ドラマチックな婚約破棄を求める令嬢と策略をめぐらす王子のお話
その夜。学園の夜会は喧騒に包まれていた。
学園の夜会は生徒たちの社交界の練習の場として催されるものだ。幼い頃より貴族として教育を受けてきた令嬢も子息も、普段の夜会なら礼儀に則り過ごしていたことだろう。
だが学園に広まるひとつの噂が、身に着けた礼儀作法では抑えきれないほどの熱を生み出していたのだ。
噂とは、一人の令嬢が転入してくるというものだ。
その令嬢は美の女神のように美しいらしい。複雑な生まれにあるため、爵位を表に出さないという。
分かっていることはその程度だった。それなのに、誰も彼もが噂の令嬢の話をしている。
そして、その令嬢がやってくるのは、今夜。この夜会に姿を現すというのだ。
そんな喧騒が高まる中、ふっと会場の明かりが消えた。生徒たちは戸惑い、ざわめきが増した。
不意に、会場に設えられた演壇にスポットライトが当てられた。
夜会の会場は突如静寂に包まれた。生徒たちの誰もが言葉を失った。演壇の上に立つ令嬢が、あまりにも美しかったためである。
腰まで届く黄金色の髪は光の中で輝き、その滑らかさはまるでハチミツのようだ。大粒の瞳の色は、静けさに包まれた森を思わせる深い緑。高く形のいい鼻。その下にはバラ色のルージュを引かれた唇が、艶やかとも不敵とも思える微笑みを刻んでいた。
身を包むのは黄色を基調とし、茶で差し色された豪奢なドレス。毒々しくも思える色の取り合わせが上品にまとめられ、彼女の美しさを華やかに演出していた。
アクセサリはあまりつけていなかったが、胸元から下げたネックレスが目を引いた。銀色の細い鎖の先には、小指の先ほどの黒い宝石があった。逆三角形に形どられた黒い宝石は、スポットライトの明かりを受けて神秘的な輝きを放っていた。
その姿はまさに美の女神そのものだ。洗練された貴族の令嬢たちの中にありながら、他を寄せつけぬ隔絶した美しさだった。
「私はファニトゥーラ・トトモータス。今宵からこの学園の生徒となりました。みなさん、よろしくお願いいたします」
よく通る美しい声だった。はやくもうっとりとし始める子息すらいた。
「私は恋を求めてこの学園にやってきました!」
見とれていた子息たちは我に返った。雰囲気に呑まれていた令嬢たちは驚きに目を見開いた。
いくつもの不審と驚愕の視線を受けながら、しかし壇上の令嬢はひるむことなく、太陽みたいに明るい声で自らの望みを高らかに謳い上げた。
「ドラマチックでとろけるように甘い、婚約破棄してでもかなえたい真実の愛を見つけるためにやってきました! このファニトゥーラ・トトモータスを射止めたいという殿方は、どうか真実の愛を教えてくださいませ!」
この言葉にはさすがに生徒たちも驚いた。不快感を示す者すらいた。
学園の公式の夜会の場だ。恋愛に興じる者も少なくはないが、あくまで学園が用意した社交の練習の場だ。ここまで堂々と恋愛について語る生徒など今までいなかったのだ。
だが、すぐに非難の声が上がることはなかった。なぜならファニトゥーラは美しい。この令嬢の愛を勝ち取るには、それこそ恋愛小説で語られる真実の愛が必要だと思えるほどに、美しかったのだ。
誰もが言うべき言葉に迷う中、しかし、ひとつの声が上がった。
「学園へ転入してそうそう、ずいぶんな物言いだな! ファニトゥーラ・トトモータス!」
凛とした涼やかな声だった。その声の元にスポットライトが当てられた。
光の中に浮かび上がったのは、美しい青年だった。
さらりとした銀髪。冴え冴えとしたアイスブルーの瞳。細面の整った顔に、すらりとした長身。纏うのは洗練された式服。その肩に縫われた刺繍は、王家の紋章だ。
「あら、あなたはもしや……」
「私は王国第一王子にしてこの学園の生徒会長フォルサーク・クオルブラードだ」
「貴方がフォルサーク王子。ご高名はお聞きしております」
ファニトゥーラは王子に向けカーテシーを披露した。美しい所作にふわりと舞う金色の髪。その姿はあまりに幻想的で、まるでおとぎ話の一場面のようだった。生徒たちは思わず感嘆の息を漏らした。
だが、そんな彼女の美しさもフォルサーク王子を魅了するには至らなかったようだった。
彼は不機嫌そうに眉をしかめながら話を続けた。
「先ほどは『婚約破棄してでもかなえたい真実の愛』などと言っていたな。ここは貴族の通う名門校だ。自らの立場の重さを忘れ、恋にうつつを抜かす者などいないだろう。残念ながら、ここで貴女の望みが叶うことはない」
フォルサーク王子はキッパリと告げた。
だがファニトゥーラは動じなかった。笑みを浮かべたままに、真っ向から王子に対して言い放った。
「恋とはどんな障害をも燃やし尽くす炎。愛とはどんな闇をも貫く光。本物の恋愛を阻めるものなどこの世にありはしません。私はこの学園で真実の愛に出会えると信じていますわ。
ですが、今宵はここまで。これで失礼いたします」
会場の生徒たちに向けカーテシーをすると、ファニトゥーラは演壇を降り、会場を去っていった。
するとそれに合わせたように会場の明かりが戻った。
フォルサーク王子は呆れたように肩をすくめた。
生徒たちは戸惑うばかりだった。
そして、ファニトゥーラの学園生活が始まった。
衝撃的な『恋愛宣言』をした彼女だったが、学業に対しては模範的な優等生だった。授業中は実に集中して聞き入り、授業が終われば講師に積極的に質問した。学園の教師陣も驚くほどの勤勉さだった。
夜会の『恋愛宣言』では夢見がちに見えたファニトゥーラだったが、学業においては実に理知的だった。どの授業も真面目に受けていたが、数学と経済に熱を入れているようだった。特にお金に関する話になると、授業ばかりではなく生徒同士の談話でも、極めて現実に即した考えを見せた。
学園に通う生徒の多くは裕福であり、金銭についての認識が甘いのが普通だ。ファニトゥーラの現実的な金銭感覚は、まるで街の商人のようだった。
また、ファニトゥーラは社交的でもあった。あんな『恋愛宣言』をしたのだから、学園の令嬢たちは警戒して距離を取っていた。だがファニトゥーラはそんな微妙な距離感を全く気にせず、積極的に話しかけ、紅茶の場には進んで参加した。
あれほどの美貌を持ちながら、ファニトゥーラはそれをまるで鼻にかけなかった。きちんと礼儀こそ守っていたものの、その気さくさな態度はまるで町娘のようだった。
そんなファニトゥーラだったが、爵位の話になるとはぐらかした。
ファニトゥーラの姓はトトモータス。そんな姓の貴族は彼女のほかに王国内には存在しない。そうすると、ファニトゥーラは遠国の貴族か、あるいは偽名を使っているのかもしれない。あの美貌に加えこの学園に入学が許されたことからすると、まさか平民と言うことはありえない。身に着けた礼儀作法も確かなものだった。
ファニトゥーラは普段の何気ない会話でも、出自をうかがわせるようなことを口にしなかった。その徹底した秘密主義からは、複雑な事情が垣間見られて、無理に聞こうとする者はすぐにいなくなった。
自分の爵位を明かさないためか、相手の爵位もあまり気にしていないようだった。礼節はきちんと守るが、身分の上下に関わらず分け隔てなく接した。
不思議なところはある。しかし理知的で話しやすく、なにより美しい。彼女はあっという間に学園の生徒たちに受けいられていった。
華やかな美貌に美しい金色の髪。その奥に秘めた理知的な鋭さ。それらのことから、やがてファニトゥーラは『楽園の麗しきミツバチ』と称されるようになった。
普段のファニトゥーラは優等生であり、とても『恋愛宣言』など言いそうには思えない。だがあの夜のことは一時の気の迷いだったかと言えば、どうもそうではないらしい。
その輝かしい美しさに惹かれて、交際を申し込む子息は何人も現れた。ファニトゥーラは最初のうちは日に何度も、学園のあちこちに呼び出され告白された。
