27話 モチ太へ
宇多方村には聖域がある。
鳥居をくぐって、山道を登っていった先に突如現れる池。その真ん中には陸地があって、奇妙な岩がある。雨に晒され、風に削られ、長い年月をかけて生命のような模様を得た岩だ。しめ縄も巻かれず、お供え物などもなく、ただそこに佇む岩。
「ひぃっ、ひぃっ、ふー。ひぃっ、ひぃっ、ふー。……やあ、結斗氏」
「ラマーズ法で登山すんなって」
ぐっしょりと汗に濡れた姿で登場したのは、今日も今日とて巨大なモチ太だ。夏バテとは無縁のようで、最近もっと肥えてる気がする。そんな彼にはここまでの道が過酷だったようで、到着するとすぐに池の近くに腰を下ろした。ペットボトルのスポーツドリンクをがぶ飲みする。
「僕みたいなオタクには、うたかた様も会いたくないっておっしゃってる気がするのさ」
「体力不足を神様のせいにするな」
人のせいじゃなくて神のせいとか、いつの時代の人間だよ。雨乞いしてた時代の出身か?
「いやしかし、登山というのはよくないね。膝によくない。もう二度とするまい……」
ぶつぶつ呟いて、モチ太が俺を見る。その目は既に、真面目な会話をする準備ができていた。
「それで、結斗氏。夏希氏に関する新しい情報というのは」
「夏希は俺と会うまでの記憶を失ってるみたいなんだ。それがうたかた様と関係あるのか、モチ太に聞いてみたい」
池の周りを歩きながら、肝試しの日に得た情報を伝える。
モチ太は怪訝な表情をして、首を大きく捻った。
「僕の知る限り、そんな副作用はない。前にも言ったとおり、うたかた様は願わなければなにもしないのさ」
「詳しいよな、お前は」
足を止めた。座り込むモチ太の正面。ポケットに手を入れて、見下ろす。
「経験者だろ」
モチ太は息を止めて目を見開いた。地面に置いた大きな手で、土を握る。どうやら図星らしい。
これで一つ謎は解けた。
モチ太がうたかた様を信じている理由。そしてその情報は信用できることもわかった。経験したことがあるなら、当てはめられることも多いはずだ。
「夏希のことはわかった。じゃあ、もう一個質問だ。モチ太はなにを願った?」
「……」
黙り込んで、ゆっくりと首を横に振る。何度も何度も、横に振る。
「言わないなら当ててやる」
「当てないでくれ。結斗氏、全部君の思った通りだから、もう僕のことは放っておいてくれ」
「嫌だ。俺は踏み込むって決めたんだ」
「踏み込まないでくれと、言っているだろう!」
モチ太が立ち上がった。土を飛ばして、勢いよく両手を伸ばす。俺の襟首を掴むと、間近で睨みつけてくる。そこには普段のニコニコした、温厚なモチ太はいなかった。荒く息を吐いて、歯を食いしばる。
「なにも知らないくせに! 僕のことなんて、なにもわからないくせに!」
「わかるよ」
「なにが!」
モチ太が俺を掴む力が増す。息が苦しい。痛い。なにが友情だ。なにが温厚だ。獰猛で手に負えない。その上どうせ、後で自己嫌悪するのがモチ太なんだろうな。俺を傷つけたとか言って、また遠ざかる理由が増えて。
ああ――クソうぜえ。
「歯ぁ食いしばれ! 加々見太一!」
モチ太の名前を叫んで、手を伸ばした。大きな肩を掴む。相手の顔を見る。
目を閉じて、思いっきり頭を振った。
ゴン! 鈍い音がして、目蓋の裏に星が飛ぶ。掴まれていた手が離されて、反動で俺は後ろに倒れる。
「いってぇえ……」
額から広がっていく激痛に呻いて、地面に転がる。
「ぁっ、ぁっ……」
少し離れたところで、モチ太も同じようにうずくまっている。
なんで今日はこんなんばっかりなんだ。朝から走って、昼は山登って、今はモチ太と喧嘩して。俺はインドアだって言ってるのに。
