1.寄生虫
「お帰りなさい! お疲れ様、ご飯出来てるよ! 今日はね、浩平の好きなトンカツ──」
「あ、今日俺昼にトンカツ食ったんだよね。なんかもっとあっさりした物が良いんだけど」
「そ、そうなんだ。ごめんね? じゃあ……今からなにかあっさりした物、作るね。少し待っててくれる?」
「……今日ちょっと疲れててさー、腹は減ってるわけ。早めに頼むわ」
「え、と……今日はお義母さんのリハビリがあってね……あまり機嫌も良くなかったみたいで、色々、散らかったりしてて……」
「はぁ? 何この部屋、きったねぇ。掃除もしてないの? どういうこと? 家事なんて手際よくちゃちゃっとやるもんだろうが。子供がいるわけでもないんだからさぁ、もっと上手く出来るって、お前はそういうの得意なんだから。な?」
「……うん、そうだよね。もっと上手く、やれるように……頑張るね」
「うん、そうして。じゃあ腹減ってるから、今日も美味しいもん、頼むわ」
◇
「あいつ、もう女終わってんだよ。ボサボサの頭して、化粧もしないし。毎日デニムによれよれのTシャツ、色気も何もあったもんじゃないよな。ははっ! そんなことなくてももう魅力なんて感じないけど。毎日家に引きこもってさ、最近じゃ飯だって真面目に作らねえし。忙しいー疲れたーって。寄生虫だろ、あれ」
艶のある茶髪は軽く巻かれて、一部の隙もない化粧。赤い口紅は毒花のように滑らかだ。白い総レースのワンピースは膝上丈で、すらりと長い脚が惜しげもなく晒されている。スマートフォンも入らないような小さなショルダーバッグは、私でも知っている有名ブランドのもの。
彼が口汚く罵っているのは、まず間違いなく私のことだろう。確かに今日も私は、デニムにTシャツの姿であるわけだし。
彼の腕に巻きつくようにしなだれかかりながら、真昼間のホテルにしけこんでいく派手な女性の後ろ姿を観察する。
震える指先をぐっと握り込むと、短く切り揃えてあるはずの爪が掌に食い込んだ。
今晩のおかずになる予定の人参、じゃがいも、玉ねぎ。叩かれて打ち身になったところが痛むので、湿布と、栄養ドリンクも買った。
美容室に行く時間も、お金も、ない。夫の母の介護を始めた5年前から、髪は自分で切っている。それまでは月に一度、美容室でトリートメントをしていたけれど、今は安売りのリンスインシャンプーだ。湯船に浸かることもない。私が側に仕えていないと、義母は癇癪を起こすから。
鈴木優、31歳。結婚6年目、介護歴5年。夫の浮気歴は、およそ4年ほどだろうか。
買い物袋を抱えて、路地を歩く。帰ったらざっと掃除機をかけて、夕飯の仕込みと、洗濯物は──そろそろ乾いただろうか?
昨夜も数回眠りを妨げられたから、寝不足で頭が痛む。体位交換だけなら、いい。ここが痛いこっちは痒いと、手近に物があれば投げつけ、なければ髪を引っ張られ。
義母は60歳を過ぎたところで、事故により下半身が動かなくなった。自力で動くことは出来ないが、意地の悪さは勢いを増している。攻撃的なのは脳にも何か問題があるのでは、と思うが、この性格は生まれた時から変わらないらしい。──余計に救えない。
彼と結婚してからも、仕事は続けていた。看護助手だった。それが1年を過ぎた頃に義母の事故があり、施設を嫌がった母を家で診て欲しい、と頼まれたのだ。長男の嫁として、と。
2人で住んでいたマンションを引き払い、彼の実家での同居。口うるさく、時には暴力を振るう義母。仕事が忙しいからと、帰ってこなくなった夫。私はここで1人、一体何のために戦っていたのだろう?
寄生虫。その響きが、耳にこびりついている。
仕事をするのは好きだった。病院は女の強い職場であって、また命を扱う現場であるから、気の抜ける物ではなかった。だが、確かにやりがいを感じていたし、同僚の女性たちの話を辛抱強く聞いてやり、宥め、橋渡しをし、調整するのは自分に向いているなと思っていた。怒鳴る患者も、病を前にして冷静でいられないのだろうと思えば仕方がないと思えた。給料が出たら買って帰るケーキも、美容室で首に当ててもらう蒸しタオルも、好きだった。
それを辞めて欲しい、と頭を下げたのは夫だ。家を守っていてくれ、君のいるところに帰りたいから、と。
女ができてからだろう、家に入れる金も減らされ、介護にだってお金はかかる。自分のために使える金などほとんどない。ゆっくりと食事をする時間だってないのだ。疲れたのだ、疲れ果ててしまったのだ。
寄生させている自覚があるならば、そちらもメリットを提示すべきだと思う。栄養も与えない。外敵も排除しない。
そんな宿主ならば、いらない。
早くに親を亡くし、兄弟もおらず、育てられた遠縁の親戚の家では家政婦のように家事をして過ごした。おそらく両親の保険金などをあてにして引き取ったのだろう、未成年後見人によってそれが正当に管理されていると知ると、とたんに私から興味を無くした。それどころか、要らぬものを拾ったとでもいうような様相で。幼い頃の記憶は、思い出したくもない。
思えば、家族というものに縁の薄い人生だった。だった、と言えてしまえるほど、今の戸籍上の私の家族は、過去のものに思えて仕方がない。
絞られて、絞られて、今の私はもう搾りかすでしかない。カサカサの抜け殻だ。
疎まれていることも、都合よく使われていることも分かっていた。それでも私がやらなければと、必要としてもらえるのならば、と思っていた。
夫に女がいることも薄々勘付いていたし、嫉妬などするはずもない。ただ、実際に目の当たりにしてみて──そして私をどう思っているのか口にしているのを聞いて。
これで終わったのだな、と思った。
どうやらそんなことを考えていたら、往来で足を止めてしまっていたらしい。
耳をつん裂くクラクションの音と、眼球がこぼれ落ちそうなほど見開かれた目、大きなトラックは──引っ越しの時に頼んだ会社のマーク。この運転手さんには申し訳ない事をした。無理かもしれないけど、気にしないで欲しい……。
人は死ぬ時、案外色々なことを考えられるものらしい。
不思議と痛みはない。これまで数多くの痛みを抱えて来たから、神様から最期のプレゼントかもしれない。
『──いや、それはプレゼントではない』
「……は?」
『最期でもない』
「…………ん?」
『君があの世界を終わりにしたいと願ったようだから、それならまぁこっちでもいいか、と、連れてきた』
「………………え?」
『あの頃はまだ私も若かったからな……采配をミスしたようだ。もう一度生まれ直させると色々歪みが出て来て面倒だからな。今度こそ、好きなように生きたらいい。人生はまだ長い。君はまだ、なりたいものに、なれるのだから。生きたいように、生きられるのだから』
『──これほどの、試練を与える予定では無かったのだ。辛い思いをさせたこと……すまなかったな』
それはどういう、と聞き返す間もなく、目を開いた私は……森に、いた。
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