しかしその告白は一度として成就しなかった。ファニトゥーラはいつも決まってこんなセリフで断るのだ。
「残念ですが、そんな当たり前の告白で私の心は動きません。婚約破棄するほどのドラマチックな恋をご用意ください」
普段は気さくな態度で応じるファニトゥーラだったが、こと恋愛に限っては頑なだった。相手の爵位も美しさも、学力や魔力の高低も関係なかった。甘い言葉も高級な贈り物も、彼女はまるで受けつけなかった。ただ求めるのは「婚約破棄するほどのドラマチックな恋」だったのだ。
こうしたことが続き、やがて学園にはひとつの新たな噂が広まることなった。
「美貌の令嬢ファニトゥーラは、婚約破棄した子息以外と付き合うことはない」
たぐいまれな美貌を持ちながら、理由もなく異性に近づこうとすらしない。誰かと付き合う気配すらない。普段のファニトゥーラは潔癖とすら言えた。それは恋愛に対して真剣なためと受け取られた。だから噂は真実なのだと、ほとんどの生徒が信じるに至ったのだった。
「私は真実の愛を見つけた! 君との婚約を破棄させてもらう!」
ある日の学園の夜会。とうとう本当に夜会で婚約破棄を告げる者が現れた。
誰もが現実にあることだとは思っていなかった。貴族であるからこそ、婚約と言う家同士の契約の重要性を理解している。婚約を破棄するなら家同士の協議が先であり、当人の感情など押し殺すのが貴族としての義務だ。
だがついに、夜会で婚約破棄を宣言する者が出てしまった。
婚約破棄を宣言したのは伯爵子息カティアード・イントルアープ。金髪に凛々しい翆緑の瞳の青年だ。彼はかねてより婚約者との不仲が噂されていた。
学業にも優れ、魔力も高く、容姿も優れている。自分ならばあの『楽園の麗しきミツバチ』に相応しいと、彼は己の才覚を信じて決断してしまったようだった。
崩れ落ちる婚約者に背を向けると、伯爵子息カティアードはファニトゥーラの元へと悠然と歩み寄った。そして彼女に向け、決然と告げた。
「ファニトゥーラ・トトモータス! 君に捧げる愛こそが、私の真実の愛だ! どうか受け取ってほしい!」
その言葉を受け、ファニトゥーラは嫣然と微笑んだ。
彼女はカティアードの耳元にそっと口を寄せた。突然の接近に身を固くするカティアードの手を取ると、そっと紙片を握らせた。
「お見事な婚約破棄でした。この手紙に日時と場所が書いてあります。どうか時間通りにお越しください。そこであなたの告白にお答えいたします」
そう告げると、ファニトゥーラはすうっとカティアードの元を離れた。そして春風のように軽やかに、夜会の会場を後にした。
カティアードは彼女を呼び止めることもできなかった。あの美しい令嬢が自分の耳元で自分だけに言葉を囁いてくれた。その事実に身体は甘く痺れ、一歩も動くこともできなかったのだ。
三日後の放課後。研究室や資料室などが配置された学園の別棟。その廊下で、伯爵子息カティアード・イントルアープは懐中時計を何度も確認しながら歩いていた。
あの夜会の夜。ファニトゥーラの渡してきた、小さく折りたたまれた手紙。そこに記され時刻まであと5分。場所はこの別棟の一室で間違いないはずだ。
手持ちの中で一番上等な式服を着てきた。王家主催の晩餐会にも出席できる立派な装いだ。彼の内面もまた、王の御前に出るのと同じくらい緊張していた。
早すぎても遅すぎてもいけない気がした。時計を見ながら慎重に歩く速度を調整し、そして指定された部屋の前まで来た。
初めて来る部屋だ。この辺は資料室ばかりのはずで、近くに来る機会すらなかった。転入して間もないファニトゥーラが選んだ場所には少しおかしくも感じられる。だが、この扉の中に待つ令嬢のことを思うと、そんな心配は些事に過ぎなかった。
深呼吸して興奮に乱れた息を整えると、意を決して扉をノックした。
「どうぞ」
涼やかな声が返ってきた。
カティアードは顔に抑えきれない歓喜を顔ににじませながら、扉を開いた。
「やあ、ファニトゥーラ。あの日の告白の返事を……」
挨拶の言葉は途中で止まった。資料室だったと思しき飾り気のない一室。そこに置かれた大きなテーブルに着いているのは、ファニトゥーラひとりではなかったのだ。
銀髪の下、アイスブルーの瞳が冷たく光る。王国第一王子フォルサーク・クオルブラードがいた。
「よく来たね、伯爵子息カティアード・イントルアープ。まずは席に着きたまえ」
フォルサーク王子に促され、カティアードはソファーに座った。
大き目のテーブルを挟み、向かい側にフォルサーク王子とファニトゥーラが並んで座っていた。並んでいると言っても間隔が開いている。親しさは感じられなかった。
告白の返事を受けるはずだった。ファニトゥーラがひとりでいるものと思い込んでいた。ここに王子がいる理由は何だろう。思いめぐらすうちに、カティアードは閃いた。
ファニトゥーラは、フォルサーク王子からも求愛を受けていたのかもしれない。あの美貌であれば十分にあり得ることだ。
ならばここは告白を受ける場ではなく、婚約者を勝ち取る決戦の場なのかもしれない。
カティアードは王族相手でも引く気はなかった。夜会で婚約破棄を宣言した彼に、もはや後退するという選択肢などないのだ。
「初めに説明しておこう。この部屋は防音の魔法が施してある。会話が外に漏れることはない。扉の前は騎士に見張らせている。話の途中で邪魔が入ることはない」
フォルサーク王子の淡々とした言葉にぎょっとした。防音の魔法ばかりか騎士まで配置してあるとは、ここは入念な準備の下に作られた場のようだ。カティアードは思わず振り向いて確かめたくなったが、かろうじて抑えた。今は目の前の事態を把握することが重要だった。
「まず、残念なお知らせがある。君の告げた真実の愛は偽りだ」
まだ状況を呑みこめ切れず、聞きに回っていたティアードだったが、さすがにこの言葉には黙っていられなかった。
「私の愛に偽りなどありません!」
「……失礼した。言い方が良くなかった。君の向けた愛は確かに純粋なものなのかもしれない。だが、『向けられた相手が偽り』なのだ」
迂遠な言葉を受け、カティアードはいぶかし気に顔をしかめた。思わずファニトゥーラに目を向けた。金色の髪の美しい令嬢。出自はわからず爵位も明かさない謎の多い令嬢ではあるが、この美しさは高貴な生まれに違いない。真実の愛を向けるのに何の問題もない。はたしてどんな偽りがあると言うのだろうか。
「ファニトゥーラ。ネックレスを外すんだ」
「はい」
フォルサーク王子に促され、ファニトゥーラはいつもつけていた黒い宝石のネックレスを外した。
すると、どうしたことだろう。美しい令嬢は、たちまちその輝きを失ってしまった。
あの美しい金髪は、くすんだ薄茶の髪へと変わった。高かった鼻は低くなり、大粒の緑の瞳は少し細めの茶色の瞳になった。顔の作りもまるで違う。特に悪いところはない普通の顔だ。だがそこに、ファニトゥーラの完璧な美しさは無かった。
『楽園の麗しきミツバチ』と称えられた令嬢ファニトゥーラ・トトモータスはいなくなった。そこにいたのは、晩餐会で見かけたとしても記憶に残らないような、少し地味な令嬢だった。
カティアードはあまりの衝撃に息を乱した。動機も激しくなり、身体中から嫌な汗が噴き出た。
わけがわからない。先ほど王子の告げた『偽り』という言葉が、鉛となって身体にのしかかる錯覚を覚えた。
「こ、これはどういうことなのですか……!?」
「あのネックレスは幻覚の魔道具『違法なまでに彩られた異彩』。その効果は見ての通り、容姿を変えるというものだ」
「げ、幻覚の魔道具!? 私は騙されたというのか……!?」
カティアードは令嬢に目を向けた。いくら見つめても、その地味な姿からあの美しい令嬢の面影すら見いだせなかった。
地味な令嬢は気まずそうに目をそらした。
カティアードはがっくりと頭を垂れた。人生をかけた恋のはずだった。婚約破棄の宣言までもした。その相手は、魔道具で美しさを偽っていたのだ。真実の愛と信じた想いは、空虚な残骸へとなり果てた。
