◇孤児
物心ついた時から暗く異臭で充ちた汚泥のような世界にいた
親は知らない。兄弟がいるのかも知らない。
気付いた時には1人、ゴミを漁っていた。
生きる意味も何も無い、けれど死のうとは思わなかったからか体は勝手に生きる為に行動した。それになんの意味があるのか、そんな事考えることも無くただただ無感情に。
そうする事が当たり前であるかのように。
季節が巡っても同じボロ雑巾のような服を着て過ごした。
寒いとも暑いとも思わなかった。
理不尽に暴力を振られても痛みも感じず、苦しいとも悔しいとも思うことも無く涙すら流したことがなかった。
疲労を感じることも無く、足を動かし続けた。
一所に留まることはせずフラフラと裏路地を徘徊し、屍のように、野良猫のようにボンヤリと気ままに。
ーーそんなある日、私は天使に出会った。
◇◆
満月の夜。
その日は月明かりに照らされてチラチラと雪が降っていた。
いつもと同じボロの服を着て、靴なんて履いたことの無い足で汚れきった己とは正反対な真っ白で綺麗な雪の上を歩いていた。
ブルリと肩が震えた。
気のせいかと思った震えは徐々に体全体に行き渡りいつの間にかガタガタと震えあまりの寒さに肩を抱いていた。
雪に接していた足は冷たさでジンジンと赤くなり痛みを訴えている。
初めての感覚に戸惑う。
そしてーーふと、気付いた。
なるほど、これが寒いということか…と。
初めて感じた寒さはとても冷たくて痛かった。
続いてグウウゥゥゥ…!と響いた音にビクリと肩が跳ねた。
その音はなんと己の腹から鳴り響いていると気付いた時その瞬間、初めて身を焦がすような空腹を感じた。
これが空腹か…
ならこの体にのしかかるような重さはなんだろう?
いつの間にか体は重だるく、まるで誰かにのしかかられているようだった。
視界がぐるぐるする。
耳の中がキーン!と甲高い音が鳴り響いている。
頭の中では誰かがガンガンと鈍器で殴りつけているみたいだった。
…これは、この感覚はなんだろう?
初めて痛みを知った。
それはとても不快なものだった。
初めて疲労を感じた。
それは体全体に重しを乗せられたようで苦しいものだった。
初めて寒いと思った。
それは体全体が震えて痛く苦しいものだった。
何故か気付いた時には地に倒れ付し指ひとつ動かせなくなっていた。
あぁ、死ぬのかな。
なんて、他人事のように感じながら目を閉じた。
◇◆
どのくらい、そうしていたのか。
いつの間にか眠っていたようだ。
フワリと心地よい感触が体を包み込む温かさに目が覚めた。
凍りつき上手く動かせない瞼を開けば、見知らぬ人が私を包み込んでいた。しきりに何かを話しかけてくるその人はとても…
綺麗だと思った。
こんなに綺麗な人がいるのかと驚いた。
あぁ、もしかしたらこの人が“天使”というものなのかもしれない。
でも、天国へ行けるのは善人だけだという。
確かに私は暴力を振られることはあってもこちらが振ることは無かった。ゴミは漁ったけれど、店から商品を盗むことはしなかった。
けれど、たったそれだけだ。
あとはただ只管にフラフラと彷徨い歩いただけ。
生きているのか、死んでいるのかも分からない。
屍のような存在が、皆が言う“善人”か…?
…きっと、それは違うのだろう。
何もしない、ただ生きていただけの己になぜ天使様は現れたのだろう?
こんなボロ雑巾のような私を抱きしめてその瞳を不安に濡らすのは何故だろう?
この胸の温かさはなんだろう?
今までこんな瞳もこんな感情もこんな優しい温もりも感じた事なかった。向けられることもなかった。
いつも向けられるのは蔑みと侮蔑の瞳だけだったのに…。
何故か、涙が溢れた。
…あぁ、もう泣いていいんだと漠然と感じた。
この人は、私を見てくれるんだと安堵した。
この人の腕の中はなんて心地よくて安心する場所なんだろうと…
初めて嬉しいと、幸せだと感じた。
天使様。
天使様…私を見つけてくれてありがとう。
私を抱きしめてくれてありがとう。
どうか、どうか私を…。
頬を流れる涙をそっと拭ってくれた天使様に向けてその時初めて笑みを浮かべた。それはとてもぎこちないものだったろう。
もしかしたら笑顔などと言えない酷い顔をしていたかもしれない。
それでも、そんな私の顔を見て天使様は微笑み返してくれた。
その事が心底嬉しくて…胸が暖かくなった。
この感情を、人はなんと呼ぶのだろう?
◇◇
寒さを知った。痛みを感じた。
空腹を、疲労を感じ倒れ伏したこんな惨めな私を拾い温めてくれる人がいることを知った。
幸せを知った私は、初めて“生きる”ということを知ったんだ。