26話 ソララへ
ラジオ体操に行く保護者の朝は早い。
朝の六時に目を覚まし、身だしなみを整えて朝食を済ませ、七時には公民館に到着しなくてはならない。最近はお母様方に顔を覚えられ、子供たちと一緒に体操もしている。もちろんソララも一緒だ。ヤックルはもらってない。
今日に関して言えば、ヤックルをもらっていないのはソララも同じだった。真顔で体操して、終わったらすぐに帰ろうとしている。魂が抜けてロボットみたいな少女を、後ろから呼び止めた。
「おはよう」
「おはようございます……」
アスファルトに向けて挨拶するソララ。俺と目を合わせるには、今日の重力は強すぎるらしい。保護者の方々も心配するほどの猫背になっている。
モチ太の馬鹿は昨日の夜、『ソララ氏を頼む』とだけメッセージを送ってきた。
それだけで、なにがあったのかを察するには十分だった。ソララは告白し、フラれた。
人の恋路に口を挟む権利なんて、俺にはない。これは二人の問題だ。
ちょっと前までなら、そうやって引いていた。
悲劇の真ん中にいるみたいな顔をして、自分にはどうせ無理だと諦めて。嘆いて、黙り込んで、無愛想に人と壁を作った。
それで俺は、何を得た?
なにもしなくたって、周りの世界は変わっていく。俺はただ、置いて行かれるだけだった。
抗ったって、意味はないかもしれない。けど、抗わなかったら失うだけだ。
モチ太が声を掛け続けてきてくれた。夏希が光を見せてくれた。有原がちゃんとしろと言ってくれた。ソララが元気に引っ張ってくれるから、五人でいるのが自然になった。
この場所は、俺が絶対になくしちゃいけない場所だ。
「ソララ、一緒にジョギングしよう。トレーニングも付き合うぜ」
そのためなら、筋肉痛くらいなってやる。
◇
夏希をアキちゃんたちのところへ送り届けて、俺はソララの家にやってきた。半袖ハーフパンツのジャージに運動靴。体育の授業以外で初めて、完全武装で運動に臨む。
「かかってこい」
「凄いやる気っすね。なんかあったっすか?」
「やっぱ男は筋肉かなと思ったんだ」
「人によるんじゃないっすかね。好みなんて」
だめだ、落ち込み過ぎていつもと言ってることが違う。この間はあんなに肉体至上主義だったじゃん。外見が十割とか言ってたじゃん。
「人は結局のところ内面なんすよ……はは」
言ってることは前よりまともなのに、表情筋が全滅しているせいで絶望感が凄まじい。
「まあ走ろう。コースはどんな感じ?」
「いつもは川を下流に向かっていって、適当に戻ってくる感じっす。でも、今日は散歩でもいいっすけどね」
「走ろう! なるべく全力で、体力を使い果たすまで走ろう!」
「ほんとにどうしたんすか?」
それはこっちのセリフだと言いたかったが、グッと堪えて「筋肉が欲しい」とゴリ押す。俺が脳筋を演じることで、ソララの脳に筋肉を戻すのだ。
「まあ、いいっすけど」
ぼそっと呟いて、ソララが走り始める。その横を俺も走る。準備運動がいらないのは、ラジオ体操をしたからだ。やっててよかったよ、本当に。
小さな住宅街を抜けて、川に出る。川の隣には、細い歩道がずっと先まで続いている。これがソララのランニングコースらしい。車を気にしなくていいから、走りやすくて気持ちがいい。
ペースを上げて、ソララの前に出る。向こうは余裕みたいで、簡単に追いついてきた。
「飛ばすともたないっすよ」
ソララの忠告を無視して、もう一段階スピードを上げる。なおもソララは涼しげな様子で、
「そんなペースで走ったら、結斗さんは倒れるっす」
彼女の言うとおりだった。運動不足のインドア野郎に、強引なペースアップは厳しい。今の速さは、全力ダッシュの六割強。まだ一キロも走っていないのに、脇腹が痛い。
意地で口を開いて、声を絞り出す。
「……お前は、いつも、どんなスピードで走ってるんだよ」
「あたしの速さなんてどうでもいいじゃないっすか。結斗さんのペースで」
「いいから! ……いいから、教えてくれ」
「知らないっすよ」
ソララは顔をしかめて、次の瞬間、隣からいなくなった。
「はやっ!」
小さな体躯をバネのように使い、跳ねるように前へ進んでいく。褐色の肌が遠のいていく。追いつけるのか。あの速さに。
わからない。わからないから、全力だ。追いつかなきゃ話もできない。
綺麗な走り方なんて知らないから、ただ強く地面を蹴る。腕を振る。背中が近づく。近づくけど、また離される。向こうのペースは一定だ。俺が不安定で、情けない。
こんなとき、いつものソララならなんて言う?
俺はソララに、なんて言って欲しい?