「……王子。なぜこんなひどいことをなさるのですか?」
絶望に打ちひしがれたカティアードの問いかけは、まるで老人のようにしわがれていた。
そんな彼の有様に眉一つ動かさず、アイスブルーの瞳で冷たく見つめながら、フォルサーク王子は淡々と語りだした。
「かねてより、学園の風紀の乱れは目についていた。表ざたにはなっていないが、恋愛にかまけて家の立場を忘れ婚約を解消する生徒も少なくなかった。いずれ本当に婚約破棄の騒動が起きかねない状況だった。
そこで『ファニトゥーラ・トトモータス』という偽りの令嬢を作り出した。それによって恋に浮かれた子息をあぶりだし、『安全に婚約破棄をさせる』ことにしたのだ」
「安全……? どういう意味ですか?」
「君の婚約破棄の宣言は夜会で行われた。しかし所詮は学園という閉鎖環境での出来事に過ぎない。学園内の情報を封鎖することはそう難しいことではない。
あの婚約破棄は外には漏れていない。君の婚約はまだ成立している」
「婚約がまだ成立している……!? 私の人生を賭けた婚約破棄が、無効にされたというのですか!?」
「虚構の人物に、実体のない愛をささげるための婚約破棄など、なんの意味があるだろうか。そんなもので貴族の家同士の契約を無くせるはずが無いだろう」
酷薄に告げるフォルサーク王子の言葉に、カティアードはもはや怒ることも悲しむこともできなかった。ただ茫然とするばかりだった。何もかも王子の計略の中のことだったのだ。人生を賭けた決意は無意味だった。見つけたはずの真実の愛は間違いだったのだ。
その無残さに打ちひしがれ、カティアードは感情を表に出すことすらできないのだ。
「だが、婚約破棄を宣言したことは、君の家には伝えさせてもらう。おそらくは穏便な婚約解消となるだろう。君の婚約者にも後で事情を説明する手はずだ。
『ファニトゥーラ・トトモータス』にはまだ働いてもらう必要があるため、この件についての口外は禁止だ。このあと、別室で『魔術宣誓書』に署名してもらう。用件は以上だ。さあ、もう退室したまえ」
王子に促されるまま、カティアードは立ち上がり、部屋の扉へと向かった。絶望に染まった顔を伏せ歩む姿は、まるで亡霊のようだった。
だが、その歩みを止める者がいた。
薄茶色の髪の地味な少女。ファニトゥーラ・トトモータスを演じていた令嬢だった。
「カティアート様! 顔を上げてください!」
令嬢は素早くカティアードの前に回りその手を取ると、まくしたてた。
「あなたは婚約破棄と言う人生に関わる決断をしました! その想いは叶いませんでしたが、普通の人にはなかなかできない決断をしたのです! それはすごいことです!
あなたはここで終わりではないのです! 進むためには俯かず、前を見なくてはならないのです!」
絶望に打ちひしがれていたカティアードだったが、さすがにこの言葉には胸がカッと熱くなった。どうやら自分を励ましていてくれているらしいことはわかる。だがよりにもよって、騙した本人が励ますなど、どれだけ自分のことをバカにしているのか。
俯いていた顔を跳ね上げ、目の前の令嬢を睨みつけようとした。だが、彼女と目が合った途端、カティアード息を呑んだ。ぞっとするほど真剣な瞳だった。
そこには騙された者を嬲る悪意はなく、愚かな子息を見下す冷たさもなかった。魂までも探るような、まっすぐで鋭い目だった。
この令嬢は本気で励ましている。そのことを理解しても、それでも受け入れられなかった。彼女がどんな人間でどんな意図で励ましの言葉をかけてきたとしても、この場でその憐みを受け入れれば、本当に何もかも失ってしまうように思えたのだ。
カティアードは彼女の手を振り払って叫んだ。
「お前に言われるまでもない! 私は伯爵子息だ! こんなことで終わったりするものか!」
カティアードは令嬢に背を向けると、肩をいからせながら部屋を出た。外で見張っていた騎士に促され、カティアードは別室へと案内された。彼はこれから魔術誓約書で、ファニトゥーラ・トトモータスの秘密を明かさない宣誓をさせられるのだ。
カティアードが去った後。フォルサーク王子は不快気な顔で、ファニトゥーラだった令嬢――クレーヴェリア・シンウォレートに問いかけた。
「この策略は、恋に浮かれた子息を戒めるためのものだ。その子息を励ますとはどういうつもりだ? ファニトゥーラ……いや、男爵令嬢クレーヴェリア・シンウォレート」
扉の方を見ていた地味な男爵令嬢クレーヴェリアは、問いかけに振り向いた。その顔には悪びれた様子もなかった。
「もったいないと思ったのです」
想定しない答えが返ってきて、フォルサークは目を瞬かせた。
「何がもったいないというのだ?」
「カティアード様の伯爵家は綿の生産と加工に長けています。基幹産業の一部を担う伯爵家は、王国内の有力貴族の一つです。
婚約破棄の失敗と言う痛手は小さくはありません。ですがそれほど立派な伯爵家のご子息なら、いくらでもやり直すことができるでしょう。
それがただ一度の失敗でつぶれてしまうなど、こんなにもったいないことはありません」
フォルサークは呆れたようにため息を吐いた。
「あんな愚かな子息のことをよく調べたものだな」
「求婚してきた相手の身辺を知ることは、貴族令嬢のたしなみです。特にわたしのような弱小男爵の令嬢としては、相手の爵位と状況を知らなくては怖くて口を開くこともできません。今程度の情報なら、クラス全員分把握しています」
「そこまで頭が回るのに、なぜ励ますようなことを言ったのだ? 今回の策略は、恋愛に浮ついた子息を切り捨て、生徒たちへの戒めとするためのものだ。君の言動はその主旨に反することではないか?」
「カティアード様は十分に懲りたでしょう。婚約破棄しても恋愛が成就しなかったことは、生徒たちを諫めることにもなります。策略の目的は既に十分達成できています。
そうならば、有力貴族をただ絶望に沈んだままにしておくのは、ただの損失です。先ほども申し上げたように、それはもったいないことだと思うのです」
「なるほど、そういうことならわからなくもない。だがなぜ、わざわざ怒らせるような言い方をしたのだ?」
「絶望に打ちひしがれた者を動かす方法は二つ。優しさで希望を見せるか、挑発して怒らせるかです。私の立場でできるのは、怒りで奮起させることだけでした」
「それでも、むやみに男を怒らせるものではない。怒りに呑まれ暴力に訴えてきたら、君の身が危ないではないか」
身を案じる言葉に、クレーヴェリアはにこりと微笑みを返した。
なぜだかフォルサークには、その笑顔がひどく冷たく思えたのだ。
「ありがとうございます。でも、仮にわたしの身に何かあったとしても、王子は適切に『処理』してくださるのでしょう?」
「ああ、無論だ。君は何も心配することはない」
『処理』という言葉にひっかかりを覚えたが、フォルサークは彼女を不安にさせまいと言葉を返した。
「それでは、これで失礼いたします」
そう言うと、クレーヴェリアは再び『違法なまでに彩られた異彩』を首から下げた。たちまち彼女の薄茶の髪は金色になり、『楽園の麗しきミツバチ』と称される美しい令嬢、ファニトゥーラへと姿を変えた。
魔道具が十分に機能していることを確認すると、ファニトゥーラは部屋から去っていった。
部屋に残されたフォルサークはため息を吐いた。
クレーヴェリアは「経済的に困窮している男爵令嬢」ということで今回の策略に抜擢した。だが彼女は、フォルサークの予想以上に聡明で意志の強い令嬢であるようだった。
発端は、魔法省の魔道具開発局からの要望だった。
魔道具開発局は新たに開発した魔道具『違法なまでに彩られた異彩』を、学園という実地で試したいと申し出てきたのだ。
