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 翌日、涼子は、残りの手紙を、ゆっくりと読んだ。

 やっぱり涙が溢れてきて仕方がなかったけれど、それでも、昨夜のように苦しくなることはなかった。

 ドアの外に、サマンサの気配を感じたけれど、それもいつの間にかいなくなったようだった。

 昨夜もきっと彼女は、部屋の前で様子を見守っていてくれたのだろう。

 サマンサの愛情は、涼子にとって、もう二度と逢えない筈の母親の愛情に再び接する事ができたような喜びを感じさせた。

 そして、傍で見守ってくれている彼女以外の親しい人々からの、優しいメッセージが今は手許に、ある。

 どの手紙も、差出人の名、その筆跡、その文面が、その人がまるでそこにいるように錯覚してしまうほどの温もりを涼子に伝えてくれた。

 マクドナルドの手紙は、彼らしい几帳面な、けれど温かさが滲み出ていて。

 マクラガンの手紙は、悠々と、伸び伸びとした筆跡で、彼の人物の大きさ、懐の深さを思い出させて。

 ハッティエンの手紙は、厳格な、正に軍人らしい彼の、隠された優しさが文字から滲み出ているような気がして。

 ボールドウィンの手紙は、お洒落な彼らしい軽やかさを纏った行間に、シャイな一面がこっそりと覗いていて。

 マズアの手紙は、生真面目な彼らしい、けれどいつも助けられた誠実さが確かにそこに在って。

 コリンズの手紙は、無表情な外見に隠れた、人間的な魅力と人生の深さを想像させて。

 アンヌの手紙は、仕事と家庭、両面で幸せを得た喜びをお裾分けしてもらえそうに思えて。

 コルシチョフの手紙は、口喧しいうるさ型に見えて実は世話好きな彼の、滅多に見せない笑顔に接した気になって。

 美香の手紙は、艦橋で凛々しい笑顔で腕組みしている立ち姿の写真の裏面に宛名を書いたものだったけれど、たった一言マジックで書かれた”We love Ryoko”から、母親のそれにも似た深い、深い愛情が感じ取れて。

 リザの手紙は、簡潔な文章に見える硬軟自在の有能な副官らしさに、女性らしい優しさと儚さが垣間見えて。

 銀環の手紙は、いつも明るい笑顔の彼女が時折見せる、誰より大人の女性らしい成熟した優しさにハッとさせられて。


 その他、同僚、先輩、部下、ロンドンで苦楽を共にした警務部員達。それぞれの、その人なりの言葉と想いが、抱えきれないほど溢れていて。


 読み終えてすぐ、涼子は一人一人に丁寧に返事を書いた。

 療養所のPXで買った、一番可愛いレターセットは、使うのに少し、勇気が必要だったけれど。

 ごめんね、ありがとう、無事でいてね、元気でね、頑張ってね、幸せにね、と口に出しながら、丁寧に、丁寧に書いた。

 時として溢れる感情に流され、筆が止まる事もしばしばだったが、無理に書こうとせず、自然の心の動きのままに、ゆっくりと、返事を書いた。

 昼食後に書き始めた返事は、書き始めると疲れも感じることなく夢中になって、全てを封筒に入れ宛名を書いた時には、陽はとっぷりと暮れ、窓から見えるレマン湖は、月の光を受けて闇の中できらきらと輝いていた。


 そして。

 夕食後、最後まで封を開けずに置いておいた、マヤからの手紙を開いた。


『親愛なる涼子様

 如何お過ごしでしょうか?

 私は、今、国に帰って、いつもと変わらぬ退屈な日々を過ごしています。

 あ、こんな事言ったら、涼子様に怒られてしまいそう!

 今のは嘘、訂正しますわ。

 ちゃんと、涼子様のご忠告通り「私にしかできない仕事を、私なりに一所懸命」頑張っているつもりです。

 でも、だけど。

 今、改めて、二月のロンドンで過ごした数日を振り返って。

 それから、我に返って、ネルフシュタインの王宮で手紙をしたためている私がいて。

 いったい、どちらが現実で、どちらが夢なのか、どうにも判断がつかないような、不思議な感覚に捉われてしまいます。

 けれど、夢だというのならば。

 楽しい夢だった、というのならば。

 涼子様の近くで、時にはお傍にいられたロンドン、が夢なのかも知れませんわね。

 特に、ピカデリーサーカス、賑やかな、お祭りの夜。

 あんなに楽しい一夜は、初めてでした。

 あの夜は、私の一生の、煌めく宝石よりも大切な、たいせつな宝物です。

 ひとは、大切な宝物を胸に抱けば、それだけで前へ進もうと思えるものなのですね。


 なんだか、このままつらつら物思いに耽りながら手紙を書いていると、いつまでも終わりそうにはありません。

 話を、戻しましょう。

 先日、サマンサ・ワイズマン博士からご丁寧なお手紙を頂戴いたしました。

 大変な、難しい手術中に私が我侭を言ったのが悪いと言うのに、大層、気にかけてお出ででした。

 涼子様からも、機会がありましたらお伝え下さい。

 ワイズマン博士は、お姿も、お心も美しく、そして優しくて温かな、なんて素敵な女性なんでしょう、マヤがそう申し上げていた、と。

 本当に、博士のお手紙には、肌理細やかな気配りが溢れていました。

 その中で、涼子様のご様子を詳しく書いて頂いておりましたので、今ではもう、心配するのはやめました。

 それまでは食事も喉を通らぬほどで、マヤは5キロ近くも痩せてしまいましたのよ!

