13話 夜に二人で
食後はお菓子を食べながら大富豪をして、有原が持ってきたすごろくをした。じんわり溶けるように、夜が更けていく。
九時を過ぎたタイミングで、歯磨きをした。いつもはこのくらいの時間に、夏希は眠くなる。ちゃんと起きているうちに、寝る準備はしておきたかった。予想通り、九時半を回った頃、ババ抜きの最中に夏希は舟を漕ぎ始めた。
緩く前後に揺れて、寄りかかってくる。
「もう眠いか?」
「うみゃん……まだ、ナツ……遊べるの」
夏希は必死に首を横に振るが、俺から離れられない。きっともう、自分で座っていられないのだろう。
「夏希ちゃん、無理しちゃだめ。眠かったら寝ないと」
「でも、もっと……たくさん遊びたい」
「また遊べるから。ね?」
「……はぁい」
大きくあくびして、夏希はふらりと立ち上がる。
ちゃぶ台を端に寄せて、布団を並べる。二つしかないので、有原と夏希は同じ布団で寝てもらう予定だ。最悪俺は畳でも寝れるし。そこはなんとでもなる。
電気を落とすと、横になった夏希はすぐに寝息を立て始めた。
どうにも気まずいのは、残ってしまった俺と有原だ。暗闇で顔を見合わせても、なにも生まれない。
「……どうしようか」
「夏希ちゃん起こしたくないし、外に行くのは?」
「そうしよう」
どうせ俺たちはジャージだ。外に出るのに、わざわざ着替える必要もない。
サンダルを履いて、俺が先に出た。有原は上に一枚、ジャージの長袖を羽織って出てくる。
うちの学校のジャージは、半袖は白いTシャツに赤いハーフパンツ。長袖は赤を基調として、白のラインが入っている。典型的な高校生のダサいジャージだ。胸に刺繍された校章も、不格好な毛玉みたいなデザインをしている。
しんと静まりかえった夜の中で、有原は大きく伸びをした。
「んーっ。あーすっきりした」
くるりと振り返って、イタズラっぽく微笑む。澄んだ瞳の奥には、もう出会った頃のような警戒心は滲んでいない。
「ちょっと散歩しよっか」
「どこまで?」
「川まで」
そこまでなら大した距離じゃないし、ここより涼しいだろう。八月の夜は、気温が落ちきらなくて蒸し暑い。
ぬるい風にも追い抜かれるようなペースで、俺と有原は歩く。
一体いつから、俺は有原と一緒に歩けるようになったのだろう。ちょっと前までは、そんな関係性じゃなかったはずだ。もしかしたら、昨日でも無理だったかもしれない。今日の朝だって、間に夏希が必要だっただろう。
でも今は、二人で歩くこの時間が嫌じゃない。
隣を歩く有原は楽しそうで。目が合うと、恥ずかしそうに尋ねてきた。
「私、はしゃいでるのかな」
「誰が見てもそうだろ」
有原はお腹を押さえて、気持ちよく笑う。
「あははっ。そうだね。でも、今は物部しか見てないよ」
彼女がそんなふうに笑うことを、初めて知った。学校で見ていた有原は、どこか物憂げで、いつも不機嫌な顔をしていた。関わるようになってすぐは、不信感に満ちた目をしていた。
こんなに無邪気な一面があるなんて、想像すらしていなくて。
今、初めて有原冬花という人間に出会った気がした。
長い髪と、青白い街灯に照らされた澄んだ瞳、つんと尖らせた唇。綺麗なだけじゃない。ツンツンしているだけじゃない。もちろん、楽しそうなだけでもない。混ざり合った全てが、絶妙なバランスで彼女を構成している。
「物部しか見てないってことは、どんだけ『はしゃいでる』って言っても、私が否定すれば半々だから」
「別にいいだろ、そんなとこで意地張らなくて」
「物部がはしゃいだら、認めてあげる」
「俺だってそれなりにテンション高いんだぞ」
「そうなの?」
「たぶん」
「自分の発言くらい自信持てー」
目を細めて、有原が肩を押してくる。じゃれてくる猫みたいだ。
有原は大きな一歩で横に並ぶと、まじまじと見上げてくる。身長差はさほどないが、近づけばまだ俺のほうが高い。
