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2.アイ

 ここカイナートはダンジョンで栄える都市である。

 東の山の麓に開いた洞窟から地下深くまで続く迷宮。そこから魔物が湧き出ており、倒すと魔核というものが得られる。これは様々な魔法のエネルギー源として使用されるため、非常に高値で取引される。

 腕に自信のある者たちはこの都市を訪れ、日々魔物を倒し、地下深くに潜る冒険者としての仕事をしている。

 現在迷宮は80層まで攻略されており、その底は100層あたりであろうという調査研究結果が出たところだ。

 また、この地の若き領主により迷宮内の開発も進められており、独特の植生や地質などの利用研究も始まっている。

 古きものと新しきものが混ざり合い、そしてそこに人と物が集まって、色彩豊かな文化を織り成している。それが、カイナートだ。





「サシュの実は……このくらいで足りるかな」


 レオンスは今日、東の森へ薬草採取に来ている。ダンジョンに休みはないから、診療所にも完全な休みはない。今日も午後には戻らねばならないから、必要な素材は手早く集める必要があるのだ。

 最近は、街で評判の『元気が出るパン』というものがあり、生死を彷徨うような重篤な患者はそう多くない。レオンスも試してみたが、確かに腹の底から力が湧くような、そして前日の寝不足が解消したような、不思議なものだった。なんにせよ怪我人が減るのは、医師として嬉しいことである。

 それでもなおこの診療所に通う者たちは、ただ仲間内で集い、お茶を楽しんでいる様な節がある。集会所ではないのですよ、と何度伝えても、翌日にはまた人が集まってくる。その光景が、レオンスは案外嫌いではなかった。


「あの騒がしいご婦人達には……トウの葉のお茶がいいか」


 昼過ぎから夕方前までの時間に集まる女性陣は、とにかく(かしま)しい。ゲラゲラと笑ったかと思えば、許せない! などと激昂し、その数分後には話題の甘味の話に花を咲かせる。

 そのひと時で日々の疲れを蹴散らすのだ、と言われれば、レオンスは心落ち着くお茶を出し、黙って場を提供するだけなのである。



(そろそろ戻るか──……ん?)

 

 立ち上がり、ふと目線を上げると、その視界の端に白いものが映った。

 いくら東の森とはいえ今は魔物が溢れる兆候もないし、まだ日も高い。そう危険なものが出る場所ではないから、野生のウサギか何かかな、と軽い気持ちでそちらに足を向ける。

 この時期であれば、カリーカイの花だったりしないだろうか。あれは夜の薬として、人気があるから──そんなことをつらつらと考えていた、はずだったのだが。


「──っ、人か!」


 見慣れぬ衣服を纏い、肩甲骨ほどの長さの黒髪。青白い顔に、痩せた身体の女性が横たわっている。


「大丈夫ですか! わかりますか!」


 慌てて駆け寄り、脈拍と呼吸を確認すると──生きている。側には彼女のものであろう荷物が落ちていて、物取りに襲われたわけではないようだ。

 足元は泥まみれでボロボロだし、脱水症状だろうか、目立つ血痕などは見当たらないが。


「失礼しますよ!」


 服を捲り上げ身体を確認すると、そこかしこにできた痛々しい傷と痣、初めの印象以上に浮き出た肋骨。


「……これは……」


 その痛ましさに顔を顰める。この女性は、日常的に暴力を受けている。どれも命に関わる致命傷ではなさそうだが、男から逃げて来たところで体力が尽きたというところだろうか。

 手の先が冷えている。散らばった荷物を集め、女性を背負う。普段は動けなくなった冒険者を運ぶこともあるのだ。それに比べれば──あまりにも、軽い。そのままどこかへ消えてしまうのではないかと思うほどに。



 久しぶりに、よく寝た気がする。いや、寝過ぎている。義母の対位交換も、トイレの世話もしていない。こんなに放っておいたら、きっと癇癪を起こして部屋はめちゃめちゃだ。片付けをしようとするとまた彼女は怒るだろうから、きっと髪の毛は掴まれるだろう。なぜ上半身の力は衰えないのか。千切れる髪の毛、痣になるほど強く掴まれる腕──。


「────っ!」


 がばりと身体を起こす。胸がドクドクと早鐘を打ち、肌が粟立ち、息が切れる。


「動いてはいけませんよ。あなたにはまだ、休養が必要なのですから」


 知らぬ男性の優しい声がする。「少し触れますよ」という言葉と共に、背中をぽんぽんと宥めるように叩かれる。まるで、赤ん坊をあやすように。

 震える手を握り、そしてゆっくりと開き。息を吸い、そして吐き。


「少し落ち着かれましたか。お話は出来そうですか? 言葉は、分かる?」


 ゆっくりと顔を上げる。知らない部屋だ。私が横になっていたベッド、白い壁、白い天井。この独特の匂いは、よく知っている。消毒液だ。

 横を見ると、そこにいたのはふわふわした薄い茶色の髪に、薄い紫の瞳の──ライラックみたいだなと思った──洋風の顔の男性。映画俳優のように整った綺麗な顔で、その声色に違わず、優しそうに微笑んでいる。