 ……えぇと、嘘です。ちょっと見栄を張ってしまいました。ほんとは、2Kgぐらい、かな? 

 今でも、本当は心配です。涼子様とお会いしたい!

 でも、涼子様には、あんな素敵な少将軍務部長閣下がついていらっしゃるんですもの、私などの入り込む隙間などありませんわよ、ね?

 ……ふふっ。

 お判りでしょうが、これはマヤから贈る、ささやかな、皮肉、です。


 冗談は、さておき。

 ここから先、もし、お厭でしたら読まずにいて下さいませ。

 本当は、このお手紙を出そうかどうしようか、迷っておりました。

 けれど、ワイズマン博士のお手紙の中で、涼子様がお元気になった暁には。

 手紙も電話もお繋ぎする事が出来ますので、それまでは暫くお待ちを。

 そう、書かれておりましたので。


 だから、これを読まれている貴女は。

 きっと、お元気になられたんだろう、そう勝手に想像して、書き進めていくことにします。


 あの夜、私が思わず少将閣下のお車に便乗して涼子様の後を追った時や、涼子様の手術の間、閣下は大層お優しく、お話を聞かせて下さいました。

 それを聞いて、私は感じました。

 ああ、この方は、心の底から、涼子様を愛していらっしゃるんだ、私など及びもつかぬほど、深く、深く愛してらっしゃるんだ、と……。

 告白いたします。

 私は、涼子様を、本当に好きでした。いえ、今でも大好きです。

 でも、なんだか、今は。

 あの頃と比べて、今は、少なからず、涼子様への想いの質が、変化しているように自分でも思えるのです。

 4年前、初めてお逢いした時から、冬のロンドンまでは、私、確かに涼子様に、恋、しておりました。

 だけれど、今改めて、自分の心と落ち着いて対話してみますと。

 憧れ……、とも少し違うかしら?

 お友達、親友……、惜しいって感じかな? でも、違和感、あるわね。

 家族、姉、妹……、あぁ、これは違うわ。大切って意味ではその通りなのだけれど。

 ああ、なんだか、もどかしい!

 上手い表現がみつかりません。

 うん。

 つまり。

 少将閣下への想いを胸に抱いてらっしゃると言うことも全て含めて、私は涼子様が大好きなのです。

 涼子様は、私に、生きていく事の哀しみと切なさ、苦悩、それらを上回るほどの素晴らしさ、そしてそれを勝ち取る為に必要な自分自身との闘いの重要さを教えてくれました。

 私に、涼子様と同じ力があるとは思えません。

 私に、涼子様と同じ生き方、戦い方が出来るとも思えません。

 けれど。

 涼子様と出会った事で、こんな私にだって、今までより少しだけ、違う生き方ができるんじゃないのかな、と思えてきました。

 だから、今では。

 マヤは、涼子様、貴女という素敵な女性と出会えた事を、本当に、ほんとうに、心の底から感謝しています。


 涼子様との出逢いは、私にとって、まさに人生の中で一際鮮やかに煌く、大切な宝物なのです。

 あの4日間、私は本当に生きていることを実感できました。

 あのロンドンには、本当の私がいました。

 いいえ。

 涼子様と初めて出会ったニューヨークのあの日から。

 私は生まれて初めて、本当の自分と正面から向き合うことが出来たのです。


 だから、今。

 涼子様がお傍にいない、故国でも、今日この瞬間でも。

 本当の私で、いることができる。

 生きていると、実感することができる。

 涼子様を好きになった私を、愛惜しく思う事ができるようになった。

 しみじみ、そう、思えるのです。


 ああ、なんだか、自分のことばかり書いてしまいましたね。ごめんなさい。

 涼子様がお疲れになってはたいへんだから、そろそろ筆を擱きます。

 最後に、涼子様が、本当に素晴らしい幸せをしっかりと掴まれる日が来る事を、心より祈っています。

 なんの掛け値もなく、唯、ただ、純粋に、心の底から。

 貴女の幸せを、祈ります。


 涼子様。

 お元気で、そして、お幸せに。


P.S.

     ひとつ、心残り。

     涼子様とラスト・ワルツを踊りたかった。

P.P.S.S.

     私、生まれて初めて、素敵な殿方にお逢いしました。

     それは、ごめんなさい、涼子様の、少将閣下です。

P.P.P.S.S.S.

     あぁ、けれどご安心なさって。涼子様の大切な方、横取りなんていたしません。

P.P.P.P.S.S.S.S.

