EACH OTHER
「最近よく眠れないの」
と言う真理子に僕は心療内科の受診を勧めた。一人では心細いと言うので、隣町の夜遅くまでやっている駅前クリニックに予約を入れた。
仕事こそ続けていたが、真理子からのメールや電話は日に日に増え、正直負担に感じ始めていた。夜遅くに
「私なんか死んだ方がいい」
とメールが着たときは、凍える冬空の下自転車で真理子のアパートに駆けつけたこともある。
真理子の診察を待っている間、僕は何年か前にベストセラーになった小説を読んでいた。最近人気の若手女優がヌードになることで話題の映画の原作本だった。
と、ぜーぜーという荒々しい呼吸音が人の多い割りに静まりかえった空間を引き裂いた。見ると、制服姿の少女が床にうずくまっている。一瞬にして凍りついた雰囲気の中、僕は少女の口元に普段エコバッグ代わりに使っているスーパーのレジ袋をあてがい、
「ゆっくり深呼吸して。大丈夫だから」
と声をかけ、看護師さんを呼んだ。
少女は看護師さんに抱きかかえられるようにして、別室に連れて行かれた。
真理子の診断名は予想通り鬱病だった。睡眠剤と安定剤を処方され、その日は帰宅した。
二週間後真理子の付き添いでクリニックの待合室で待っていると、受付の女性に小さな紙片を渡された。
「こないだ発作起こした女の子いたでしょ。その子からあなたに渡すようにって」
簡単な礼と名前、メールアドレスが記されていた。
「なあに、それ?」
真理子が覗き込んだ。
「前回ここで真理子の診察待っている間、発作を起こした女の子がいたんだ。軽く処置したんだけど、そのお礼みたい」
「でも、アドレスまで書いてあるよ」
「何でだろうね。僕に気でもあるのかな?」
軽い冗談のつもりだったが、試しにメールしてみると、今度は会って直接お礼がしたいと返信が着た。真理子が別に会っても構わないというので、後日クリニックのある駅の喫茶店で会うことにした。
結論から言うと、僕はその少女と浮気した。制服姿で現れた少女は、サラサラな黒髪を肩まで伸ばし、前髪を眉毛の上で真っ直ぐに揃え、化粧をしてない肌は白く透き通り、つぶらな瞳が憂いを感じさせる…一言で表せば、僕の好みのタイプだった。だから、その少女―紙には亜里沙と書かれていた―に
「ホテルに連れてって」
とせがまれたとき、人はいつ死ぬのか分からないのだから、自分を解放してみてもいいのではないかと勝手な理屈をつけて、誘いに応じたのだった。
その間マナーモードの携帯電話が何度も振動したが、敢えて僕は出なかった。真理子に嘘を吐き通す自信がなかったからだ。
亜里沙を送り、家路に就いている途中でまた着信があった。一瞬迷った後、僕は通話ボタンを押した。
「島本さん、今どこ?」
「家に帰る途中」
僕は正直に答えた。
「今までどこで何してたの?すっごくすっごく心配だったんだよ」
「心配かけて、ごめんね」
「だから、今まで何してたのよ!」
最早悲鳴に近かった。
僕は自分がしでかした事の重大さを把握できずにいた。すべてが夢の中の出来事のように思えた。
僕は真理子の帰宅を待ってアパートまで行き、洗いざらい話した。それがどれだけ残酷なことかも知らずに。
次の日から真理子は仕事に行かなくなり、やがて、精神病院に入院した。
真理子と別れた後も、相変わらずメールは着ていた。ただ以前と違っていたのは、それが愛情表現ではなく、この世の全ての悪意と憎しみを集めたような怨嗟のメールだったことだ。
僕は自分を守るために着信拒否し、真理子のアドレスを削除した。
そして、直視できない己の弱さから逃げ出すために、亜里沙と付き合い始めた。
瞬く間に僕の周りから人が去っていった。亜里沙の存在だけが頼みの綱だった。
果たせなかった約束。
何が一生君を大切にするよ、だ。
♪もう君の僕じゃない 僕の君じゃない
ステレオからは、切ないラブソングに定評のある歌声が虚しく響いていた。




