20話 ドッペルゲンガーの呼び声
ここに来る前、一度だけ不思議な体験をした。
それを思い出したのは、誕生会の数日後だった。
「ドッペルゲンガーに会ったというのかい、結斗氏が?」
「前に住んでた街でな。疲れてたし、暗かったから確証は無いけど」
クーラーの効いた部屋で男二人。老舗もち屋の一人息子の家は、フローリングの洋室。この部屋だけで俺の家の居間と台所を足したくらいある。そのだだっ広い部屋の窓際に、俺たちは椅子を向かい合わせている。
モチ太は机に肘をついて、指先で顎をたぷたぷ突く。
「自分と同じ顔をした人間は、世界に三人いるというのは知っているかい。結斗氏なら当然、そういう可能性についても考慮してるとは思っているけれども」
「自分と同じ顔をしている人間がいる可能性はある。でも、初対面のそいつが話しかけてくる確率はどれくらいだ?」
「どんなことを話してきたんだい?」
ドッペルゲンガーに会ったのは、冬の夜。義理の母親と揉めて家を飛び出し、公園で夜を明かそうとしていたときだった。寒さで限界が近かった俺の前に、ふらりとそれは現れた。
俺と全く同じ顔で、録音機から流れるのと同じ声で、
「――君には行くべきところがある」
導きのように告げて、次の瞬間には消えていた。瞬き一つ。一秒にも満たない刹那の間に、俺はまた公園に一人だった。
「行くべきところ……とな」
「その日を境に、俺の転校手続きは進んでいったんだ。遠くの県の、知らない高校に、なぜかバスで四十分もかかる村に住むことになった。なにより不思議なのは、俺がそれをつい最近まで忘れてたことだ。
俺がおかしくなったのか。それとも、他に理由があるのか」
モチ太は黙って目を伏せている。ゆっくりと持ち上げた瞳には、奇妙な落ち着きがあった。
「結斗氏は、なぜそれを僕に?」
「うたかた様ってのがいるんだろ。夏希がいなくなったとき、モチ太はそこにいるって確信してた。夏希も信じてた。有原もなにかあるみたいだった。その中で一番、お前が詳しそうだったし……あとはまあ、友達だし」
「ともっ、友達とな⁉ 結斗氏が僕のことを友達とな⁉」
「そこに反応すんなよ。話が詰まるだろうが」
「すまない。誰かに友達扱いされることに慣れておらず、動揺してしまったのさ」
「悲しすぎるだろ……」
これがオタクの宿命なのか。モチ太の場合は部活に入っていたり、なんらかのコミュニティーがあれば作れそうだけど。……そんなことを言ったら、誰だってそうか。
そのコミュニティーを見つけられないから、俺たちは浮いていたのだ。
「ふぅー。もう落ち着いた。では、続きを」
「俺の番は終わったから、聞かせてくれ。うたかた様ってなんなんだ?」
モチ太は大福を一口で食べると、お茶をすすって間を空ける。さっきも落ち着いたのに、まだ落ち着きが足りないらしい。
「なんなんだと聞かれても……。雲はなんだと聞かれたら、水の集まりだと言える。けれどうたかた様は、誰もがそうだと言えるようなものではないのさ」
「俺はてっきり、あの岩のことかと思ったんだけど」
「それこそ人による部分なのさ。あれをご本尊と崇める人もいれば、ただの岩と扱う人もいる」
「すごい振れ幅だな」
知名度のない民間伝承だから、伝わり方が弱いのだろうか。だが、あれだけわかりやすい聖域がありながら、そこまで解釈が異なることなどあるだろうか。とはいえ、俺も専門家じゃない。雰囲気で話しているだけの一般高校生だ。
「ただね、うたかた様には一点だけ共通していることがある」
新しい大福に手を伸ばして、その感触を確かめながらモチ太が言う。
「願われなければ、動かない」
モチ太が大福を食べる。俺も一つもらった。もち屋の大福だけあって、餡子以外も美味い。なにがどう美味いかは説明しづらいが、とにかく違う。
「うたかた様は、願いを聞く存在なのさ。叶えるかどうかは別として、願われるまではなにもしない」
「それが、モチ太の解釈なんだな」
「僕はそう思っている。だから、結斗氏のケースは例外的なのさ。誰か、宇多方村に血縁者はいないのかい。遠縁でも構わないから」
「いないはず。その辺は引っ越す前にちょっと調べたから」
「そうかい」
モチ太は額に手を当てて目を閉じる。深く考えるときの癖らしい。テスト以外でこの姿を見るのは、今日が初めてだ。
ここまでの話をまとめると、
誰かが願わなければ、うたかた様が俺を導くことはない。あのドッペルゲンガーがうたかた様によるものなら、誰かが願ったことになる。俺が、この場所に来ることを。
それかもしくは、ただの幻覚。だんだんそっちな気がしてきた。あの頃の精神状態だったら、十分にあり得る話だ。
「おほん。結斗氏」
「なんだよ急に改まって」
「友達というのは、その、踏み込んでしまってもいいものなのかい」
巨体を縮こまらせて、モチ太は俺の出方をうかがっている。知ってはいたが、モチ太の本質はキモオタじゃない。特別繊細な、ただのいいやつだ。
「いいよ。覚悟してきてる」
「では……。結斗氏が急に、うたかた様の話をしてきたのは。夏希氏のことと関係がある、と見てもいいのかい」
覚悟はしていた。それでも、俺以外の誰かに言われるのは、胸の真ん中に穴が空くような気分だった。否。穴は最初から空いていたのだ。それをただ、気づかれてしまっただけ。
「そうだよ。夏希は、うたかた様に導かれて俺のところに来たんじゃないかって思ってる」
「最初から気がついていたのかい?」
「いや、最初の最初は俺も『親戚の子供』だと思ってた。記憶が曖昧で、気がついたら夏希はいて。なんの違和感もなく、一緒に暮らしてたんだ。でもおかしいだろ。実家から追い出された一人暮らしの高校生に、子供を預ける親戚がどこにいる?」
モチ太は腕組みして、椅子の背もたれでイナバウアー。さっきから忙しいやつだ。ちっとも体勢が定まらない。
「問題は、夏希がどうして俺のところに来たか」
「……あまり、いい予想は立たないでござるなあ」
口調は軽いが、トーンは重い。俺も同じ気分だ。
夏希が親と離れている理由。真っ先に思い浮かぶのは、虐待だ。俺と一緒にいて、一度たりとも夏希は両親に会いたいとは言っていない。あの年の子供がホームシックにならないなんて、どう考えても普通じゃない。
「俺は、あの子が幸せになればそれでいい。今日がお別れの日でも、後悔はしないよ。でも、もし夏希が笑えない場所に帰らなくちゃいけないなら――」
そこで一度言葉を切って、自分の中にある決意を確かめる。それは今も、微塵も変わっていない。
「――あの子の笑顔を奪うなら、俺は神様だろうと許さない」