「……ぁ、ぁ」


「ああ、喉が乾いておられますね。お水をどうぞ」


「……ありがとう、ございます」


「言葉は、わかるようですね。体調はいかがですか?」


「少し……背中が痛みますが。問題、ありません。あの……ここは?」


「ここは、カイナートの診療所ですよ。あなたは東の森で倒れていました。意識がなかったので、ここまで連れてきてしまいましたが」


「──カイナート……? そう、でしたか。歩き疲れて、少し休もうと思ったところまでは覚えているのですが……ご心配とご迷惑をお掛けいたしました。ありがとうございます」


「いいえ、ご無事で良かった。お名前を伺っても?」


「鈴木……いえ、愛葉(あいば)です。愛葉優(あいばゆう)。優が名前、愛葉が苗字……家名? で伝わりますか?」


「アイバ様ですね。私はここで医師をしています。レオンス・ルグラン。どうぞレオンスと。皆そう呼びますから」


「それなら私のことも優と呼んでくださって構いません」


「ユウ……さん。それではユウさんとお呼びしましょうか。さぁ、少し疲れたでしょう。ここにはあなたを脅かすものはなにもない。もう少し、休んで下さいね」


「……はい。レオンスさん。ありがとうございます」


 静かにドアが閉められて、どこか遠くから女性たちの笑い声が流れてくる。楽しそうな、笑い声……あんな風に私が最後に笑ったのは、いつだったろうか。

 死んだはずだったあの時、『君は好きなように生き直せばいい』というような事を、言われたように思う。何が何だか分からないが、どう考えてもここは……日本ではない。なぜか言葉は分かる。文字は、どうだろうか、後で見せてもらいたい。私の姿は……顔は見えないけれど、このぼろぼろの指。骨と皮のような手首。ちらりと捲ると、痣だらけの身体。まず間違いなく、日本で生きていた私と同じ身体だろう。

 つまりは、きっと、こういうことだ。これからの人生は、ここで新しく、生き直せと。



 幼い頃の私は身体があまり丈夫ではなく、体調を崩しては寝込んでいた。親戚はきちんと病院に連れて行ってはくれたが、付き添ってはもらえなかった。熱が出て朦朧とすると、寂しさに耐えきれない夜が来る。そんな時に優しく背中を撫で、話し相手になってくれたのは病院のお姉さん達だった。

 ある程度大きくなれば、自分の事情も理解出来るようになったし、平気な顔も出来るようになった。けれど、平気な顔をしているから、平気なわけではない。

 悪夢を見た。誰にも必要とされない、愛されない自分。風が吹くと、身体が砂のように端から崩れて、飛ばされて、消えていく。

 嫌だ、嫌だ、嫌だいやだいやだ──誰か、私を、見て。


 介護を始める前までは、よく寝る前にスマホで小説を読んでいた。嫌な夢を見ないように。ときめく恋愛でも良い。ドキドキする冒険でもいい。

 夢の中だけでも、自分が、自分ではない誰かになれたなら。みんなに必要とされる、愛される自分に、なれたなら。


 名前を聞かれて夫の名前を、つまり鈴木優だと、どうしても言いたくなかった。もう私は、あの家族を終わりにしたのだ。あちらで私の存在がどうなってしまったのか、今となっては分からない。失踪したのか、元から無かったことになったのか。

 どちらにしても、もうどうでもいいかな、と思える。少しくらい心残りがあってもいい気がするのに、考えてみれば私の手の中にあったものなど、そもそもほとんどなかったのだから。

 だからだろうか──不思議なほど、心は落ち着いている。あの時読んだ物語の主人公のように、悪を倒す力はない。王子様に愛される美貌も、ない。それでも、私の人生の主人公は、私なのだ。


 愛葉、という苗字は好きだった。愛された記憶がないから、自分の中にくらいは愛を持っていたいと。

 親戚の家でも正式に養子に入ったわけではなかったから、ずっと変えずにいた名前。それさえ取り戻せれば、もう、鈴木優はいない。ここにいるのは愛葉優。仕事をして、みんなと笑いながら話をして、美味しいものを食べて、自分の身嗜みにも気を配る余裕があった、あの頃と同じ。

 どう生きたいかなんて、まだ分からないけれど──今はまず、もう少しだけ、眠りたい。

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