     お笑いにならないで。マヤは、何年でもお待ちます。

     もう一度だけで良いのです。

     お逢いしたい、です。


マヤより。


ネルフシュタインにて』


『親愛なる、マヤ・ハプスブルク……ああ!

 これじゃあ、上手く気持ちが伝えられない!


 ごめんね、マヤ。

 ほんとうにごめんなさい。こんな、馴れ馴れしい文章で。

 だけど、今の私のマヤへの思いを伝える為には、このスタイルが一番相応しいと思うから。

 怒られるのを承知で、このまま書き進めます。

 そう。

 あのロンドンの晩を思い出して、あなたのお姉さんになったつもりで、書きます。


 まずは。

 ごめんね、マヤ。

 ほんとうに心配をかけてしまって、ごめんなさい。

 (謝ってばかりね、私って。全然お姉さんらしくできないわっ! )

 私は今、スイスのジュネーヴ、レマン湖畔の療養所にいます。

 ワイズマン先生がさっき、預かっていたお手紙をくれました。

 ……と言う事は、結構良くなってきている、みたい。


 手紙の束の中に、マヤの名前をみつけた瞬間。

 嬉しかったよ、マヤ。

 そして、マヤが私なんかを真剣に心配してくれていたこと(えぇと、心配してくれたのよ、ね? )が、今更ながら、嬉しくて。

 マヤがあの危険な現場まで追ってきてくれた事。

 その上、足に、いっぱい怪我を負わせちゃった事。

 私の手術中、ずっと待合室で待っていてくれた事。

 気持ち悪かっただろうに、手術室にまで入ってくれた事。

 ワイズマン先生から、全部、聞きました。

 本当に驚いた。

 次に、顔から火が出るくらい恥ずかしくなった。

 そして最後に、嬉しくて嬉しくて、わんわん、泣いちゃいました。

 それくらい、嬉しかったよ。マヤ。


 ほんとうにありがとう。

 こんな、私の事なんか、それほどまでに心配してくれる人がいるなんて。

 それだけでも、私は幸せ者です。

 今日まで、一所懸命生きてきて、良かった。

 マヤと出会えて、良かった。

 本当に。

 マヤは私の、大切な、大切な宝物だよ。


 私も、今すぐ飛んでいって、会いたい。

 だけど、私達はもう、あのピカデリーサーカスの二人じゃなくて、お姫様と一介の公務員だもの。

 そう簡単にはいかないよね。


 そうそう。

 私、退院して社会復帰したら、国連本部に出向する事になりました。

 マヤと初めて出逢ったあの街で、もう一度暮らす日が来るなんて。

 夢みたい。

 今、改めて、マヤとの出会いからロンドンでの数日間を振り返ってみて。

 なんとなく、思います。

 ビッグ・アップル・シティは、マヤと私にとって、いろんな意味で『運命の街』だったんだな、って。


 そういうわけで、軍服とも暫しの間、さようなら、です。

 10年以上着続けた制服だから(謙虚過ぎ? 20年近く、って言った方が良いかしら? )さすがに少し淋しいけど。

 でも、今はなんだか、気分転換にそれも、いいかな、なんて。

 ワイズマン先生も、んで、あのヒト(マヤの言う、閣下、です。私は”艦長”って呼んでるけど)も、奨めてくれるし。

 美香先輩や、コリンズ、周囲の優しい皆が、それもいいよと奨めてくれて、そして私を応援してくれるてるし。

 だから、いいかな? なんて。


 ……でも私、私服、しかもスーツなんて持ってないから、どうしよう?

 なにか買わなきゃ。

 ああ、そうだ。

 零種軍装、着られなくなるんだから、パーティ・ドレスもいるのかしら。

 (お金がないから、レンタルかしらね? )

 ……って事は、うふふっ。

 ひょっとすると、次にマヤと会う時は、豪華なドレスからも知れないわよ?

 勿論、マヤの素敵なドレスには負けちゃうだろうけれど。

 えへへ。


 ああ、ごめんなさい。

 マヤや、艦長や、みんなの顔を思い出したら、泣けちゃって、少し中断しました。

 ……あれ?

 なんだか昔、こんな文句をマヤに向けて書いた気がしてきたわ。

 デジャヴ、かしら?


 ……少し疲れました。

 もう、そろそろ、筆を擱きます。

 でも、マヤ?

 貴女へ贈る手紙を、こうして書くことが出来る日が私に訪れたという事実が。

 大袈裟ではなく、本当に奇跡のようで。

 嬉しいの、私。

 ほんと、嬉しい。

 本当に、幸せよ?


 ありがとう、マヤ。

 マヤ。

 マヤ。

 マヤは、私の大切な妹、で。

 マヤは、私の大切な大切な、煌めく宝物。

 それだけは、この想いだけは、きっと一生、死ぬまで変わらない、今の私はそう言い切ることができます。


 貴女に出逢えて、心から、心の底から。

 涼子は、幸せです。


 それでは、お元気で。


 マヤの頼りない姉

涼子』


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