授業を聞いて、質問に答えて、無心で一日をやり過ごす。休み時間はモチ太の話をラジオ代わりに、だらだらしていればいい。
存在感のない転校生。それが、学校での俺だ。
◇
四時過ぎにホームルームが終わったら、すぐに教室を出る。ゆっくりしているとバスを逃すので、気をつけないといけない。都会と違って一時間に一本なので、乗れなかったときのダメージも大きい。
昇降口から小走りしただけで、モチ太の息は上がっていた。
「ふぅ……ふぅ、ふぅ……。厳しい戦いだった」
「体力無いなぁ」
「このモチモチボディの下には、強靱で重厚な筋肉があるのさ。持久力はないけれど、僕は類い希なるパワー系デブなのだから」
「つまり、体力は無いんだな?」
「否定はしないのである」
頷くと、モチ太は最後部の席にドカンと座る。体重が桁違いなので、クッションが壊れそうな悲鳴を上げる。
俺はその一つ前に腰を下ろし、鞄を膝に載せた。窓の外を見ると、一人の女子生徒が慌てて駆け込んでくる。
段差を上って、後ろに来たところで誰かわかった。同じクラスの有原冬花だ。走ってきたらしく、彼女も息が上がっている。
「やあやあ冬花氏」
「なに?」
気さくに手を挙げ声を掛けるモチ太に、有原はキレのある冷たい視線を向ける。「話しかけんなキモオタ」というオーラが全身から発せられている。
「なにというわけではないけれども、友がいたら話しかけるのが僕なのさ。なあ、結斗氏」
「迷惑なアイデンティティだな」
「なんと⁉ 結斗氏は僕の味方じゃないのか」
「味方ではないだろ」
「嗚呼。栄枯盛衰とはこのことなのか」
一体いつの時代にモチ太が栄えていたのかは知らないが、衰退しているのは確かだ。現に有原は、とっくに俺たちのことを忘れて読書している。
モチ太に声を掛けられて、たった二文字で会話を終わらせるセンス。俺にもちょっとわけてほしい。
「冬花氏は今日も冷たいなぁ。だが、それがいい」
「すっげえ睨まれてるぞ」
長い髪の向こうから、殺意の籠もった視線が飛んでくる。なぜか一緒にいる俺まで。やめて、俺とモチ太は無関係なんです。トロッコ問題で橋の上から突き落とせる。それくらいの関係性だ。
二人揃って隅っこで縮まっていると、やがて殺気は消えた。
有原は静かに読書をしている。教室でもバスでも、いつも彼女はそうやって過ごしている。笑った顔や楽しそうな顔は見たことがない。
長い髪が隠すから、横顔も見たことがない。それくらいの関係性。顔と名前が一致するだけの、知らない人。
まあいいや。俺は寝て時間を潰すとしよう。
「結斗氏結斗氏」
「なんだよ」
そう思っていたら、肩を叩かれた。
「普段は夏希氏とどんなことしてるん」
「どんなことって?」
「夜とか。いろいろあるであろう」
「言い方を考えろよ」
傍から聞いたらただのエロ話だ。そんなことになってたまるか。相手は小学生だぞ。
「別に普通だよ。テレビ観たり、勉強教えたり、一人で時間潰すのと大差ない」
「夢のない話だなあ」
「お前は餅の夢だけ見てろ」
「もし僕が小学生の女の子と暮らすことになったら、呼び方は『お兄ちゃん』に決まってるのさ」
「きしょぉ」
こいつを裁けない日本の法律、不完全すぎるだろ。思想の自由とか、さっさと撤廃しようぜ。
「結斗氏には『お兄ちゃん』の魅力がわからないか。血の繋がらない、圧倒的年下、しかもJSから『お兄ちゃん』と呼び慕われることの尊さが」
「親戚だから薄く血は繋がってるし……。つーかおい、後ろ後ろ」
俺に向けて謎の性癖を熱弁するモチ太。それを反対側の席から凄い目で見てくる少女がいた。有原である。読んでいた本から目を上げ、殺人現場でも目撃してしまったような顔をしている。
信号が赤になり、バスが止まった。有原が立ち上がり、俺の横に座ってくる。
え、俺?
有原が凝視しているのは、なぜか俺だ。ずっと変態発言をしていたのは、後ろの巨漢だぞ。
「いつもモチ太といるから、怪しいとは思ってたけど……まさか物部がロリコンの誘拐犯とは思わなかった」
「ロリコンでも誘拐犯でもない!」
とんでもない誤解をされてるじゃないか。
これにはモチ太も不味いと思ったのか、身を乗り出して擁護してくれる。
「そうだぞ冬花氏。結斗氏はムッツリであるから、表向きはロリコンと言えぬ」
「お前は黙ってろ!」
全然擁護じゃなかった。火に油を注ぐとかでもなくて、爆弾を落とす勢いだ。
有原はドン引きして、ますます俺への誤解を深める。
「ロリコン……」
「ロリコンじゃないって。あと誘拐もしてない。親戚から預けられた子だから」
「否定になってない。証拠は?」
「そんなもん持ち歩いてるかよ」
親戚相手にいちいち契約書を作ったりしないだろ普通。ぽんと預けられて終わりだ。詳しい説明は俺すらされてない。なんかいた。それぐらい突拍子もなく、夏希との生活は始まった。
「いや結斗氏。証拠なら示す方法がある」
ひらめいたとばかりに口を挟むのは、元凶のモチ太。こいつは自分のせいで有原に絡まれてるって、わかってるのか?
得意げなモチモチ野郎は、丸い顎を上下させる。
「夏希氏に会わせればいいのさ」