高位貴族も在籍する学び舎で、見た目を偽る魔道具の実験など許されるはずもない。だが、ある日偶然、第一王子フォルサークはこの要望を目にした。要望書に記された「この魔道具を使った令嬢は、婚約破棄してでも結婚したくなるほど美しくなる」という宣伝文句を見て、ある策略を閃いたのだ。
学園の生徒会長を務めていたフォルサークは、かねてより学園の風紀の乱れを憂いていた。昼休みになれば中庭や食堂のそこかしこで、仲睦まじく過ごす令嬢と子息が目についた。婚約者同士ならまだいいが、高位貴族が何人も令嬢を引き連れているとなると看過できない。
あまり表ざたにはなっていないが、学園内での恋愛によるトラブルはいくつも報告されていた。中には婚約解消に至ったものまであった。
風紀を保つため厳しく取り締まりたいところだったが、あまり強硬策には出られない。学園は勉学のためばかりでなく、社交を学ぶ場でもある。男女の付き合いもその一環であり、過度に規制すると他の貴族からの反発を招く可能性が高かった。
そこで思いついたのが『婚約破棄誘発の策略』である。
美しい令嬢によって、婚約破棄を煽る状況を作り出す。そして本当にそれに乗っかって婚約破棄した愚かな子息には、恋した相手が魔道具による偽物だと告げて諫める。婚約破棄までした恋愛が無残な結果に終わるのを見れば、恋愛にうつつを抜かす生徒たちも目を覚ますことだろう。
『違法なまでに彩られた異彩』を使えば可能なはずだった。
実現するにあたって問題となったのは、誰に『美しい令嬢』を務めてもらうかということだった。
魔道具で外見はいじれても、年齢まではそうごまかせない。こんな憎まれ役を買って出る年頃の令嬢などそうそういるものではない。
加えて『違法なまでに彩られた異彩』には大きな欠陥があった。
この魔道具は美しさを劇的に向上させる代わりに、使用者と契約しなくてはならないという制約を持つ。契約者専用の魔道具であり、他の者が使うことはできない仕様なのだ。それ自体はさほど問題ないのだが、この契約には大きな代償が必要となる。
この魔道具と契約した者は、魔力が半減する。
その効果は永続的であり、使用を止めて契約を解除したとしても半減した魔力は戻らないのだ。
魔力の高さは貴族にとって重要なステータスだ。家を継ぐにあたり、家柄の次に気にすべきは魔力と言われるほどである。それが半減するともなれば、望んでつけようとする貴族などまずいない。
かと言って、平民を使うのも難しい。この魔道具の効果を得るにはある程度の魔力が必要となる。多くの平民は魔力が低く、起動すらできない。魔力の高い平民は魔法職に就いているため容易には協力してくれないだろう。
それに平民を使うなら貴族の礼儀作法を一から習得させなければならない。貴族の礼節と言うものは一朝一夕に身に着くものではなく、手間も時間もかかることになる。
この策略は実現不可能か……そうあきらめかけたとき見つかったのが、シンウォレート男爵家の二女、クレーヴェリア・シンウォレートだった。
シンウォレート男爵家はこれといった特産品のないささやかな領地を持つ弱小貴族だった。もともと資金繰りには苦労していたが、ここ数年は凶作が続き、没落の危機に瀕していた。
男爵家には5年間の資金援助と生産物の優先買い付けを報酬として話を持ち掛けた。王国にとっては小さな領地を少しばかり優遇するだけの大したことのない支出だ。しかし男爵家にとってはこれ以上ない救いの糸だった。
男爵家は依頼を受け、家督と関係ない次女を差し出した。
それがクレーヴェリア・シンウォレートだ。
こうして男爵令嬢クレーヴェリアは、『婚約破棄誘発の策略』のヒロイン、ファニトゥーラ・トトモータスを演じることになったのだった。
ある日の放課後。フォルサークは学園の庭に設えられたテラスの一席でお茶を楽しんでした。
以前はこのテラスはカップルに人気の場所で、そこかしこで仲睦まじく過ごす子息と令嬢がいた。
だが、今はすっかり落ち着いたものである。
ファニトゥーラの転入から半年ほど経った。その間に婚約破棄を宣言した者は実に7名にも及んだ。
最初の婚約破棄。伯爵子息カティアードの恋愛は成就しなかった。生徒たちの多くはカティアードに非があったのだと受け止めていた。そもそもが夜会の場で堂々と婚約破棄するなどと言う非常識なことをやってのけたのだ。悪い印象を持たれるのは当然とも言えた。
ファニトゥーラが非難されることはほとんどなかった。これは実に驚くべきことだ。婚約破棄までして愛を告げてきた相手を振るなど、反感を持つ者も少なくないはずだ。
だが、ファニトゥーラはその美しさを鼻にかけず、気さくで人当たりがよい。多くの学生に好感を持って受け入れられた彼女は、この状況ですら糾弾されない立場を築いていたのだ。
だがこれは、歪な状況ではあった。ファニトゥーラの美しさに魅了された子息たちは、そんな状況のためか、徐々に考えを歪ませていった。
彼らは伯爵子息カティアードの真実の愛が受け取られなかったのは、ドラマチックさが足りないせいだと考えた。より印象的な婚約破棄をすればファニトゥーラを射止められるに違いない――そんなおかしな考えに囚われて、奇抜な婚約破棄が繰り広げられた。
音楽団を引き連れ演奏をバックにオペラのように婚約破棄。
生徒集会で委員会からの報告に見せかけていきなり婚約破棄。
張り出された試験結果の前で優秀な成績を自慢してからの婚約破棄。
登校時に廊下の角でわざと婚約者にぶつかりその糾弾からの婚約破棄。
魔法研究の発表の場で見事な論文を披露した後の流れに乗って婚約破棄。
屋上から飛び降りて巧みな飛行魔法の制御で華麗に着地してからの婚約破棄。
おかしな方向に工夫を凝らした様々な婚約破棄が繰り広げられた。だがどれだけ奇抜な婚約破棄をしようと、ファニトゥーラはそもそも偽りの存在だ。彼らの語る真実の愛が成就することなどなかった。
子息を処断した後。ファニトゥーラことクレーヴェリアは毎回、子息に対し励ましの言葉をかけた。みな憤慨しファニトゥーラの言葉を受け入れなかった。ほとんどが学園をやめたることになったが、絶望に沈み家に引きこもったという噂は聞かない。クレーヴェリアの「もったいない」という思想は、どうやら損失を最小限にすることができたようだった。
そんな婚約破棄が繰り広げられる状況の中、フォルサーク王子は学年の集会で事あるごとに生徒たちを戒めた。
「貴族が恋愛にうつつを抜かして失敗するのは当たり前のことだ。家の立場をわきまえた立ち振る舞いこそが貴族というものだ」
あまりに当たり前の訓示だった。普段なら生徒たちの心に響くことは無かったことだろう。だが恋愛に溺れて無残に失敗した実例がいくつもある状況下では効果的だった。
風紀の乱れは次第に収まっていった。今では令嬢も子息も、恋愛に浮つくこともなく穏やかに学園生活を過ごしている。
「ファニトゥーラは本当によくやってくれているな……」
フォルサークは思わずそんなつぶやきを漏らした。
学園のテラス。少し離れた席に彼女の姿があった。数人の令嬢たちと穏やかに談笑しているようだった。
不思議な令嬢だった。損な役回りだ。『違法なまでに彩られた異彩』との契約による魔力の半減も決して小さくないハンデだ。
しかしファニトゥーラにはそれを気にした様子すら見えない。
あの日、転入初日の夜会での『恋愛宣言』。あれは事前に用意した台本を読み上げただけだ。その先の行動は細かく指定していない。『違法なまでに彩られた異彩』の作り出す美しさなら小細工は不要と考えられたためだ。
男爵令嬢クレーヴェリア・シンウォレートは、家が没落の危機に瀕しており、学園に通うだけの費用すら捻出できなかった。
それなのに、ファニトゥーラに変じた彼女は、熱心に学業に励み、積極的に交友関係を拡げ、学園の誰よりも学園生活を謳歌している。そして『楽園の麗しきミツバチ』と呼ばれ、7回の婚約破棄に関わりながらも未だに多くの生徒たちから好ましく思われている。
