1話 子供って朝から元気だよね
ぺちっ、柔らかい感触が頬に触れた。
「ん……」
身をよじると、反対側の頬を突かれる。つんつん、細く柔らかいもので押される。更に体を捻って、うつ伏せになって布団を頭から被る。
「ユイくん、朝だよー!」
元気いっぱいに声を上げ、布団が引っぺがされた。朝日の明るさが一気に飛び込んでくる。
「うぐあっ」
「ユイくん朝だよ。起きないと学校遅刻しちゃうよ」
しきりに俺を起こそうとする少女の声。ゾンビみたいに苦しんでるのに気にしちゃくれない。なんて無慈悲。
仕方なく目を開けて、スマホで時間を確認。
まだ朝の六時だ。遅刻する時間じゃない。
「おやすみ」
「おやすまないで! 学校が逃げちゃうよ!」
「じゃあもう通わなくていいってこと?」
「だめー!」
足が生えてるならできるだけ遠くに行ってほしい。学校、俺から逃げろ。どっか行け。二度と帰って来るな。
「学校さんはね、ユイくんに通ってほしいんだよ。だから毎日宿題を出したりイジワルしちゃうの」
「なにそのツンデレ設定。一ミリもキュンとしない」
恨み憎しみが募ることはあっても、そこから恋に発展することはないだろう。ツンデレのツンで宿題を出すな。殺す気か。
「どうしてユイくんは学校が嫌いなの?」
「落ち着かないよ、あんなとこ」
「そうかなぁ」
わからない、と小首を傾げる少女。彼女の場合は、まず落ち着くということがわからないのかもしれない。起きている限り、ずっと元気が爆発しているような存在だ。それが愛らしいのだが、朝は体力的につらい。
「夏希は学校が好きそうだもんなぁ」
「うん。ナツね、学校は友達に会えるから好き!」
ため息交じりに見上げる。枕元で元気な少女が、少し羨ましい。
彼女は今、少し早めの夏休みとかで学校には行っていない。だがら余計に、好きだという気持ちが強まっているのだろう。
「ところで、あと三十分寝ちゃだめ?」
「ナツはユイくんに起きてほしいのです」
パジャマ姿の夏希はちょこんと座って、キラキラとした瞳で俺のことを見下ろしている。さっきから、ずっとこの状態だ。
ぐぅぅ。と可愛らしいお腹の音。これが理由だと言わんばかりに、少女が顔を近づけてくる。
「ナツはお腹が減ったのです」
「……起きるよ。夏希はパン焼いてて」
「はーい」
散々喋ったせいで、頭が冴えてしまった。
重い体を起こして立ち上がり、大きくあくびをして布団を畳む。寝癖でボサボサの後頭部を触りながら、洗面所へ移動。二つ並んだ歯ブラシから青い方を取って、歯磨きをする。
台所に顔を出すと、少女はせかせかと動いて朝食の準備をしている。
俺たちが暮らしているのは、ワンルームの小さなアパート。寝室は居間を兼ねる。布団をどかさないと、ちゃぶ台を置く空間もない。
二枚の布団を隅に寄せて、机をセット。台を拭き終わると、夏希がお盆を運んでくる。
六枚切りの食パンと牛乳。それが我が家の朝ご飯だ。
「「いただきます」」
夏希はもぐもぐと小さな口で咀嚼して、ごくごくと喉を上下させて牛乳を飲む。対して俺はもそもそと緩慢に咀嚼して、ちびちびと牛乳を飲む。
同じ物を食べているのに、躍動感がまるで違う。若いって素晴らしい。高校二年生で、もう老いを感じることになるとは思わなかった。
「ねえ夏希。早くにお腹が空いちゃったら、一人で食べていいんだよ」
「朝ご飯と夜ご飯は一緒に食べるの。ユイくんは約束忘れたの?」
「そうだけどさ」
正直なところ、俺は朝ご飯を食べなくてもいいタイプなのだ。ギリギリまで寝ていたい。
だが、夏希はまだ七歳。育ち盛りの彼女に朝食を抜かせるわけにはいかず、渋々俺も付き合っている。おかげで最近、ちょっと顔色がいい。
「ナツはユイくんとご飯食べたいの」
夏希は真剣な顔で見つめてくる。そんな顔をれて断れるほど、俺は非情じゃない。
「わかった。でも、六時までは寝かせて」
「はーい」