「でも確かに、今日の物部いっぱい喋るね」
「だろ」
「変なボケも挟んでくるし」
「そうだな」
「モチ太相手にも、こんなに喋らないんじゃない?」
「あいつが相手だと、一方的に聞き役に回されるから」
「じゃあ、夏希ちゃん相手……も聞き役」
「その通り」
夏希は毎日たくさんの話を、宝物のようにしてくれる。彼女の話を聞いている時間は、俺にとっても大切な時間だ。モチ太はもうちょっと静かにしろ。
「ふーん。じゃあ、私ってわりと話しやすいポジションなんだ」
「嫌か?」
「ううん。そういうふうに人から接されたことなかったから、ちょっと新鮮」
「そりゃ有原って話しかけずらいし」
「そんなことない」
「そういうところだぞ」
すぐムスッとするから、誤解される。話しかけてほしいなら、ちゃんと愛想よくすべきだ。俺が言っても説得力ないね。解散。
気がつけば俺たちは、川に着いていた。小さな橋の真ん中で立ち止まって、暗闇の底で流れる水を見下ろす。
「モチ太から聞いたんだけどさ。有原って、男嫌いじゃないのか?」
「男嫌い? なにそれ」
「男が嫌いってことなんだろうな」
「私が聞いたのは意味じゃなくて、どうしてそんな噂が広まってるのかってこと」
「本当は男好き?」
「話を飛ばすなっ。違うし!」
割と強く肩を叩かれた。
ふざけてないで、ちょっとは真面目に考えるか。
「噂の原因とか聞かれてもな。普段の態度としか。……告白断ったりした?」
「一年生のとき何回か……えっ、それで⁉」
「そのせいだろうなぁ」
「えぇー。……ま、近づかれないからラッキーってことにしとこ」
有原は欄干に腕を乗せて、その上に顎を置く。拗ねたような口調も、子供っぽくておかしい。
「男嫌いじゃん」
「嫌いまではいかないですぅー」
有原は思いっきり頬を膨らませて、耐えきれなくなったように拭きだした。
「ぷっ――あははっ。あはははっ。あー、たのし」
「楽しい?」
「うん」
川の向こう。遠くの地平線を見つめて、少女が頷く。くぐもった声が、風に絡んで粘っこく甘い。
「私、家が息苦しいって言ったの覚えてる?」
「覚えてるよ」
忘れもしない。というかまだ、記憶に新しい。料理を作れと俺に言った日。
嫌いじゃない。でも、息苦しい。そう言っていた。
「嫌なことなんて一つもないの。優しくしてもらってるし、居場所をもらってる。あの家の人は好き。でも時々、そのことが息苦しい」
家の人、という言い方が気になった。
「有原って……養子なのか?」
「そう。私の家族は、子供の頃事故で死んじゃったらしくてね。叔父さんの家に引き取られたの。叔父さんの家にはちゃんとした子供がいて、時々、どうして自分がここにいるのかわからなくなる」
「難しいな」
「でも、贅沢な悩みでしょ。私より大変な人なんて、いくらでもいる」
「悩みに優劣なんてないだろ。悩んでんだから、皆辛いよ」
「……そうかな。そうかもね」
今度は控えめにそっと、零れるように笑う。有原が俺を見ている。
「物部は?」
「俺の家庭事情なんか、なーんにも面白くないぞ。普通にグロい」
「私だけってのが気に食わないの」
自分から言っといて、それは卑怯じゃないだろうか。
まあ、でも。有原ならいいか。
「親の再婚相手に嫌われてるんだよ、俺。『元妻に顔が似てる』って。そんで気まずくなって、追い出された結果の一人暮らし」
「……思ったよりグロいのね」
「だろ?」
「でも、聞けてよかった。ありがと」
こんなことでお礼を言われるなんて、変な気分だ。
変な気分だけど、悪くない。くすぐったくて、少しだけ気分が軽い。
「そろそろ戻るか」
「そうしよっか」
数歩進んだところで、なにかを思い出したように有原が肩を叩いてくる。
「言い忘れてた。ねえ物部」
「ん?」
「寝顔見たら許さないから」
「大丈夫だよ。どうせ俺、寝坊するから」