あるいは、このままでいいのかもしれない。既に婚約破棄の騒動は7回もあった。混乱は落ち着き、風紀も保たれている。彼女にはこのまま卒業まで『楽園の麗しきミツバチ』として過ごしてもらうのもいいかもしれない。
そんなことを思っていた時だ。
急にファニトゥーラが席を立ち、こちらに向けて歩いてきた。フォルサークは胸がざわめくのを感じた。
「フォルサーク王子。内密にお話したいことがあります。少しお時間をいただけないでしょうか?」
ファニトゥーラはどこかよそよそしかった。
だがそれは当然のことだった。『婚約破棄誘発の策略』が露見しないため、学園内では接しないようにしている。学園内で会話したことは片手で数えられる程度だ。
彼女のよそよそしさは、交流の少ない王子に対する態度として、何も問題ない。
「ああ。今日は特に予定はない。『楽園の麗しきミツバチ』の相談ともなれば、断る理由もない。それでは場所を変えようか」
フォルサークもまた、距離を取った応対をした。
頭ではそれが正しいこととわかっている。それなのになぜだか、寂しさを覚えた。
フォルサークとファニトゥーラの二人は普段は人通りのない校舎裏の一角へと訪れた。念のために気配探知の魔法を使ったが、周囲には誰もいないようだった。
万全を期すならどこかの空き部屋を確保して騎士を見張りに配置することもできる。しかし、そこまでするとそれはそれで生徒たちから妙な誤解を受けかねない。校舎裏に来るぐらいがちょうどいいのだった。
「学園内ではむやみに接触をとるなと言っておいたはずだ。用件は何だ?」
そっけない言葉を投げながら、フォルサークは何かを期待していた。
ファニトゥーラからは普段、定められた秘密の経路で報告を受けている。何か用件があるのなら報告に記せばいいはずだ。わざわざ人目のあるところで話しかける理由などないはずだった。
「実は、友人たちに王子とお話しするように勧められてしまいまして……」
「……どういうことだ?」
「私は転入して早々に『恋を求めてこの学園にやってきました』なんて言ったじゃないですか。それなのに、婚約破棄した子息の告白を受けても応じない。誰とも付き合おうとしない。彼女たちも心配になったのでしょう。
相応しい相手はフォルサーク王子以外にあり得ない、一度声をかけてみるべき……そんな感じで話が盛り上がってしまいました。今までも何度かそういうことがあって、そのたびにはぐらかしてきたのですが、そろそろごまかすのも限界になってきたのです」
「それでわざわざ内密に話を、というわけか?」
「ご足労をおかけして申し訳ありません」
ファニトゥーラはぺこりと頭を下げた。
事情は理解した。フォルサークからしてみれば、なんだか肩透かしをくらった気分だった。
「それでどうする? 学内で交流を持つようにすべきだろうか。その方が都合が良いのであれば、協力してもいい」
意識せず、そんなセリフが出てきた。だが悪くない考えだった。第一王子との交流が始まれば、ファニトゥーラは更に注目を浴びる。ひっかかる子息も増えるかもしれない。フォルサークはそんな後付けの理由を思いついた。
だが、ファニトゥーラはぷっと噴き出した。
「まさか! そんな畏れ多い! 友人たちには『私のような出自の明らかでない令嬢など、王子は相手にしてくださいませんでした』とでも伝えておきます。それでこの件はおしまいです。
でもすぐに戻っては少々不自然です。ご面倒をおかけしますが、今しばらくお付き合いください」
「そ、そうか……」
フォルサークはほっと息を吐いた。なぜ自分が安堵しているのかよくわからなかった。
そして、二人して黙ってしまった。まさかこの場で『婚約破棄誘発の策謀』について話をするわけにもいかない。偶然誰かが聞いてしまうというのはありうることだ。
だがそうなると、何を話せばいいのかわからない。ファニトゥーラとは私的な会話をしたことがないことに、フォルサークは今更気がついた。
だが、このまま何も話さず過ごすのも不自然だし居心地が悪い。とりあえず天気の話から切り出そうと決めたところで、ファニトゥーラが先に口を開いた。
「そろそろ潮時なのかもしれません」
「何のことだ?」
「『ファニトゥーラが学生を続けること』です。実際のところ、友人たちは私のことが邪魔なのだと思います」
「邪魔だと? 君はうまくやっているではないか。正直なところ、半年も続けられるとは思わなかったぞ」
もともと『婚約破棄誘発の策略』はもっと短期間の計画だった。学園を乱したファニトゥーラは、やがて非難の的になる。そうなったところでファニトゥーラは家の複雑な事情により自主退学するという筋書きだった。
ところがファニトゥーラは円満な人間関係を構築し、非難されるどころか擁護されるほどだった。だからこそ、彼女を学園にとどまらせることを考え始めていたのだ。
胸に下げた黒い逆三角形の宝石。『違法なまでに彩られた異彩』をいじりながら、ファニトゥーラは困り顔でつぶやいた。
「学園でもトップクラスの美貌を備え、恋愛の素晴らしさを唱えるのに特定の相手と付き合わない。人当たりがいいのに深く相手と関わろうとしない。友人として好ましくとも、恋敵として見れば不気味で恐ろしい存在です。
私のことをミツバチとはうまく例えたものです。どれほどかわいらしく見えようと、ハチの多くは毒針を持つのですから……」
ファニトゥーラは王子の目をじっと見つめた。感情の見えない理性的な目だった。フォルサークはなぜだかその目で見つめられるのが嫌だった。
「私はそろそろ『転校』すべきなのではないでしょうか」
『転校』とは『婚約破棄誘発の策略』の符丁の一つだ。計画の終了を意味する。転校を理由に学園を去り、『違法なまでに彩られた異彩』を手放せば、ファニトゥーラ・トトモータスという令嬢は永遠に消え去るのだ。
ファニトゥーラの提案は理にかなったことだった。本来、学園の輪を乱す令嬢は、長居すべきではないのだ。
「もう7人もの子息の告白を拒絶しました。学園の風紀も、転入した頃よりずいぶん改善したと思われます。あとはファニトゥーラという不穏分子がいなくなれば、学園は平穏を取り戻すでしょう」
フォルサークは、恋に浮かれた子息など切り捨てればいいと考えていた。当初の計画では3人程度の子息を処断するつもりだった。だが策略は半年にも渡って続き、7人もの子息を処断することになった。十分だ。過剰とすら言える成果だ。
ファニトゥーラの提案は正しいものだった。
「ファニトゥーラ。君は私の期待以上に優秀だ。できることならこのまま学園にとどまってほしいと思っている。この学園で優れた教育を受けることは、君の将来のためにも価値があることのはずだ」
気づけばそんな言葉を口にしていた。フォルサークは第一王子だ。このまま順当にいけば王に即位することになる。そうしたら、ファニトゥーラの正体、男爵令嬢クレーヴェリア・シンウォレートと会う機会などなくなるだろう。
彼女は有能な令嬢だ。失うのは惜しいと思えた。そんな考えから出た言葉だった。
だが、フォルサークの言葉を受け、ファニトゥーラは表情を硬くした。
「……わかりました。王子がそういうご意向ならば従います。最後までファニトゥーラとして学園生活を送って見せます」
冷たい声だった。
何かを決定的に間違えた。そう感じた。だが何を間違えたのかわからない。
フォルサークは思わず彼女をとどめようと、手を伸ばそうと思った。しかしそれより早く、ファニトゥーラは離れてしまった。
「それではこれで失礼いたします。友人には振られたと伝えますので、くれぐれも学園内では私に近づかないようお気をつけください」
一方的に拒絶の言葉を告げると、ファニトゥーラはさっさと立ち去ってしまった。一声かければ彼女を立ち止まらせることはできたはずだ。だが、フォルサークはどんな言葉で呼び止めればいいかわからず、その場で立ち尽くすばかりだった。