夏希は知り合いの子供で、一緒に暮らすようになってまだ数日。初めてのことばかりで、本当に難しい。
こういう決まり事も、二人で作っていかなければならないから。
一緒に暮らして、よかったことと言えば、学校に遅刻する心配がなくなった。悪いことと言えば、学校に遅刻できなくなった。プラマイゼロが現状だ。
「ナツね、昨日夢を見たの」
「どんな夢?」
「悪い人が来るんだけど、そこにユイくんが来て、シャキーンって倒してくれるの!」
「シャキーン?」
そんな効果音は出したことがない。シャキーンより借金の方が現実的だ。
「うん。ユイくんはね、ナツの王子さまだから」
「夢の中ではそうなんだ」
現実世界はただの寝坊野郎だが、夢ではそれなりに上手くやっているらしい。グッジョブ、夢の俺。
「ユイくんは夢見ないの?」
「俺? あんまり見ないかな。寝て起きたら朝だよ」
「じゃあじゃあ、ナツが夢を見る方法を教えてあげるね」
「どうするの?」
「まずね、寝る前にいっぱい楽しいことを考えるの。で、寝るの。そしたら見れるよ」
「意外と簡単だ」
「そうだよ。ユイくんの楽しいことってなに?」
「寝ることかな」
「じゃあ、いっぱい寝るのを考えて。そうしたら、夢の中でもいっぱい寝れるよ」
夢の中で寝るって、それはやっぱり寝てるだけじゃないんだろうか。首を傾げる俺の正面で、夏希はなにかに気がついたように肩を弾ませる。
「これが二度寝?」
「違うよ。二度寝は一回起きてから寝ること」
「そっかぁ」
夏希はパンの欠片を口に入れて、ふむふむと頷く。牛乳を飲んだら、朝ご飯は終わりだ。
一緒に手を合わせる。
「「ごちそうさまでした」」
食器を台所に持っていって、俺が洗ったのを夏希が拭く。面倒な作業も、二人で分担すれば一瞬だ。一人だった頃は常時パンクしていたシンクも、今では綺麗になっている。
俺は居間で制服に着替え、夏希は洗面所で私服に着替える。
「ユイくん、入っていーい?」
「いいよ」
着替えを終えた夏希が戻ってくる。今日の服は白いスカートに水色のシャツ。シャツの方はお気に入りらしく、洗濯したらすぐに着る。髪は後ろで一つに縛って、走り回っても邪魔にならない。
「じゃーん」
服を着替えたら、俺に見せてくれるのが習慣だ。
「いいね」
「えへへ」
ここまでがワンセット。褒めるのが致命的に下手な俺だけど、夏希は嬉しそうにしてくれる。だからまあ、いいのかな。
「夏希は今日、なにするの?」
「今日はね。お勉強教えてもらうの」
「そうなんだ。よかったね」
「うん。ナツ、お勉強も大好き!」
俺からしたら考えられないことだ。勉強は大学に進むためのもの。大学に進むのは社会に出るまでの時間稼ぎ。楽しいなんてこととは、結びつきようがない。
「ユイくんはなんの授業があるの?」
「数学と英語とか、だったかな」
「英語。あっ、ユイくんってバナナアップルなの?」
「バナナアップル……?」
「えっとね、もっとすごいのはトラリンゴって言うんだって」
「もしかして、バイリンガルとトライリンガルのこと?」
「そうかも」
すごい言い間違いだ。危うく素敵な食べ物にされるところだった。
まあでも、バイリンガルって覚えづらい言葉だよな。日常的に使う音の並びじゃないし。
「俺は英語上手くないから違うよ」
「そうなんだ。英語って難しいんだね」
「本当にそう」
特に文法。まじで意味が分からん。だいたいなぜ同じ人間なのに違う言葉を使うのか。差別はよくない。皆一緒になるべき。さっさと世界統一して言語を一つにしてほしい。外国語を学ぶ苦しみは世界共通。
夏希は立ったまま会話をしている。どうやらもう、外に出たくて仕方ないらしい。
いつもより早い時間だが、もう行ってもいい頃合いだろう。
「じゃあ、そろそろ出ようか」
「うん!」
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今日はあと5話くらい更新します