馬鹿だ。俺は馬鹿だから、こんなやり方しかできない。
「お前……喧嘩したら自分のが強いと思ってるだろ」
「……はぁ、はぁ……。今のは、なかなか響いたのさ」
「俺は毎日、夏希とラジオ体操してんだ。あんま舐めんなよ」
モチ太はゆっくりと立ち上がろうとして、諦めたように膝をついた。
「結斗氏は毎日、夏希氏のために頑張ってる……僕なんかじゃ敵わないわけだ」
「なに言ってんだよ。六十キロが九十キロに勝てるわけないだろ」
俺も立ち上がる気力はなかった。体だけ起こして、なんとか笑ってみせる。
インドアの陰キャ同士。喧嘩一つもまともにできない。それがおかしくて、腹の底から笑いがこみ上げてきた。モチ太も呼応して笑った。
笑って、笑って、笑い疲れた俺たちはそのまま地面に倒れ込む。
「空が青いでござるなあ」
憑き物が落ちたように、いつもの調子で笑う。やっぱりモチ太は、餅の怪人でいい。
「ソララのやつ、まだお前のこと好きだってよ」
「……結斗氏は容赦がない。でも、僕にその気は」
「でもお前、ソララのこと好きじゃん」
目の前にあるのは、青い空だけだ。だからどんな言葉も、簡単に言える気がした。
「俺知ってるよ。モチ太が『ドュフ』ってるの、ソララが相手のときだけって」
「二次元嫁にもドュフってはいるのであるが……」
「二次元嫁と同格って、オタク的にはすげーんだろ?」
俺にはよくわからないけど。ずっと話を聞かされてきたからわかる。オタクにとって、二次元の嫁とは命同然のものであると。
「結斗氏には、全部お見通しなのだなあ」
観念したように言って、モチ太は体を起こす。あぐらをかいて、池の真ん中にある岩を見つめる。
「ソララ氏を助けたのは、僕じゃない。うたかた様なのさ」
「名前をからかわれてたってやつ?」
「ああ」
うたかた様について俺が尋ねたとき、自分が経験者なら、真っ先にそう言ってくれればよかった。それなのにずっと隠していた。夏希のことなら真剣になってくれるモチ太が、どうしても言えない理由。それは、大切な人との記憶。
「いじめられているソララ氏を助けたくて、でも僕には勇気がなかったから。うたかた様にお願いしたのさ。『僕がソララ氏を助けたい』と。そうしたら身体が勝手に動いていた……のだと思う」
「らしい?」
「覚えていないのさ。僕は自分がなにを願ったのか、本当にうたかた様に願ったのかも、覚えていない。ただ、気がついたらソララ氏から感謝されていた。なんと、居心地の悪いことだろうか」
モチ太はうなだれている。
「なにもできなかったことが悔しくて、後悔して、せめてもの抵抗に僕はモチ太と名乗り始めた。後付けだよ。解決した後に、ほんの少し、必要のなくなった勇気を絞っただけなのさ」
「でも、モチ太って名乗り始めたのは、自分の意思だったわけだな」
ちゃんと聞こえるように、大事な部分ははっきりと聞き直す。
「そうとも。僕のできたことは、それだけ。隠していてすまない」
「話してくれてありがとな。あともう一個、先に謝っとくよ。ごめんモチ太」
左耳につけていたイヤホンを外して、手の平に載せる。
「全部聞かせてる」
それと同時に、草木をかき分ける音がした。顔を出したのは、褐色の少女。ムスッとした顔で、ずんずん近づいてくる。
「そ、そそ、そ、ソララ氏⁉」
「じゃあ俺はこの辺で」
「ちょ、ちょっと待つのだ! いや、待ってください一生のお願いだから! 結斗氏!」
「やなこった」
手を振って、さっさと山道を駆け下りる。
もう大丈夫だ。きっと俺たちは、また一緒にいられる。
ソララの顔には、まだ好きって書いてあったから。