とにかく、ファニトゥーラは学園にとどまることになったのだ。学園内で話すことはできなくても、報告を通じて連絡を取ることはできる。学園外で呼び出せば直接話すこともできる。数日おいてから、また話をすればいい。そんな風に考えていた。
だがそれは甘い考えだった。
翌日の昼下がり。ファニトゥーラが突如襲われ、凶刃に倒れたとの報告が来たのだった。
「ファニトゥーラは無事か!?」
知らせを受けると、フォルサークはすぐさま彼女の運ばれた医務室へと向かった。道中、配下の騎士から一命はとりとめたと聞いてはいた。だがそれでも、自分の目で確かめるまでは安心などできなかった。
「あ、王子。来て下さったのですか」
ファニトゥーラは――いや、魔道具『違法なまでに彩られた異彩』を外し、元の姿に戻ったクレーヴェリアの声に迎えられた。
医務室の中クレーヴェリアはベッドの上で身を起こしていた。その前には椅子に腰かけた魔法以外ある。どうやら問診かなにかの最中だったようだ。
ファニトゥーラの正体について、生徒たちには知られてはならないことではあったが、学園長や主要な教師には事前に伝えてある。魔法医も事情を知る一人だった。
だが今はそんなことよりクレーヴェリアの容体が心配だった。『違法なまでに彩られた異彩』を外しているのは回復魔法をかけるためだろう。治療において幻覚系の魔道具は厳禁だ。
大丈夫そうに見えるが、容体をきちんと聞くまでは気を抜けない。
「彼女の容体は!?」
「ご安心ください。今はもう大丈夫です」
「そうか……ナイフで刺されたと聞いたが、どんな傷だったのだ?」
「腹部をナイフで刺されたようです。重要な臓器を傷つけるほど深い刺し傷で、もし手当てが遅れれば命も危うかったかもしれません。
ですがナイフで刺された直後に、彼女自身が強力な回復魔法を使ったようです。医務室についたころにはおよそ6割は回復していました。あとは私がかけた中級の回復魔法で、傷口は完全に塞がりました」
「そ、そうか。それはよかった……」
クレーヴェリアが回復魔法を使ったというのは意外に思えた。彼女の魔力はもともと並程度だった。しかも『違法なまでに彩られた異彩』の契約で半減していたはずだ。
それでも、まずは命の心配がないと聞いて、フォルサークはようやく安堵の息を吐いた。
クレーヴェリアの方を見た。なぜかひどく冷めた顔をしていた。
「先生。これから王子と内密の話がありますので、少し席を外していただけないでしょうか?」
だしぬけにクレーヴェリアはそんなことを言い出した。これには魔法医も戸惑いの声を上げた。
「い、いけません! いくら傷口がふさがったからと言って、ケガをしたばかりの生徒から離れるなんてできません!」
「大丈夫です。先ほどもご確認いただいたように、出血も軽微でしたし、不調はありません。
王家の計画に関する内密な話があるのです。どうかご理解ください」
「……わかりました。傷口自体は完全に塞がりましたが、貴女は怪我をしたばかりなのです。何か異常を感じたら、すぐに呼んでくださいね」
魔法医には『婚約破棄誘発の謀略』に協力するよう予め話を通してある。逆らうことは王家に叛意をもつとみなされる。それを盾にされれば、退くしかないようだった。
だがわからない。クレーヴェリアがケガをした直後に自分と二人きりで話をしたがる理由など、フォルサークには見当もつかなかった。
彼女のことを心配しながらも、魔法医は部屋を立ち去った。
「クレーヴェリア、本当に大丈夫なのか? 謀略についての話があるとしても、別に無理することはない。ゆっくりと身体を休めるんだ」
フォルサークの気遣う言葉に対し、クレーヴェリアはわざとらしいくらい大きなため息を吐いた。
呆れ返ったかのような仕草にフォルサークは戸惑った。
そんなフォルサークをじろりと見ながら、クレーヴェリアは苛立たし気に口を開いた。
「……それ、もうやめてください」
「何をやめろと言うのだ?」
「わたしを心配する演技ですよ。二人っきりなのですから取り繕う必要はありません。筋書きはとっくにわかっているのです」
「筋書き? いったいなんのことだ? 君は何も言っているんだ?」
「だからっ……! 恨みを買ったファニトゥーラが、凶刃に倒れて学園を去る! それで『婚約破棄誘発の謀略』の幕引きとする! そういう筋書きなのでしょう!?」
フォルサークは絶句した。クレーヴェリアは、彼の画策により刺されたと言っているのだ。
何かの悪い冗談かと思った。怪我をして混乱しているのかもしれないとも思った。
しかしクレーヴェリアは、フォルサークが医務室に入った時から落ち着いた様子だった。今向けてくる鋭く冷たい視線の中には、確信が感じられた。
彼女は本気で、フォルサークの策略によって刺されたと思っているのだ。
これにはフォルサークも激昂した。
「何をバカなことを言っているんだ! 君が刺されることが筋書きだと……? そんな恐ろしいことを、誰が計画するものか! 君が今日こうして医務室に運び込まれることになるなんて、想像したこともなかった!」
王子の叫びを受けて、クレーヴェリアは驚きに目を見開いた。
やがてまたしてもため息を吐くと、やがて王子に向き直り深々と頭を下げた。
「どうやら王子の心根を見誤っていたようです。大変失礼いたしました」
「いったいどういうことなのだ? どうして君はそんな考えに及んだのだ?」
「……本当におわかりにならないのですか?」
「君が刺されたと聞いてすぐに飛んできた。細かい事情はまるで聞いていない。犯人が誰かも知らないんだ」
クレーヴェリアは眉を寄せて額を抑えた。頭痛だろうか。やはり怪我の影響がまだあるのかもしれない。
フォルサークが魔法医を呼び戻そうと腰を浮かしかけたところで、クレーヴェリアは落ち着いた声で語りだした。
「わたしを刺したのは最初に婚約破棄した伯爵子爵カティアード様の婚約者、子爵令嬢ソウファーラ様です。動機は婚約破棄されたことによる怨恨です」
「バカな! 彼女は婚約破棄を宣言したカティアードを見限った聞いているぞ!」
「ええ。ソウファーラ嬢は事あるごと婚約者を裏切り者と蔑んでいたと聞いていました。婚約破棄された令嬢たちのケアには気をつけていましたが、関わるとかえって彼女を傷つけると思い、距離を取るようにしていました。
だから見落としました。彼女はカティアード様との不仲を偽装していたのです。本当はカティアード様を深く愛していて、婚約破棄を引き起こす原因となったファニトゥーラを憎んでいたのです」
「そんなバカな……!」
驚愕に震えるフォルサークに、クレーヴェリアは冷めた目で皮肉げな笑みを浮かべ話を続けた。
「ソウファーラ様はきっと、害のないふりをしながら、虎視眈々と復讐の機会をうかがっていたのでしょう。それほど慎重な彼女なら、あるいは何か大きな計画を立てていたのかもしれません。
ところが当のファニトゥーラときたら、7人もの子息を振っておきながら学園内では友人たちと仲良くやっている。それで我慢の限界が来て、ナイフで刺すなどという直接的な犯行に及んだのでしょう」
淡々と語られる恐るべき内容に、フォルサークは身震いした。
「まさかこんな恐ろしいことになるなんて思わなかった……」
「7組もの縁談をぶち壊したのですよ? こうなるに決まっているじゃないですか。貴族の縁談は家の都合で結ばれるものですが、当人同士に愛が無いとは限りません。愛憎による衝動的な犯行なんて、実にありふれた事件じゃないですか」
「私は風紀を乱すために正しいことをしただけだ……! それでそんなバカげた事件が起きるだなんて予想できるか! そもそも逆恨みではないか!」
「ええ、逆恨みです。でも逆恨みで犯罪に至ることなんて、世の中にある当たり前のことなのです。わたしの男爵家の領地は貧しいですからね。正当な手段で適切な税金を取り立てても、不満を持つ領民は少なくありませんでした。危ない目に遭ったことも一度や二度じゃありません。
