☆Prologue
水深10m程のどこにでもありそうな泉がある。
理由はないが、夜中にここに一人で来るのが好きだった。
黒い水面が下に行けば行くほど青くなっていて。
鏡のように空に浮かんでいる月をそのまま映し、時にその姿を歪ませた。
最深部に落ちている石が月光を受け、次々に色を変えているのを見た時は
それはもう何とも形容のしがたいもので。
思わずひとつ欲しくなって。
――そうだ。取ろうと思ったんだ、それを。
あの時まだ幼かった俺にはわからなかったが、
『水面に映るもの』は『水面に浮かんでいるもの』とは限らないという。
それも知らずに、指でそっと水面に触れる。感触は柔らかく、そして鋭かった。
だが取れない。もう少し奥かと、今度は手首まで入れてみた。届かない。
たまりかねて袖を腕まで捲り上げ、両腕を突っ込んだ。
冷たくて凍りそうになる。だが構わなかった。あと少し。あともう少し。
顔を水に近づけ、奥を覗き込む。きっとあと少しなのに。まだ取れない。
全体重を上半身にかける勢いで、肩まで水に接しそうになる。
そこまで来た時、タイミング悪く風が吹いた。
それは決してそう強いものではなかったのだが。
不安定な姿勢を保っていた俺はバランスを崩して、そして
*
「…行方不明?」
「昨日まで確かにいたのに、いなくなっちゃったんですって」
「あらまあ…」
「どうしちゃったのかしら、心配ね」
「大丈夫だ、どうせすぐ見つかるだろう」
しかし彼は誰にも発見されることはなかった。
1ヶ月の間、彼一人の為だけに虱潰し以上の細やかな捜索――勿論、あの場所も――がなされたが
結局見つかることはなく。地図にも載っていないような小さな小さな村であったにも関わらず。
しかも村の入り口には門番が二人立っていたというのに。
彼らは夜通し見張りをしていたが、猫の子一匹見なかったとそう言った。
「彼は消えてしまったんだよ。きっと空気に溶け込んじゃったんだ」
そう噂する者もいる中で、今でも捜索は続けられている。