飛ばすともたないとか、結斗さんが倒れるとか、自分の速さなんてどうでもいいとか。そういうことじゃない。
馬鹿みたいな笑顔で、馬鹿みたいな理屈で、底抜けに明るく無茶苦茶言ってほしい。
ソララの少し先に、看板が見えた。川の名前が書いてある青い看板。百メートルか、二百メートルか。距離感が掴めない。とにかく、あそこまで競争だ。相変わらず俺は追いつけてないし、ソララに確認もとってないけど。
あそこまでに追いつく。追い抜く。理由はない。
その先はもういい。だから全力ダッシュだ。
捨て身のダッシュでソララに追いつく。
「結斗さん⁉ すごい顔になってるっすけど!」
「あそこまで、勝負だ!」
「え、え、なんすか急に! ほんとになんなんすか今日は!」
こんなに慌てたソララも珍しい。もっとからかいたいけど、今は勝負が優先だ。
悪いが迷っているうちに行かせてもらう。勝ってガッツポーズして、ボコボコに煽ってやる。俺がただ慰めるだけの優しい先輩だと思うなよ。さんざん肝試しで振り回しやがって。んでフラれて気まずくなって落ち込みやがって。
「こんだけ巻き込んどいて、今さら部外者扱いするんじゃねえよ!」
「……っ! そんなこと、そんなことしてないっす!」
一瞬で追いついたソララが全力で否定する。
「でもお前、なんも言わないで帰ろうとしてただろ!」
「悪いっすか! 失恋した次の日くらい、あたしだって落ち込むんすよ!」
「悪くない!」
「ええっ⁉」
「悪いことなんてなにもない!」
「……っ!」
ソララの足が止まった。青い看板のすぐ隣。俺よりも少しだけ前で。落ち込んでいても、言い合いをしていても、ちゃんと勝負に勝つあたり彼女らしい。
敗北した俺はゆっくりスピードを落として、ソララの横に座り込む。立っていられない。粘っこい唾液を飲み込むと、微かに血の味がした。
「結斗さん……」
「ソララはよく頑張った。告白できたんだろ。偉いよ。すげー偉い」
「はは……なんすか、それ。……あーもう、泣けてくるじゃないっすか!」
言いながら、すでにソララの両目からは涙が溢れていた。ソララは俺に背を向けて、俺も彼女から目を逸らす。川の流れをぼんやり見るのは、天井の染みを数えるのと同じくらい楽しい。
バチン! 乾いた音が響いた。びっくりして振り返ると、顔を両手で挟んで押しつぶしたソララがいた。手を離すと、頬に赤い痕。
「ご心配お掛けしました。もう大丈夫っす」
「痛そう……」
ドン引きしたら、ソララが首を傾げた。
「熱血の結斗さんはもう終わりっすか?」
「終わりだよ終わり。あんなんやってたら心も体も壊れる」
「ははっ。そうっすよね。結斗さんはこっちの方がらしくていいっす」
「俺もそう思う」
冗談めかして言うと、ソララはへなへなと座り込んだ。俺の右隣で、膝を抱えてため息を吐く。
「どうしたらいいんすかね。あたし、まだモチさんのこと好きっす」
「すげー好きじゃん」
「すげー好きっすよ」
照れも恥じらいもせず、真っ直ぐにソララは言う。告白して、フラれて、それでもこんなふうに力強く言える。それは彼女の強さだ。俺だったらたぶん、こんなふうには言えない。
「モチさんは格好いいっすから」
「ちょっとわかる」
ソララは嬉しそうに微笑むと、涙が零れそうな目元にぎゅっと力を込めた。
「あたし、幼稚園くらいの頃はいじめられっ子だったんす。ソララっていう名前が変だって言われて、からかわれて、のけ者にされて。よく親にも、こんな名前にしないでほしかったって言って……」
ソララは言葉を句切って、呼吸を整えた。たっぷりと間を空けて、その続きを話す。
「そんなときに、モチさんが来てくれたっす。あたしをいじめてた子の前に立って怒ってくれた。『いい名前だから、自分で自分を嫌っちゃだめだよ』って、あたしを叱ってくれた。だからあたしは、今も自信を持ってソララって言えるっす」
「格好よすぎだろ」
「モチさんが『モチ太』を名乗り始めたのも、その頃っす。『僕はもち屋のモチ太だ。面白いだろう。笑うならまず、僕を笑うといい』って言って。皆から笑われて、馬鹿にされて、でも、モチさんはずっとニコニコしてて……」
「そりゃ好きになるなって方が無理だな」
「そうなんすよ……」
川の水面のは、太陽の光を乱反射して煌めく。吹く風が、流れる汗が心地よい。座ったアスファルトは熱い。蝉、うるさい。
どうしようもないくらいに、夏だ。
「なあソララ」
「はいっす」
「俺もさ、モチ太に声かけてもらって助けられたんだ。有原も、ソララも、あいつが連れてきてくれた。皆といられるのは、あいつのおかげなんだよ」
立ち上がって、手を差し出す。
「モチ太が作ってくれたこの場所が、俺は好きなんだ。ワガママだけど、これからも皆でいたい」
「……できるっすか。そんなこと」
「ソララがいてくれれば、きっとできる」
根拠なんていらない。有原が俺を信じてる。胸を張る理由なんて、それだけで十分だ。
ソララはゆっくりと手を伸ばしてきて、力強く俺の手を握った。勢いよく立ち上がった少女が、その勢いでジャンプする。着地。大きく、大きく息を吸い込んで、にかっと笑った。
「そうっすね。あたしがいれば、百人力っすから」
「だろ?」