法に基づき正しく人を罰したところで、反省して心を入れ替える人間ばかりではありません。まして今回は、姿を偽った騙し打ちのようなやり方です。恨む者がいて当然じゃないですか」
クレーヴェリアは実に落ち着いた口調で当たり前のように語る。彼女には全て最初からわかっていたことなのだろう。しかしその壮絶なまでに割り切った考え方にフォルサークは戦慄した。
だが、事態を理解すると、フォルサークには聞かずにはいられない疑問が浮かび上がってきた。
「ならどうして婚約破棄の処断の後、子息を励ましたりしていたんだ? そこまで事態を把握していたのなら、子息を怒らせることがどれほど危険かわかっていたはずだ」
「その場で発散させておいた方が凶行に至る可能性が低いと考えたのです。王子の前でなら迂闊なことはしないでしょうし、部屋の外には騎士が控えていたのですから身の安全はある程度確保されています。
後日、身を立て直した子息が復讐しに来るかもしれませんが、そのころにはわたしは学園にいないでしょうからね。わずかな間、顔を見られただけで、名前もわからないのでは、そう簡単に見つかりはしないでしょう。わたしにとっては小さなリスクで安全を確保しただけのことです」
学園は次代の国を担う精鋭を育成する重要な機関だ。フォルサークは王国のため、学園の風紀を正すことばかり考えていた。『違法なまでに彩られた異彩』の性能の高さに魅せられていた。
だがクレーヴェリアは、そんな彼の目の届かない感情的な部分について、実に深く考えて行動してくれていたのだ。
なんと優秀な令嬢なのだろう。フォルサークは感嘆の息を吐いた。
しかしそうすると、またしても疑問が浮かび上がってきた。
「そこまで事情を深く理解している君が、なぜ今回の凶行が私によって計画されたものなんて思ったんだ?」
「それは……」
これまで理路整然と話していたクレーヴェリアが口ごもった。気まずげに視線を下げた。
「どうした? なにか言いにくいことなのか?」
「その……先日、策略を終わりにしようと提案したのに、フォルサーク王子は断ったじゃないですか。だからてっきり……」
「あっ……!」
そこでようやくフォルサークは理解した。
クレーヴェリアにとっては、誰の恨みで刺されるかわからないという危険な状況だった。だから学園から離れようとしていたのだ。
それをフォルサークは、「もう少し学園に居させてあげたい」などという恩着せがましい理由で引き留めてしまった。
クレーヴェリアからすれば、凶行が起きるまで学園にとどまれと命令されたに等しい。
フォルサークはすぐさま頭を下げた。
「す、すまなかった! 君の事情に考えが及ばずひどいことをしてしまった! まったく恥ずかしい限りだ……!」
「あ、頭を上げてください! わたしも悪かったのです。変な風に深読みして、王子の心根を見誤りました。わたしこそ、申し訳ありませんでした!」
「いや、私が悪かったのだ!」
「わたしも悪かったんですってば!」
そんなことを言いながら、しばらくお互いにぺこぺこと頭を下げあった。
「それにしても、ケガが回復魔法で治ってよかった」
お互いに謝り合って一段落した後。フォルサークはそう切り出した。
「ええ、危ないところでしたがなんとかなりました」
「君がそんなに強力な回復魔法の使い手とは知らなかったな」
腹部をナイフで深く刺され、重要な臓器を傷つけるほどの重傷だったという。学園の魔法医は優秀だ。それでも重要な臓器の損傷となると、短時間でここまで回復させることはできなかったはずだ。
魔法医によれば、刺された時点でクレーヴェリア自身が強力な回復魔法を使ったという。いくら事前に覚悟していたとはいえ、いきなり刺されたという状況で冷静に回復魔法を使うなど、まるで熟練の冒険者のようだ。並の令嬢にできることではない。
フォルサークの称賛を受け、クレーヴェリアは気まずげな顔になった。
「……そうですね。変に誤解されるとかえって危険かもしれませんので、王子にはお話しておきましょう。これは我が男爵家の秘伝の魔法『初撃への治癒』のおかげなのです」
「聞いたことのない魔法だ。いったいどういう回復魔法なんだ?」
「これは予めかけておくタイプの魔法で、効果はおよそ半日。最初の攻撃が一定以上のダメージに達した場合のみ、自動的に一度だけ発動します。その効果は強力な回復です。
それなりに魔力を消費しますが、『違法なまでに彩られた異彩』で半減した魔力でもぎりぎり使用可能でした」
「なるほど、自動起動型の魔法だったから、刺されてすぐに回復して致命傷になるのを防いだのか。条件を限定することで効果を高めるという作りも見事だ。実に優秀な魔法じゃないか」
「ありがとうございます。うちの領地は貧しくて気が立っている者が多いですからね。危ないと思った時は予め使っておくよう、幼い頃から厳しく教えられました」
先ほども少し話に出ていたが、クレーヴェリアの領地はいろいろと物騒なようだった。フォルサークは少し冷汗をかいた。
すると、一つひっかかることが思い浮かんだ。
「ちょっと待てくれ。予め魔法をかけておいたということは、君は今日刺されるとわかっていたのか?」
「まさか。いずれ誰かが復讐に来るとは思っていましたが、それがいつになるかなんてわかりませんよ」
「じゃあどうしてその魔法を事前に使っておけたんだ? ソウファーラ嬢の怪しい動きを察知してたのか?」
「事前に使うも何も、この学園に来てから以来、毎朝『初撃への治癒』をかけていたのです」
「ま、毎朝!?」
「ええ、そうです。半減した魔力ではきつかったですが、命にかかわることですからね。一日たりとも休まずにかけ続けました」
クレーヴェリアはまるで当たり前のことのように言う。だがその意味するところを察し、フォルサークは戦慄せざるを得なかった。
「ちょっと待ってくれ。君は最初から命の危険があるとわかっていながら、この策略への協力を引き受けたというのか? どうしてそこまで覚悟ができるんだ? まさか学校の風紀を守るためでもないのだろう」
「それはもちろん、報酬に命を賭けるだけの価値があったからです」
「たったあれだけの報酬で、命を賭けたというのか!?」
クレーヴェリアが『婚約破棄誘発の策略』に協力する報酬は、男爵家への5年間の資金援助と生産物の優先買い付けだ。決して小さな額ではない。だが命を賭けるに値するかと問われれば、フォルサークとしては疑問に思わざるを得なかった。
「確かに、王族から見れば大した報酬ではないかもしれません。ですがその報酬により、没落の危機に瀕した領地をどうにか立て直せることでしょう。それは我が男爵家の存続を確かなものとし、たくさんの領民を救うことにつながります。男爵家の娘として、命を賭けるに値する報酬です」
クレーヴェリアは怒りも悲しみもせず、落ち着いた声できっぱりと言い切った。
するとたちまちフォルサークの顔が赤くなった。羞恥の想いが、彼の顔を染め上げたのだ。
「領民を思う君の姿勢は、貴族として尊ぶべきものだ。それを貶めるようなことを口にするなど、王族として恥ずべきことだった。許してくれ!」
「い、いいんです! そんな大したことではないですからっ……!」
またしても頭を下げるフォルサークに、クレーヴェリアは顔を赤くして恥ずかしそうにぱたぱた手を振った。
するとフォルサークはガバリと顔を上げると、クレーヴェリアのその手を手を取ると、真剣な目を向けた。
「君は素晴らしい令嬢だ。『婚約破棄誘発の策略』のあとも、どうかずっと私の傍にいてほしい」
冷たいはずのアイスブルーの瞳が、熱をもってクレーヴェリアを見つめていた。
クレーヴェリアの薄茶の瞳が困惑に揺れる。
彼女はしばらく目を閉じた。そして考えがまとまったのか、苦笑を顔に浮かべながら目を開いた。
「あなたのそばに身分の低い男爵令嬢がいれば、要らぬ軋轢を生むことでしょう。危険なことになるかもしれません。また死にかけるのは、さすがに避けたいです。大変光栄なお申し出ですが、今回のところはどうかご遠慮ください」
そうキッパリと断られ、フォルサークはがっくりと肩を落とした。
翌日の昼下がり。クレーヴェリアは馬車に揺られていた。
王家の用意した上等な馬車だ。内装は実に豪華で揺れも少ない。快適な馬車の中、クレーヴェリアは流れゆく窓の風景を眺めながら、物思いにふけっていた。
王子の申し出を断ると、すぐに男爵家に戻るよう手配をしてくれた。
クレーヴェリアとしても学園から離れられるのはありがたいことだった。
『初撃への治癒』は強力な回復魔法だが、欠点もある。発動は一度きりだ。今回はナイフの一刺しだったからいいものの、何度も刺されていれば危なかった。毒の類にも効果は低い。再び襲われるようなことがあれば、今度こそ命を落とすことになるかもしれない。
寮に荷物はあったが、大半は王家が事前に用意してくれたものだ。そちらの処分は王子の手配した者たちに任せた。私物は少なかったので、荷造りはすぐ済んだ。
『違法なまでに彩られた異彩』は返却した。魔法省で研究資料として保管されることになる。『楽園の麗しきミツバチ』と謳われたファニトゥーラ・トトモータスは、この世から永遠に消え去ったのだ。
学園の生徒には、怪我の療養のため実家に一時的に戻り、そのまま家の事情で学園に戻れなくなったと伝える筋書きになっている。ファニトゥーラの正体を探ろうとする者もいるかもしれないが、その場合は王子の配下が対応することになる。
クレーヴェリアを襲った子爵令嬢ソウファーラは犯行現場で捉えられ、今は投獄中だ。クレーヴェリアの傷はすぐに完治したとはいえ、学園内での殺人未遂ともなれば重罪だ。厳しい罰が下されることになるだろう。
彼女はある意味、『婚約破棄誘発の策謀』の被害者と言えるのかもしれない。しかし、クレーヴェリアもさすがに、自分のことを本気で殺そうとした令嬢のことを救いたいとまでは思えなかった。
すべて終わった。そして始まりでもあった。
クレーヴェリアはまた頑張らなければならない。
報酬は5年間の資金援助と生産物の優先買い付けだ。これで領地経営はしばらく安定するだろう。しかし、もともとこれと言った特産品のない貧しい土地だ。なにもしなければまた貧乏男爵家に逆戻りである。
男爵家の再興のため、学園生活で得た二つのものを最大限に活用するつもりだった。
一つは学業だ。
貧乏な男爵令嬢であるクレーヴェリアは、資金の都合がつかず貴族の学園に通うこともできなかった。勉学と言えば領内の古びた図書館で独学に励むことくらいだった。
わずか半年とは言え、学園の洗練された教育はとても有意義だった。講師陣は優秀で資料も豊富にあり、独学してた頃よりずっと多くのことを深く学ぶことができた。最新の魔法技術に触れられたのも大きい。
学園で学んだことがそのまま将来の役に立つとは限らない。だが、学園の授業によって知識の土台を作ることは、より高度なことを学ぶために大切なことだ。他の子息や令嬢たちがどんな教育を受けたか知ることもまた、社交において意味のあることだ。教養は貴族にとって重要なことなのである。
もう一つは情報だ。
学園では積極的に交友を広めた。それはファニトゥーラとしての立場を確保するだけではなく、様々な情報を得るためでもあった。親しくなれば家についての自慢話や不満の声などを聞く機会も増えてくるものだ。
各家の経済状況。家同士の細かな上下関係。派閥の力の大小と各派閥の相関関係。各家の計画している新規事業。手を引こうとしている事業の傾向。表に出ない名家の醜聞や、秘めた男女の関係。会話の端々から実にいろいろな情報が手に入った。
所詮は生徒から得た情報だ。裏取りもせず使えるものではない。それでもなかなか表に出てこない有益な情報がたくさん手に入った。使い方次第では有利に事を進められるはずだ。
ファニトゥーラをミツバチに例えた学園の生徒たちは正しかったのかもしれない。クレーヴェリアは学園と言う花園で、情報と言う蜜をせっせと集め、家に持ち帰るのだ。
全て予定通りだ。死の淵に至ることさえ、クレーヴェリアにとっては想定の範囲内のことだった。
だが、そんな彼女でも予想していなかったことが一つだけあった。
フォルサーク王子の告白だ。
恋愛を疎ましく思い『婚約破棄誘発の策略』なんてものを企てたフォルサーク王子だ。恋愛沙汰には疎いようだった。おそらく恋している自覚すらなかったのだろう。
それでも間違いなく、あれは愛の告白だった。
思えば、当初の計画より長期間に及んだのも、フォルサーク王子が少しでも長く彼女と共にいたいと無意識に思ったためなのだろう。
だが、その告白は受け入れるわけにはいかなかった。
男爵令嬢に過ぎないクレーヴェリアが、第一王子であるフォルサークと恋仲になるなど、想像するだけで恐ろしい。彼女のシンウォレート男爵家は弱小貴族なのだ。ちょっと力のある貴族に睨まれればたちまち没落の道をたどることになるだろう。
それ以前に、結婚相手としてはどうだろうか。
見た目はいい。さらりとした銀髪に美しいアイスブルーの瞳。顔立ちは整っていて背も高く、スタイルもスマートだ。
『婚約破棄誘発の策謀』なんてものを思いつくなんて、奇抜な発想の持ち主だ。何をするかわからない。そして愚かな子息は切り捨てて構わないなどと言ってしまう冷酷さもある。あれでは無駄に敵を作ってしまうのではないだろうか。
自分の恋心に無自覚なくせにクレーヴェリアを近くに置こうとした。独占欲がありそうだ。でも浮気をしそうにないのはいいことかもしれない。
間違いを指摘されるとすぐに認める。あの潔さは美点と言える。でもだからと言って男爵令嬢相手に頭を下げるのは王族としてどうなのだろう。その素直さは人としては好ましいものではあるが、誰かにつけこまれてしまうのではないだろうか。
刺されたときは真っ先に駆けつけてきた。王になるならもっとどっしりと構えているべきだと思う。でも、あんなに心配してくれるなんて思わなかった。あの時は策略を疑っていたが、今振り返ってみるとちょっと嬉しくも思える。
あれこれ思い出すうちに、クレーヴェリアは王子のことがなんだか心配になってきた。
「……まったく困った人です。そうですね。男爵家が落ち着いた頃、まだ王子がわたしのことを必要だと言ってくれたなら……そのときは、少しはお付き合いすることを考えてあげてもいいかもしれませんね」
クレーヴェリアはそんなことをつぶやいた。
もし他の貴族が耳にしたなら、不敬だととがめたかもしれない。だがその心配は不要なものだ。馬車の中は彼女一人だ。上等な馬車の中と言っても、道に轍を刻む音は高く響いている。小さなつぶやきは御者の耳にすら届かない。
ましてや彼女の頬が赤く染まっているなんて、本人すらも気づかないことなのだった。
終わり
「すごく綺麗な令嬢が婚約破棄を煽って学園がパニックになる話を書こう」
そんなことを思いつきました。
ヒロインがそういうことをする設定やお話を詰めていったら、「こんなことを何度もやってたらそのうち刺されるに違いない」と思いついてしまいました。
思いついたら無視できず、その要素が話の軸になりました。
当初はもっとコメディ寄りになるはずだったのに、ちょっぴりシリアス寄りになってしまいました。
いつものことですが、お話づくりは難しくて、書き上げるまでどこに行くかわからなくて大変です。でもやっぱり楽しいものですね。
2024/2/27 19時頃
誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところも修正しました。
2024/2/28
誤字指摘ありがとうございました! 反映しました! 細かいところもあちこち手直ししました。




